三木権太夫


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 三木権太夫

江戸初期の京都の豪商、両替商

Table of Contents

 概要

  • 筑前黒田家の蔵元として名高い。

    先祖は播州三木より出る。居宅は下立賣室町東へ入町なり。元浪人にて京へ引越、町人と成る。黒田家の家老栗山大膳と縁者にて、其頃は筑前屋と號す。然るに栗山事主人と出入事有て公裁に及に仍り、其砌より權太夫も黒田家の出入を被止、然其分地甲斐守家へは今以て出入す、中頃長州表の紙を藏本致候處、相使松坂屋又左衛門が引負に仍り三木家も身上半潰に成る其上甲斐守家の仕送りに、大分金銀を失ひ、諸方借銀重り當時逼塞の身分なり。

    内藤藏之介が別荘烏丸下立賣の向ひに、三木權太夫が宅有れば、(略)三木は本姓黒田なり、先祖は筑前太守の息にて、武門を嫌ひ、洛に來て町人と成る、如水長政時分の事也、委く不考、然るに子細有りて、本家よりは、其の後不通なれ共、分地の黒田家よりは、今以て合力有となん、

    両方ともに同じような内容で、三木家は元は黒田と同族だが、如水や長政の頃に京都に来て町人になったとする。栗山大膳とも縁者で、その頃は「筑前屋」と号したという。のち栗山大膳が事件を起こしてから黒田家(筑前藩)との取引を停止したが、甲斐守家(黒田長興に始まる秋月藩)とは取引を行っていたとする。しかし結局この秋月藩への大名貸しで三木家は潰れたとする。

北野肩衝
元は三好宗三や津田宗及らが所持した名物茶器で、公家の烏丸大納言家に移った。天正15年(1587年)の北野大茶湯に出したところ秀吉の目に止まり、「北野肩衝」と呼ばれるようになった。烏丸資慶の時に金一万両にて三木権太夫に売ったという。のち三井八郎右衛門家に移り代々相伝し、酒井忠義、再び三井高棟から三井文庫へ移り、現在は三井記念美術館所蔵

 系譜

             栗山大膳利章次女
               │
   三木孫右衛門清閑──三木吉十郎了清──三木権太夫
       │
     ┌香山妙春
黒田職隆─┴黒田官兵衛孝高

※母子関係が不明なため父子の関係のみに留めている。

 祖父:三木孫右衛門清閑

  • 三木権太夫の祖父は三木孫右衛門重棟といい、清閑と号したという。
  • この清閑が黒田官兵衛孝高の妹である香山妙春を娶っており、官兵衛と義兄弟の間柄である。
  • 清閑は、元は惣兵衛と名乗ったといい、のち京都で商人となり茶人でもあったという。
    三木孫右衛門重棟が別所重棟同人であり、その甥が三木城主で自害した別所長治であるとする説があるが、関係はよくわからない。しかし黒田職隆の娘や栗山利章の娘を娶っていること、筑前福岡藩の大坂での蔵元になっていることを考えると、一定の力を持った一族であったのではないかと思われる。

 父:三木吉十郎了清

  • 三木清閑の子が三木吉十郎了清。
  • 吉十郎了清は、栗山善助利安の子である栗山大膳利章の次女を娶っている。のち栗山大善が事件を起こしたため、三木氏は国許を追われ京都に移ったという。
  • 三木了清の子が三木権太夫であるという。

 関連項目


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