備前岡山池田家の江戸藩邸
備前岡山池田家の江戸藩邸
- 備前岡山池田家の江戸屋敷の成り立ちと贈答品のまとめ。
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概要
- 美濃池田氏は、池田恒興(勝入斎)の生母養徳院が信長の乳母であり、後年信秀の側室にもなっている。乳母子の恒興自身も幼少から信長の小姓として仕えて重用された。本能寺の変後の清州会議では柴田勝家らに対抗して秀吉らと三法師を擁立、摂津12万石、ついで美濃大垣城に入り13万石を領した。嫡子の元助(之助)も岐阜城に入っている。しかし、小牧・長久手の戦いで父子共々討ち死にしてしまい、家督は次男の池田輝政が継いだ。
- 池田輝政は、豊臣政権では豊臣一族に準じた扱いで遇され、東三河で15万2千石を領した。秀吉の死後は家康に近づき、関ヶ原の戦い後播磨姫路52万石に加増転封された。継室に徳川家康次女の督姫を迎えたため、その子である次男忠継は備前岡山28万石、三男の忠雄も淡路洲本6万石を与えられた。さらに弟長吉も因幡鳥取6万石を領したため、これら一族での総計は92万石に達し西国将軍とあだ名された。この後、前室の子利隆系と、継室督姫の子である忠雄系は二流に分かれ存続することになる。
- 池田利隆は、池田宗家として播磨姫路藩を継いだ。その子、光政の代に幼少を理由に叔父忠雄との領地交換の形で因幡鳥取藩32万5千石に転封されるが、その後甥である池田光仲が幼少であったため再び備前岡山藩31万5千石へと転封された。その後幕末まで利隆-光政の系統が備前岡山藩主を務めた。
美濃池田氏系図
池田恒興──┬池田元助───池田由之【天城池田家】 │ │ ┌池田利政【鴨方藩主】 │ ├池田政虎(岡山藩士) ├池田輝政──┴池田利隆【姫路藩→岡山藩】 │ │ ├────┬池田光政【鳥取藩→岡山藩】 │ │ 福正院鶴姫 └池田恒元【山崎藩】 │ │ │ │ │ ├───┬池田忠継 【因幡鳥取藩】 徳川家康─│─督姫 ├池田忠雄───┬池田光仲 │ ├池田輝澄 └池田仲政 │ ├池田政綱 │ ├池田輝興 │ └孝勝院振姫(伊達忠宗室、光宗母) │ │ 【因幡鳥取藩→備中松山藩】 ├池田長吉──┬池田長幸 │ ├池田長政 │ ├池田長頼 │ └池田長賢 └池田長政【片桐池田家】
歴代藩主
代 | 藩主 | 院号 | 在任 | 理由 |
祖 | つねおき 恒興 | 護国院 | 討死 | |
もとすけ 元助 | 正宗院 | ※之助とも。 | 討死 | |
ながよし 長吉 | 隣松院 | ※因幡鳥取藩 | ||
初 | てるまさ 輝政 | 国清院 | 天正12年(1584年) 慶長18年(1613年) | 薨去 |
2 | としたか 利隆 | 興国院 | 慶長18年(1613年) 寛永9年(1632年) | 卒去 |
3/初 | みつまさ 光政 | 通源院 | 寛永9年(1632年) 寛文12年(1672年) | 致仕 |
2 | つなまさ 綱政 | 曹源寺 | 寛文12年(1672年) 正徳4年(1714年) | 卒去 |
3 | つぐまさ 継政 | 保国院 | 正徳4年(1714年) 宝暦2年(1752年) | 致仕 |
4 | むねまさ 宗政 | 寿国院 | 宝暦2年(1752年) 宝暦14年(1764年) | 卒去 |
5 | はるまさ 治政 | 顕国院 | 宝暦14年(1764年) 寛政6年(1794年) | 致仕 |
6 | なりまさ 斉政 | 観国院 | 寛政6年(1794年) 文政12年(1829年) | 致仕 |
なりてる 斉輝 | 龍泰院 | (斉政世子) | - | |
なりしげ 斉成 | (斉政世子) | - | ||
7 | なりとし 斉敏 | 雄国院 | 文政12年(1829年) 天保13年(1842年) | 卒去 |
8 | よしまさ 慶政 | 天保13年(1842年) 文久3年(1863年) | 致仕 | |
9 | もちまさ 茂政 | 文久3年(1863年) 慶応4年(1868年) | 致仕 | |
10 | あきまさ 章政 | 慶応4年(1868年) 明治2年(1869年) | 版籍奉還 | |
11 | のりまさ 詮政 |
大名小路本邸
大名小路
慶長9年(1604年)ごろ~
- 現在の丸ビル、三菱商事ビル、郵船ビルディング、行幸通りの一帯。
経緯
【池田輝政】
- 慶長8年(1603年)2月、異母弟の忠継が備前岡山藩主に任じられると、幼年の忠継に代わって池田利隆が執政代行として3月に岡山城に入った。実際には父輝政の命を受けていたとされる。
- 慶長9年(1604年)ごろに大名小路本邸地を拝領。
- 慶長14年(1609年)岡山城で新太郎(光政)誕生
- 慶長15年(1610年)将軍秀忠が大名小路本邸に御成。
- 慶長16年(1611年)北に隣接する会津藩邸より出火し、焼失。この頃、利隆が江戸邸家臣に14ヶ条の法を定めている。
池田利隆、法令十四ケ条を江戸邸の家臣に授く、
- 慶長16年(1611年)に江戸に赴いて秀忠に謁見し、国俊(また新藤五とも)の脇差を与えられる。
播磨姫路城主池田玄隆「利隆、」の子新太郎「光政、」家康に謁す、
【池田利隆】
- 慶長18年(1613年)正月25日、父池田輝政が死去したため、6月に池田利隆が家督を継ぎ姫路藩2代藩主となった。志津の刀を拝領。
播磨姫路城主池田輝政卒す、長子玄隆「利隆、」嗣ぐ、幕府、播磨三郡を割きて、次子忠継に加賜す、尋で、玄隆、忠継、駿府及江戸に至り、之を謝す、
- この時、異母弟池田忠継の岡山藩執政代行をしていたため、利隆と光政は共に岡山城から姫路城に移った。
- 寛永18年(1641年)利隆と光政は共に徳川家康に謁見する。このとき家康は5歳の光政を膝下近くにまで召して髪をかきなでながら「三左衛門の孫よ。早く立派に成長されよ」と言葉をかけた。その後脇差を与えるが、光政は家康の前で脇差をするりと抜き、じっと見つめながら「これは本物じゃ」と語ったという。家康は光政の態度に驚き、笑いながら「危ない、危ない」と言って自ら鞘に収めた。そして光政が退出した後、「眼光の凄まじさ、唯人ならず」と感嘆したと伝わる。
東照宮に御目見ありしハ、五ツの御歳なり、其時御脇指を御拝領、御膝もと近くおりしまに、東照宮、公(光政)の鬢髪をかきなてゝ、三左衛門の孫なり、早く人ニなり給へと仰有、公御拝領の御脇指をするりと抜き御覧有り、東照宮、これハあふなき事よとて、御手つから柄を持給ひ、鞘に納められたり、公の退出給ひし後、眼光のすさましき、只人ならすと東照宮上意なりたり。
- 元和元年(1615年)大坂の陣の時に、池田利隆夫人の福正院鶴姫および公子三五郎(池田恒元。備前児島藩主のち播磨山崎藩主)がこの本邸に住した。
【池田光政】
- 元和2年(1616年)6月13日父の利隆が死去。翌日に家督を相続している。
播磨姫路城主池田利隆京都に卒す、子新太郎「光政」嗣ぐ、
- しかし元和3年(1617年)3月6日、幼少を理由に、因幡鳥取32万5,000石に減転封となった。
幕府、播磨姫路城主池田新太郎「光政、」の封を転じて、因幡、伯耆二国を与へ、鳥取城に居らしむ、
光政の後に入ったのは譜代の本多忠政(本多忠勝の嫡男)だが、忠政自身は15万石で一家をあわせても30万石であった。その後も要衝姫路の地には奥平、越前松平、榊原、越前松平、本多、榊原、越前松平と譜代大名が入れ替わり立ち代わり15万石(奥平のみ18万石)で配置されるが、幼君が生まれると転封されることを繰り返す。寛延2年(1749年)に雅楽頭系酒井家宗家9代の酒井忠恭が15万石で移るとようやく安定し、そのまま明治維新まで存続した。
- 元和4年(1618年)2月20日、光政帰国の暇乞い。国俊の刀を拝領。
幕府、因幡鳥取城主池田幸隆「光政、」に暇を賜ふ、是日、幸隆、江戸を発して、国に帰る、
- 元和6年(1620年)12月、光政江戸に参覲。
因幡鳥取城主池田幸隆、「光政、」江戸に参勤す、
- 元和7年(1621年)4月16日、光政帰国の暇乞い。左文字の刀を拝領。27日伏見。
幕府、因幡鳥取城主池田幸隆「光政、」に暇を給す、是日、幸隆、江戸を発して、国に帰る、
- 元和8年(1622年)4月光政、江戸に参覲。
因幡鳥取城主池田幸隆、「光政、」江戸に参覲す、
- 元和9年(1623年)7月、15歳で元服し、当時名乗っていた幸隆(よしたか)を、第3代将軍・徳川家光の偏諱を拝受し光政と改める。家光の上洛に従って上洛し、従四位下・侍従に叙任される。
- 寛永3年(1626年)8月の家光上洛にも従い、左近衛少将に叙任された。
- 寛永5年(1628年)1月26日、本多忠刻の娘・勝子(円盛院)を大御所の秀忠の養女として正室に迎えた。
秀忠、播磨姫路城主本多忠政の子故同忠刻の長女を養ひ、因幡鳥取城主池田光政に配す、
円盛院勝子は、本多忠刻と千姫の間に生まれた娘。当時姫路藩主は平八郎忠勝の嫡男の本多忠政。嫡男の忠刻は、支藩である姫路新田藩の初代藩主となっていたが、結核のために寛永3年(1626年)5月7日に没。享年31。このために忠刻の弟である政朝が世子となり、寛永8年(1631年)に父忠政の死に伴い姫路藩2代藩主となった。旧領である上総大多喜は、弟や従兄弟へと分けられた。
- 寛永8年(1631年)光政妹の長光院長姫が土佐3代藩主山内忠豊と婚姻。※4代山内豊昌らを産んだ。
土佐高知城主山内忠義の嗣子忠豊、因幡鳥取城主池田光政の妹と納采す、
- 寛永9年(1632年)4月に伯父である岡山藩主池田忠雄が死ぬ。忠雄嫡男の光仲が相続するが、3歳で幼少を理由に光政の因幡鳥取藩と国替えを行うことになる。
- 以後、池田宗家(光政の系統)は備前岡山藩31万5千石を治めることとなった。
幕府、因幡鳥取城主池田光政の封因幡・伯耆を、備前に移し、備前岡山城主池田勝五郎「光仲」の封備前を、因幡・伯耆に改む、
(姫路藩→鳥取藩→岡山藩) 池田輝政─┬利隆──光政──綱政 │ ├忠継 │ │(岡山藩→鳥取藩) └忠雄──光仲──綱清
- 寛永9年(1632年)12月、邸内より出火。
この時、松平中務少輔(蒲生忠知)、竹中采女正(重次)、細川越中守(忠利)、前田大和守(利高)、山名主殿(矩豊)、松平筑前守(前田利常)、松平周防守(康重)、松平五郎(榊原忠次か)、加々爪民部少輔(忠澄)、藤堂大学頭(高次)などの邸が類焼した。
- 寛永10年(1633年)12月、江戸藩邸焼ける。
備前岡山城主池田光政の江戸の亭焼失す、
- 承応2年(1653年)12月11日、光政の子三左衛門綱政が將軍家綱に御目見得する。天享吾妻鑑では23日とし、雲次を献上、行光御腰物を拝領したとする。
癸酉、家綱、熊本城主細川六丸・萩城主毛利千代熊丸・米澤城主上杉喜平次を召て、首服を加へ、偏諱を賜ふ、尋て松平光長の子徳千代、淺野光晟の子岩松丸、池田光政の子三左衛門、亦同し、
- 明暦3年(1657年)の明暦の大火で類焼。
- 寛文元年(1661年)正月の大火で類焼。
- 寛文12年(1672年))閏6月9日、嫡子の綱政に家督を譲り隠居。
【池田綱政】
- 寛文12年(1672年)綱政が襲封の挨拶を行っている。この時、次男の政言に備中の新田1万5,000石、三男の輝録に同じく1万5,000石を分与している。「若狭正宗」を父光政の遺物として献上した。
乙酉、岡山城主池田光政致仕す、子綱政嗣く、幕府、請を允して、次子政言に新墾田二万五千石、三子輝澄に一万五千石を分ち賜ひ、支封と為す、
- 天和2年(1682年)光政死去、享年74。
- 享保2年(1717年)正月、井出三郎右衛門宅より出火し、類焼。この時は、分家池田政晴(備中生坂藩2代藩主)の愛宕下屋敷から、さらに内匠頭池田政倚(備中国鴨方藩2代藩主)の鳥越邸に移っている。
- 安永元年(1772年)2月、目黒行人坂より出火して類焼。この時、武具蔵、数寄蔵屏風蔵などが焼け、宝物が悉く焼けてしまう。
- 安永2年(1773年)8月落成。
明治後
- 明治維新後に軍用地を経て明治23年(1890年)3月に三菱財閥に払い下げられた。長屋門については岩崎家により高輪に移設されている。
高輪岩崎別邸門
元丸の内藩公二門と稱せられたるものゝ一なる、備前岡山藩主池田侯江戸上屋敷の門にして、舊大名小路に面して設けられたりしが、明治廿三年三月丸之内の地所三菱に拂下げらるゝに及びて取毀たれ、一旦高輪邸内に搬移され、後三十四年現在の位置に再建せらる。唐破風兩出番所を有する長屋門に属し、中央に大門左右に潜門各一を開きたる壮大なる門にして、再建の際茅葺とせるも四十一年二月再び瓦葺に改られしと云ふ。従つて屋根勾配は多少舊態を失ひしものあるべしと雖ども、往時諸侯上屋敷の長屋門の舊観を窺ふに足るべき遺構なりとす。
- 当時一帯は一面の野原となっていたため「三菱ヶ原」などと呼ばれていたが、明治27年(1894年)以降にレンガ造りのオフィスビルが建築され始め、大正3年(1914年)に東京駅が開業すると、一帯はオフィス街へと変貌した。
大名小路中屋敷
大名小路
寛永5年(1628年)ごろ~
- 大名小路前邸。
- 大名小路本邸の東隣にあった中屋敷。東京駅の南西部分にあたる。
拝領時期について
- もとは筑前黒田家の藩邸があった場所で、いつごろ池田家に譲渡されたかは不明。寛永古地図ではすでに池田家となっており、一説に寛永5年(1628年)ごろとされる。池田家でもこの邸地をいつ拝領したのかについて議論があったようで、次のような長文が残っている。
岡山城主池田光政の大名小路前邸を賜ふ、亦是年か
池田光政邸
岡山城主池田光政ノ大名小路前屋鋪ハ、給賜ノ時日細ナラズ。姑ク夫人入輿ノ年ニ繁ケテ此ニ掲録ス。備前邸考ニ、
大名坊前邸
本邸ノ前ニアリテ西面ナリ。元此地は筑前家黒田氏ノ邸ナリシ事、古圖ニ見ユ慶長ノ圖。其後何レノ年我邸トナリシト云事舊記ニ見ル所アラス。或ハ圓盛夫人御入輿ノ時元和九年結婚ノ約定リ、寛永五年入輿アリ賜ヒシナトモ申シ傳ルニヤ。實ニ郭内ニ向ヤシキアル御家ハ他ニ類ナキ事ナレハ、將軍家ノ殊遇ニ依テ此邸ヲモ賜ハリシカ。サレト舊記ニ見エサレハ必トシカタシ。世ニ傳ルハ、此記本邸ヨリ前邸ハ廊下アリテ大路ノ上ヲ往来セシナト云ヘリ。是亦古書ニ見ル處ナシ。殊ニ烈公謙遜ノ御質カヽル設アルヘシトモ思ハレス。サレト古クヨリ云ナラハシタル事ナレハ、爰ニ附テ後考ヲマツ又一説ニハ、此邸ハモト池田出羽由之由之ハ護國公ノ御嫡孫、正宗世子ノ長子、今出雲政徳ノ元祖ノ拝領屋敷ニテ、由之關東下向ノ時ハ此邸ニ居住アリ、由之死後自カラ御中屋敷トハナリヌ、夫故後々マテモ出雲殿ヤシキト唱ヘシ由云ヘリ。按スルニ、由之ハ池田家ノ嫡流ニテ、其比威権甚盛ニ將軍家ノ御覺エモ他ニ殊ニシテ、別ニ所領賜リテ召出サルヘキ結構アリシニ、神戸平兵衛ニ殺サレシ故其事止ヌル由云傳フレハ、筑前家ノ上ヶ屋敷ヲ賜リシモ知ヘカラス。筑前家今ノ霞ヶ關ヘ移ラレシ年紀ト由之ノ刺レシ年紀元和四年ト引合セナハ、考ノ一端トモナルヘシト筑前家ニ糺問セシカト、霞ヶ關ハ慶長中拝領トノミ云傳ヘテ、大名少路ノ邸アリシ事サタカナラヌ由ナレハ、是非辯シカタク、姑ラク傳聞ノ説ヲ載テ後考ヲ俟ツノミ。イツレニモアレ、元和中ヨリ寛永ノ初年マテニ置レシモノトオホエテ、寛永ノ古圖ニハ已ニ此邸ニ烈公池田光政ノ御名ヲ記シタリ。偖其比ハ御館有テ福照太夫人爰ニ住セ玉ヒヌ。但シ地面ハ今ノ半ハカリナリシト見エタリ。
「池田出羽由之」とは、天城池田家初代の池田由之の事。池田恒興の長男の池田元助の子。池田輝政の兄。
池田由之の父池田元助は、小牧長久手の戦いで父の池田恒興と共に討死しており、当時由之は8歳であったために池田家の家督は恒興次男の池田輝政に引き継がれた。輝政はこれを不憫に思い、慶長6年(1601年)には播磨佐用で2万2千石を与えている。慶長18年(1613年)に叔父の輝政が死に、利隆が継いだ際に由之は明石城へと移る。さらに元和2年(1616年)に利隆が死ぬと嫡子光政は幼少を理由に因幡鳥取へと国替えされてしまい、その際に池田由之も米子城へと移されている。池田由之は元和4年(1618年)に江戸から米子へと戻る途中に大小姓の神戸平兵衛により刺殺された。享年42。
「大名小路前邸」は元、この由之が拝領していた屋敷で、そのために後々まで「出羽殿屋敷」と呼ばれたという。また黒田家の藩邸が霞が関に移った年も池田由之が刺殺された年と同じである為、恐らくそうであろうとしている。なお黒田家でもこの地を拝領した年を記録しておらずただ慶長の頃のみだとしている。
- まとめると、岡山藩池田宗家が拝領した年月の候補は次のようになる。これをもって「元和年間の中頃~寛永年間の初年」までとする。
中屋敷
- 池田家ではこの大名小路前邸を中屋敷とし、藩主の隠居後の屋敷となった他、世継がここに住んだ。
- 明暦の大火で焼失。
- 寛文元年(1661年)正月に焼失。
- 寛文5年(1665年)6月2日落雷。
- 元禄11年(1698年)9月6日焼失。
- 享保2年(1717年)1月22日焼失。
- 安永元年(1772年)2月29日焼失。
- 文化3年(1806年)3月4日焼失。
- ※明暦から文化まで8度焼失したという。
明治後
- 明治維新後に司法省の敷地となる。司法省が霞が関に移転した後に、中央停車場が設けられた。その後鉄道網の整備が進み、大正3年(1914年)12月には赤レンガ造りの東京駅が誕生した。
大名小路別邸
大名小路
2785坪か
- 場所は不明。
- 「前邸ノ南ニアリテ」、池田家の後「山名主殿矩豊(交代寄合山名豊政の長男)」が入ったという。寛文延宝ごろの絵図に、津山家と土井家の間に山名主殿と書かれているところがそれだとする。
- 正保年間ごろに入手。
- 後に入った山名家では2785坪あった。
- 慶安2年(1649年)10月11日、
是頃、岡山城主池田光政の別邸を大名小路に賜ふ、
大名少路別邸
此邸所在及ヒ坪數等舊記古圖ニサタカニ見エサント、凡前邸ノ南ニアリテ二千七百八十五坪ノ邸ナリシニヤ。此邸ヲ其比新御屋敷ト唱ヘシ事、當事ノ記録ニ見エタリ。其置レシ年月モ舊記ニ見ル處アラサレト、正保元年ノ記録ニ、烈公御歸國ノ時諸邸ノ手當定メラレシ條、本屋敷向屋敷浅草鳥越屋敷ノ三邸ノミナレハ、是ヨリ後ニ置レシ事ハ明ラカナリ。又福照院殿寛永ノ比ヨリ向屋敷ニ住セ玉ヒシニ、新御屋敷ヘ移ラセ慶安ノ末ヨリ承応元年マデノ間也承応元年世子曹源公ノ御事移ラセ玉ハン爲ニ、其跡ノ館修造アリシ事見エタレハ、此比ハ已ニ此邸アリシ事著ルシ。サレハ正保ヨリ慶安ノ末マテノ間ナルヘシ。想フニ慶安二年十月五日備後守新ニ宍粟ニ封セラレ玉ヒシ時、今マテ松平周防守ノ居ラレシ屋敷ヲ寛永ノ圖一本防州ノ屋敷ハ常磐橋ノ内道三橋ノ北詰ニアリ。今戸田采女正ノ邸是ナリ、見行ノ印本其外多クハ西丸下ニアリ。今所考ナシ賜ヒシ由舊記ニ見エテ、其後此邸ノ事見處ナシ。備後守殿ハ此時已ニ鳥越邸ニ住セオハセシカハ、直ニ彼邸ヲ進ラセラレ、其代リニ此度ノ拝領ヤシキヲ御本家ヘトラセ玉ヒシニハアラヌカ。後年信州殿本所拝領ヤシキヲ鳥越トカヘラレシモ此例也サアランニハ、慶安二年ノ冬拝領アリテ、同三四年ノ間ニ土木成就シ福照夫人爰ニ移ラセ、承応元年慶安五年也向屋敷修造アリテ、同二年世子ノ移ラセ玉フト云ヘルモ、年序能叶ヘルカ如シ。サレト是等ノ事、志明文アラサレハ、タヽ愚按ヲ記シテ後考ヲ待ツノミ。
- 明暦の大火で焼ける。
明暦三年正月十八日ノ大火ニ本邸前邸ト同シク災ニカヽル。
- 明暦3年(1657年)3月3日に上地。
山名主殿屋敷ヲ評定所トナサレ、即今傳奏屋敷ノ北隣ナル評定所是ナリ其代地我中屋敷ヲ山名家ヘ下サルヽ旨台命アリ。是即チ此邸ノ事也
交代寄合山名矩豊及医官六人の龍ノ口屋鋪を収めて、評定所を営造し、矩豊を岡山城主池田光政の大名小路別邸に、医官を八代洲河岸に移す
築地中屋敷
築地
5300坪
寛永元年(1624年)~
- 寛永元年(1624年)に5300坪を取得。
- 岡山藩では、ここを蔵屋敷として用いていた。
- 当時、藩邸前には築地川が堀として整備されており、藩邸前から南東対岸に備前橋がかかっていた。現在築地川は埋め立てられているが、備前橋の欄干の一部が公園の南西側(備前橋第三駐輪場側)に残る。
愛宕中屋敷
- 愛宕下にあった屋敷地。
- 現在の新橋駅桜田公園の南側(港区新橋4丁目11)あたり。南隣には遠山左衛門尉景元の屋敷があった。
- 当時愛宕神社を含む一帯は小高い丘となっており、愛宕山と呼ばれた。
大崎下屋敷
池田山
3万7614坪
- 現在の東五反田5丁目の池田山一帯。
目黒川の河川敷から池田邸を見ると、小高い丘の上にあるように見えたため、いつしか池田山と称されるようになったという。
拝領の経緯
- 3代藩主池田光政の時に明暦の大火が起こり、岡山藩では丸の内大名小路の拝領地にあった上屋敷のほか、3ヶ所の屋敷を焼失してしまう。
- 岡山藩は、浅草三十三間堂前に中敷地を拝領するが、翌年にこの土地を相対替で下谷寺町の土地を得ると、そこに下谷に屋敷を整備したが、これも寛文の大火で焼失する。
- そこで下谷屋敷を返上する代わりにこの大崎下屋敷の土地を願い出てこれが許された。さらに、周辺の大和新庄藩桑山修理亮家(一玄)、上総飯野藩保科越前守家(正景)から、合計1万5826坪を抱屋敷地として購入する。
- 寛文10年(1670年)4月に、抱屋敷地に隣接する1万1528坪が下賜され、合計2万7354坪の広大な屋敷地を入手した。
土地拡張
- 池田家ではその後も周辺の土地の購入を続け、宝永5年(1708年)には3万7614坪であったという。
- 天和2年(1682年):津田屋敷1598坪
- 貞享2年(1685年):平岡市十郎屋敷5648坪
- 宝永5年(1708年):表門の左右3014坪
- ※さらにこの他に、大崎村地主源兵衛から600坪、正徳元年(1711年)に山の御茶屋腰掛56坪(地主同上)を合わせ、3万8280坪となっている。
- こうして得たや敷地内には、御菜園のほかに材木林もあり、明和9年(1772年)の大火で大名小路上屋敷が焼失したときには、松や杉合わせて1000本余りが提供されたという。安政2年(1855年)10月の地震の際にも同様に杉檜など1000本あまりの木材が提供されている。
経緯
- 天和2年(1682年)深川屋敷を手放すことになり、上物を大崎邸に移している。
- 享保2年(1717年)本邸と築地邸が大火で焼けると、池田綱政の側室栄光院幸品(継政、政純らの生母)が移ってきている。
- さらに享保4年(1719年)に三田台町の火災で土佐藩の別邸が焼けたため、綱政の娘で土佐藩5代藩主山内豊房に嫁いでいた玉仙院菊姫がここに避難ししばらく逗留していた。
- 享保4年(1719年)3月23日に山の茶屋完成。
- 享保17年(1732年)3月28日に鳥越邸が焼けたため、綱政の庶子池田軌隆がこの邸に移り、4月26日に鳥越邸に戻っている。
明治後
- 明治2年(1869年)下賜。
二年正月廿九日
備前藩大名小路邸向藏屋敷ヲ上地セシメ、大崎村邸従前ノ通リ下賜ス。
池田章政ヘ達
大名小路邸向藏屋敷ノ儀ハ、早々差上可申、尤無餘儀事情候ハヽ、當分拝借ノ儀、別可願出候事。
同上
大崎村邸、従前ノ通下賜候事。
備前侍従内澤井權次郎願辯事宛。
弊藩屋敷、別紙ノ通大名小路二ヶ所、築地赤坂大崎村各一ヶ所ツヽ、都合五ヶ所有之。是迄主人詰合ノ節ハ、家來ノ者右屋敷々々ヘ相詰サセ居申候處、今般ノ御達ニ付、別紙繪圖面ノ通奉願候付テハヽヶ所相滅シ、人數容リ難ク、既ニ此度供奉被仰付罷越候ニ付、無攄向屋敷北隣拝借仕居候得共、長屋等モ手狭ニ付、家來ノ者共住居向ヘ差置、萬端差支ノ儀モ有之、此後トテモ同様ノ儀臨時他邸拝借亦ハ相對借等仕候様ニテハ、不都合ノ次第モ有之、且先般築地屋敷御用ニ付差上、代地ノ儀ハ追テ可被下旨御達モ有之候儀、旁以右築地并赤坂兩屋敷代トシテ、相當ノ御場所拝領被仰付被下候様願上候。以上。
下屋敷
大崎村
一、三萬七千六百拾四坪。
右ハ此度被仰出御座候付、可相成候ニ御座候ハヽ、右五ヶ所ノ内、別紙繪圖面ノ場所拝領被仰付候様仕度奉願候。以上。
二年十一月四日 備前侍従内澤井權次郎
- 明治に入った後も池田公爵邸として利用していたが、大正の末頃から分譲されていった。その中には、上皇后美智子の実家、正田家(日清製粉創業家)の邸宅もあった。
- 品川区が、庭園を保存すべく奥庭部分7000平方メートルを当時の地主であった青果市場から購入し、昭和60年(1985年)に池田山公園として開放された。※隣接するNTT東日本の関東病院も当時の大崎下屋敷地。
麻布邸
麻布古川
寛文8年(1668年)~延宝6年(1678年)
- 麻布古川にあった屋敷。
- この土地は善福寺の所有で、借用していたために善福寺屋敷とも呼ぶ。
- 寛文8年(1668年)2月に借地の契約。その月の4日に世子(池田綱政、曹源院)のいた下谷邸に火災があったために急いで建造され、ほどなく完成したため綱政と正室の千子(真証院、丹羽光重の娘)とともに、浅草邸より移ったという。
- 寛文9年(1669年)7月21日、振姫(池田綱政の娘、連珠院。本多忠国正室)がこの邸で誕生している。
- 寛文10年(1670年)3月、池田綱政は江戸参府するが病で倒れていた際に上使により雲雀を賜ったのがこの屋敷とする。
- 寛文12年(1672年)池田光政は、隠居後この屋敷で過ごしたといい、明くる年延宝元年(1673年)正月元日には本邸で家臣の挨拶を受けてまた麻布邸に戻っている。
- 光政の正室勝姫(円盛院、本多忠刻の娘)は、綱政の長女松姫(涼泉院、陸奥福島藩主堀田正仲の正室)を養育していたが、それもこの麻布邸であったという。
- 延宝6年(1678年)、土器町の屋敷が完成したことなどもあり、この麻布邸は手放している。
角筈邸
豊島郡角筈村
1万6557坪
寛文3年(1663年)~宝永5年(1708年)
- 鳴子村にも面していたため鳴子邸とも。
- 寛文3年(1663年)9月、光政の代に一帯を買い上げ。
- 寛文5年(1665年)12月完成。
- 寛文11年(1671年)に南隣の長谷川隼人邸3558坪、加藤次郎左衛門邸1633坪を購入し増築した。
- 池田光政は隠居後この邸に住んだというが、池田家ではそれを誤りだとする。
- 池田恒元(備前児島藩主のち播磨山崎藩主)の娘の於久(盛久院)は板倉重良に嫁いでいたが、天和3年(1683年)に板倉邸に火災があった際にこの角筈邸に移ったという。
板倉重良は、三河深溝藩主、中島藩主、下野烏山藩主であった板倉重矩の長男。重矩の長男だったが、寛文12年(1672年)に病気を理由に廃嫡された。翌年に父が死ぬと弟の板倉重種が家督を継いだが、天和3年(1683年)に重種が隠居すると、板倉重種の子の重寛と板倉重良の長男重宣が、相続をめぐって騒動となる。幕府の裁定により、重種の領地下野烏山5万石のうち、3万石を重寛、2万石を重宣が相続することになり、重宣は上総高滝藩主となった。
一説に、盛久院於久が、家督相続騒動の際に叔父である池田光政の力を利用するために自分の産んだ子である重良の長男重宣と共に移ったのだともいう。池田利隆──┬池田光政─────┬池田綱政───────池田継政 │ ├池田輝録(備中生坂藩主) │ ├池田政言(備中鴨方藩主) │ ├慈雲院奈阿姫 │ ├靖厳院通姫輝子 │ ├富幾姫 │ ├左阿姫 │ └祥雲院房姫 │ ├池田恒元─────┬池田政周 ├池田政貞(早世) ├盛久院於久(板倉重良正室) └長光院長姫 ├蕃子(池田重教正室) (山内忠豊正室) └娘(竹中重長正室のち池田政弘室)
- 宝永5年(1708年)に松平摂津守義行(尾張藩主徳川光友の次男で、美濃高須藩の初代藩主)から所望され、金三百両で譲った。そのため、これより後は高須別邸と呼ばれた。
下谷屋敷
下谷寺町
明暦3年(1657年)~寛文10年(1670年)
- 明暦の大火後の明暦3年(1657年)に、相対替で入手した屋敷地。
- 池田家では、これを世継の太郎(後の池田綱政)および正室である丹羽光重の娘千子の屋敷とした。
- しかし寛文8年(1668年)の寛文の大火で焼失。
- 寛文10年(1670年)に手放している。
その他
- 鳥越邸
- 浅草元鳥越町。6449坪あった。
寛永年間の末頃に入手。
- 深川屋敷
- 深川大工町にあった屋敷。
万治3年(1660年)~天和2年(1682年)。
- 浅草邸
- 浅草田島町。
3600坪あった。
- 伊皿子邸
- 荏原町、4415坪。
寛文8年(1668年)~延宝元年(1673年)。
- 土器町
- 麻布狸穴町、1万2198坪
延宝元年(1673年)~宝永元年(1704年) - 三河町邸
- 三河町、神田橋北
727坪
元禄3年(1690年)~宝永4年(1707年) - 鍛冶橋邸
- 丸の内3丁目。元東京市役所内。
元禄9年(1696年)~元禄11年(1698年) - 本所邸
- 本所西町、2700坪
享保2年(1717年)~寛政4年(1792年) - 三十軒堀邸
- 銀座3丁目
- 久保町邸
- 芝愛宕下、1800坪
寛政4年(1792年)取得 - 深川御茶屋
- 詳細不明。「慶安四年深川御茶屋始テ御建有之云々」
- 浄楽寺屋敷
- 詳細不明
- 善正寺屋敷
- 詳細不明
関連項目
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