信国重包(刀工)
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信国重包(のぶくにしげかね)
概要
- 享保6年(1721年)、将軍吉宗の命により江戸芝浜御殿で造刀し、はばき元に一葉葵を彫ることを許され帰郷後「正包」と銘を改めた。
松平筑前守繼高が領地の刀工信國。重包も府にめされ。御刀三口。差添二口を鍛ひて奉る。御差添は不動國行の刀を摸されしとなり。
- 享保13年(1728年)12月10日没。
享保の浜御殿での鍛刀
享保4年~5年:刀工調べ
- 享保4年(1719年)11月3日、将軍吉宗は久世大和守を通じ、諸藩に対し、領内に居住する刀工の名簿を提出するよう命じている(享保調刀工名簿)。筑前福岡藩では、これに応じて12月25日に刀工6名の名簿を提出している。
- 吉宗は翌年3月25日、その刀工の中から優工を選び作品を提出するよう命じており、福岡藩では5月25日に信国重包の刀一口、さらに9月16日に刀一口と脇指一口を提出したところ、9月28日老中戸田山城守より信国重包を江戸へ上らせるよう命じられる。
戸田山城守忠真。三河戸田氏の出で、人質時代の徳川家康(竹千代)を織田信秀に送りつけた戸田康光の弟である戸田忠政の家系(田原戸田家)。父は老中で佐倉藩主の戸田忠昌。
忠真は家宣→家継→吉宗と歴代将軍に仕えており、この頃は下野宇都宮藩主。正徳4年(1714年)より老中。
享保6年:江戸
- 信国重包は12月17日に筑前を出立し、翌享保6年(1721年)正月28日に江戸に到着した。2月10日に藩留守居役の長岡七郎太夫に伴われて登城し、御腰物奉行三宅弥市郎、小姓田沼仙左衛門、小納戸桑原権左衛門らから、先祖、刀剣の事について質問を受ける。
- 担当の腰物奉行は三宅彌一郎徳恩。享保4年(1719年)12月に腰物奉行に命じられ、のち享保14年(1729年)10月に西の丸先手頭へと異動になっている。
廿二日寄合上田主殿義鄰火消役となり。曾我權之丞孝助徒頭となり。小姓組牟禮郷右衞門勝治船手頭となり。同じ番士三宅左門徳恩腰物奉行となり。
五日(略)腰物奉行三宅彌市郎徳恩は西城先手頭となる。
この時、松平傳七郎乘明も腰物奉行であったが、浜御殿での鍛刀については三宅が担当したものと思われる。
- 翌日、福岡藩留守居役の長岡は再び腰物奉行に呼び出されて吉宗の新刀奨励の意図が伝えられる。その後、信国重包は登城し、正宗・「二つ銘則宗」・「不動国行」の拝見を許され、さらに腰物方から、正宗を模して作刀した上で不動国行の彫刻を模して彫物を入れるよう求められている。
- 3月15日、濱御殿にて鍛刀を始める。この場には、御腰物奉行三宅弥市郎、小姓田沼仙左衛門、小納戸桑原権左衛門、腰物番飯室宇右衛門、本阿弥三郎兵衛、又三郎、研師木屋常三が列席した。
- この時、御腰物奉行三宅弥市郎からは再び「不動国行」の拝見を許され、絵図を見ることも許されている。4月21日に刀三口の焼入れが行われ、翌日、腰物番神尾五郎三郎が信国重包を訪れて刀を持ち出し、さらに翌日、「若狭正宗」を模した刀、それに来国行を模した脇指を一腰ずつ焼入れすることを命じた。
- 5月1日に脇指四口と刀一口の焼入れを行い、翌日に腰物番神尾五郎三郎は刀一口、脇指二口を江戸城へ運んでいる。
- 6月25日に御腰物奉行三宅弥市郎から呼び出しを受けて翌日登城すると、腰物方のほかに本阿弥三郎兵衛、六郎左衛門、四郎三郎も同席しており、さらに今回作刀したもののなかから良品を選び、刀身彫刻を施すよう命じられる。そこで刀三口、脇指二口を選んだ上で、彫刻を施した。
- まとめると作刀を命じられたのは次の通り。
- 【正宗写】:不動国行の彫刻。
二尺五寸の刀、一尺八寸の脇指を作刀することになる。
4月21日:刀三口の焼入れを行う - 【若狭正宗写、及び来国行脇指写】:それぞれ一口
5月1日:脇指四口、刀一口の焼入れを行う
享保6年:葵一葉紋の許可
- 12月2日、老中戸田山城守より書付が届き、それには、以後、出来のよい作品に対して、鎺元に絵形の通りの葵一葉紋を彫刻することを許すと記してあった。
- 12月20日、江戸城でも腰物番たちに褒賞が行われている。
廿日濱御庭にて新刀うち立の事司どりし腰物番等に賞行はる。
- 12月25日、御用を務めたことにより、信国重包は城代組に加えられた。
- 29日に江戸を発ち、筑前福岡に戻っている。
享保7年:筑前
- 翌享保7年(1722年)の春、信国重包は筑前に帰着し、五人扶持となる。翌8年には切米十五石を加えられている。
関連項目
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