こぶ屋藤四郎


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 こぶ屋藤四郎(こぶやとうしろう)

短刀
銘 吉光
名物 こぶや籐四郎
8寸2分半
今日庵所蔵

  • 表裏刀樋。
  • 拵えは利休依頼により本阿弥光徳が作成したもので利休拵えと呼ばれる。赤銅の目貫は本阿弥家から譲り受けたもの。
  • こぶや吉光
    • ※茶道において藤四郎というと焼き物の藤四郎(加藤四郎左衛門景正作の藤四郎焼)が著名で、そのためか刀の方は吉光と呼ぶようである。
Table of Contents

 由来

  • 加州金沢の商人、こぶ屋が所持していたことにちなむ。

 来歴

 商人こぶ屋

  • 元は金沢の商人こぶ屋が所持していたという。

 秀吉→千利休

  • のち千利休所持。
  • 天正19年(1591年)、利休は秀吉の逆鱗に触れ、堺での蟄居を命じられる。
  • 前田利家や利休七哲のうち古田織部細川忠興ら大名である弟子たちが奔走したが、助命は適わず、京都に呼び戻された利休は聚楽屋敷内で切腹を命じられる。享年70。
  • 切腹の際に使用したのがこの「こぶ屋藤四郎」である。
  • 利休の死後、本阿弥光甫が研ぎをした際に、手紙を付けて千宗室に返したという。

    一筆啓上候、弥御堅固の由珍重に存上候。藤四郎の御脇差拵申上とき申上候、ことのほか見事に○○○、此拵は祖父光徳に利休居士御たのみの様子愚父光瑳色々語申候、覚申○○○ことくに拵申候、下緒も利休このみのことくに申付候、目貫は手前に所持申候間いたし申候。御小刀は私細工に○○仕り○○存候へども延引いたし候間先高道也老へ相渡申候。安房守殿○真斉老にいかやうにも可有之候間御やり可被成候、近代の家の小刀など中々此拵に相応仕候間○○○○申間敷候、ときは平の藤四郎同然に御座候。恐惶謹言
       五月十五日     本阿弥光甫
     千宗室様
       尚々御脇差とき直も見事に罷成と一入可被御秘蔵

    判読できない部分が多いので意味が通らない箇所が多いが、拵えについては利休が特に本阿弥光徳(光甫の祖父)に頼んで作らせたもので、いろいろな話を父・光瑳が語っていたと述べている。また下げ緒も利休好みで、目貫については本阿弥家にあったものを付けたという。なお日付は十五日となっているが、文化財登録などでは「二十五日」表記。恐らく文化財登録が正しいと思われる。

  • 明治期「今日庵年中行事」の一月元旦利休堂の飾り付中には、下記のように儀式で使用されていたことが記されている。※同書は玄々齋の口述を筆記したものという

     一、床 藤四郎吉光作の小脇差に刀懸巻物共御墨附莊る事
     一、お點前濟んで吉光寶劒拝戴の事。

 流出

  • 明治初年まで今日庵に伝わり儀式にも使われていた伝来の宝刀であった「こぶ屋藤四郎」だが、明治初年12代又玅斎の代に他の伝来品と共に売り出され、一時は行方もわからなくなっていた。※13代圓能斎の時とも言う

    利休堂莊りつけの諸具は、圓能齋(せんだい)時代初期には、傳來品等ほとんど散逸してゐたので、有り合わせの物が仕様されてゐたが、淡々齋(とうだい)になつてからは散逸した傳來品も、ボツ々々戻つてくるやうになつた。
    淡々齋(いへもと)は、こゝ數年、毎年大福茶を點てながら「今年はこの道具が戻りました。」と、いかにもうれしさうに語られるのであるが、今度の正月には、仲田傳之𨱛氏から寄贈された。吉光の短刀が、何年ぶりかで、利休堂に莊られるだらうから、淡々齋の喜びが、又一つ増したわけで、私自身も祝着に思つてゐる。
    (茶染漫筆/ゐぐち三郞)

    このエッセイは、昭和13年(1938年)に書かれたもので、まだ「こぶ屋藤四郎」自体は戻っていない。「ゐぐち三郞」は後述、井口海仙のこと。

  • のち中鳥万次郎氏が上野池之端で買い入れたという。
    「中鳥万次郎」氏については不明。「中島」姓ではないかとも思うが、原文にははっきりと「鳥」と書かれている。
  • 大正のはじめには、吉田由道氏が中鳥氏より購入している。
  • 昭和13年(1938年)9月5日付けで重要美術品認定

    短刀 銘吉光 八寸二分六厘/腰刀拵、本阿弥光甫書状(五月二十五日千宗室宛)外三通 一巻 京都市中京区 吉田由道

    吉田由道氏は京都市の医者であったという。京都醫科大學(現在の京都大学大学院医学部の前身)の明治40年(1907年)11月卒業生に「吉田由道(大分)」の名前がある(大分縣平民として官報にも記載あり)。昭和24年(1949年)に日本美術刀剣保存協会 京都府支部が吉田由道氏を支部長として設立されている。この「こぶ屋藤四郎」のほか、国俊、国安、康継などを所持していたようだ。

  • 昭和14年(1939年)に「後鳥羽天皇七百年式年祭」が執り行われ、その2年後に「後鳥羽天皇七百年式年祭 水無瀬神宮隠岐神社奉納刀匠昭和の御番鍛冶作刀展」というものが日本刀顕彰會の主催で大阪高島屋で行われており、その「寶器日本刀」というコーナーに重要美術品として「こぶ屋藤四郎」が出品されている。

    重要美術品
      山城國粟田口吉光    京都市 吉田由道殿
        銘 吉 光(短刀)   長サ八寸二分五厘
     
      時代鎌倉中期 山城國粟田口ニ住ス、本刀ノ出來、平造三ツ棟刄紋ハ小沸出來細直刄帽子ハ丸ク返ル、表裏ニ刀樋ヲ刻ス。中心先切ル鑢ハ淺キ勝手下リ目釘穴二ツ中心先ニ吉光ト銘ガアル。名物こぶや吉光と稱ス本阿彌光甫ノ手紙ヲ添フ、千利休ノ所用ニシテ千家ニ傳來セシガ大正ノ始メ現持主ノ有トナル。

 今日庵(裏千家)

  • のち昭和26年(1951年)春に、裏千家家元により買い戻された。

    利休自刄の刀
    利休が自刄の節用いたという刀が、半世紀ぶりで、今日庵に還つてきた。
    この刀は、藤四郎吉光の作になる八寸弐分半の短刀で、重要文化財に指定されている。
    この短刀は、加賀の「こぶや」という家に傳つていたので、こぶや吉光とも称されていたのだが、利休は、この短刀を秀吉から拝領したと傳えられている。
    裏千家では、この短刀を、居士の木像と共に、重宝として傳えてきたのだが、明治初年に、他所へ出てしまつた。その後諸方を轉々としていたらしいが、大正年間、京都の吉田由道という医者が、やはり京都の中鳥万次郎という人から、この短刀を譲り受けた。又中氏(マ マ)は、東京上野池の端で、求めたというのである。
    昨年暮、はからずも此の短刀が、裏千家々元に、買いもどされたのであるが、この短刀には、利休好の眞塗の鞘が添うており、本阿彌の折紙、常叟、泰叟等の添状もある。
    尚、玄々齋は、やはり吉光作の短刀を、このこぶやが吉光の添えとして所藏しており、この短刀は戰争前松山の仲田氏より家元へ寄附されたが、この短刀には玄々齋の由緒書が添うている。
    玄々齋の手記「今日庵年中行事」には、この短刀は正月元日、必ず利休堂に飾りつけて、家族一同が拝礼することになつている。
    とにかくに、淡々齋宗匠の喜びは大きなもので、三月二十八日の利休忌には、この短刀を一般社中にも、披露しようと云つていられる。尚詳しいことは、後日にゆずる。(サの字)

    前半では「こぶ屋藤四郎」が昭和26年(1951年)に買い戻された経緯について、また後半(「尚、玄々齋」以降)ではそれに添えていた吉光の小脇差(※こちらは昭和12年に寄贈された)について述べている。最後の段の「この短刀」は、次の利休忌で披露しようと言っているため恐らく今回戻った「こぶ屋藤四郎」について述べていると思われる。
     「常叟」は裏千家5代家元不休斎常叟宗室。「泰叟」は6代家元六閑斎泰叟宗室を指す。
     「又中氏は」と意味が通じないが、恐らく「又、中鳥氏は」の脱字ではないかと思われる。

  • 現存、今日庵所蔵
  • 裏千家前家元、15代目である千玄室(鵬雲斎)氏も、「NHKアカデミア」で次のように出征の前夜に父から見せられた旨の話を語っている。

    利休が切腹した脇差し、粟田口吉光(あわたぐちよしみつ)という脇差しが私の家にあります。私は初めて出征する前の晩に、父から、三方に乗せられた利休の切腹した脇差しを見せてもらいました。父は一言も言いませんでした。私はそれを恭しくいただいて「私は切腹できるかいな」と。二度と家に帰って来られない。もう出たら戦死ですよ。死を覚悟で出て行かないといけない。父、母、兄弟、友人たち、皆に別れを告げて出ました。
    NHKアカデミア 第30回 <茶道 裏千家 前家元 千玄室>② - NHKアカデミア - NHK

    ※2024年4月の記事による。裏千家15代目千玄室(鵬雲斎、汎叟宗室。ほううんさい)氏は、14代目家元無限斎碩叟宗室(淡々斎)の長男。なお15代が学徒出陣したのは昭和18年(1943年)で、上記受納式より6年後ということになる。
     父である裏千家14代千宗室は、通常淡々斎と呼ばれるが、これは結婚を機に大伯父・九鬼隆一男爵から命名されたものであり、その後、大徳寺で得度した際に管長・円山伝衣老師に授けられた「無限斎」が正式な号となる。
     同様に15代家元は、生まれた際に祖父で13代家元である円能斎が命名した幼名(出生名)が政興、若宗匠となって宗興となり、家元を継承して15代千宗室となり、代を譲った後の現在は隠居名の千玄室を名乗る。大徳寺管長である後藤瑞巌老師により得度して「鵬雲斎玄秀宗興居士」の号を得ている。

  • 上では茶室咄々斎に呼ばれた経緯は詳しくないが、2023年4月の産経新聞「話の肖像画」では次のように語っている。

     その前日のこと。夕食後、父に茶室「咄々斎(とつとつさい)」に呼ばれました。6歳のときに稽古始めをしたお茶室です。
     父と向かい合って座りますと、一振りの刀を置いて拝見するようにといわれました。それは利休居士自刃の刀として伝わる脇差し(左腰に差すよう作った短い刀)の「粟田口吉光(あわたぐちよしみつ)」でした。わが家にとって非常に大切なもので、長男の跡取り息子である私も、このとき初めて拝したのです。ただただ圧倒されて見つめていました。
     なぜ出征を前に刀を拝見するようにいわれたのか。このときの私は、父の思いにまで考えが至りませんでした。必ず生きて帰り、利休居士からの茶の湯を受け継いでいかなくてはならないということを伝えたかったのかもしれません。一方の母も、口に出すことはありませんでしたが、入隊が決まってからはたいへん気落ちした様子でした。

  • 結局整理するとこのときの短刀は「こぶ屋藤四郎」そのものではなく、昭和12年に寄贈された添えの小脇差藤四郎吉光であることになる。




 もう1本の藤四郎吉光

  • 裏千家では、この「こぶ屋藤四郎」とは別に、もう1本の藤四郎吉光を所蔵している。

    尚、玄々齋は、やはり吉光作の短刀を、このこぶやが吉光の添えとして所藏しており、この短刀は戰争前松山の仲田氏より家元へ寄附されたが、この短刀には玄々齋の由緒書が添うている。

 来歴

 今日庵(裏千家)

  • いつごろかは不明だが、「こぶ屋藤四郎」の添えとして吉光作の短刀を所持していたという。
    • ※箱書きに「傳來 精中宗室」とも書かれているため、もしかすると11代家元玄々斎精中宗室の頃からのものなのかも知れない。
  • しかしこちらも明治初年に売り払ってしまう。

 仲田傳之𨱛氏

  • 所々を転々とした後、松山市の素封家である仲田傳之𨱛(包直)氏の所蔵となった。
  • その後、息子の仲田傳之𨱛包利氏へと相続された。
    仲田傳之𨱛(でんのじょう)氏とは、実業家で貴族院議員でもあった人物で、名は包利。包利氏は昭和7年(1932年)から昭和14年(1939年)まで貴族院議員、昭和16年(1941年)没。
     父は仲田傳之𨱛包直氏。この包直氏は玄々斎門下で、包利氏も泉岡宗空氏に茶道を学んだという。
     包利氏の長男が伊予合同銀行副頭取の仲田包寛氏。昭和38年(1963年)没。「傳之𨱛」の𨱛は、長に公。

 今日庵(裏千家)

  • 昭和12年(1937年)5月16日に松山市の貴族院議員・仲田傳之𨱛(包利)氏より寄贈の申し出があり、同日に受納式が行われた。14代千宗室(無限斎碩叟宗室。淡々斎)の代に戻ってきたことになる。

    五月十六日朝、突然今日庵を訪問され

  • 「茶道月報」昭和12年7月號掲載の井口海仙氏の「竹陰抄」に経緯がやや長めに書かれている。※この前段に出てくる”自害に用いられた藤四郎吉光の小脇差”とは「こぶ屋藤四郎」を指すと思われるが、添えの藤四郎吉光が返還される経緯として載せておく。

     利休が割腹した刀は、藤四郎吉光の小脇差だつたと云ふ事である。
     この刀は、利休が豊公より拝領した刀と傳へられ、代々今日庵に傳つてきたのだが、明治初年外へ出てしまつた。
     玄々齋時代には、まだチャンとあつた様で、「今日庵年中行事」の一月元旦利休堂の飾り付中には、
     一、床 藤四郎吉光作の小脇差に刀懸巻物共御墨附莊る事
    とあり、同朝の式中には、
     一、お點前濟んで吉光寶劒拝戴の事。
    とあるから、今日庵にとつては、一番の家寶だつたのだらう。
     この吉光の小脇差には、又次の様な話が「武徳編年集成」に載せられている。
    (※骨喰藤四郎が大友義統より秀吉に献上された逸話略)
    此の骨喰吉光と、今日庵に傳つてきた吉光とが、同じ脇差であつたかどうかは、私にはわからない。
    (略)
     
    この原稿を書き上げたのは四月の上旬頃で、實は前號即ち六月號に掲載するともりでゐたのだが、都合で他のものを書いて、此の原稿は保留しておいたのだが、それがかへつてよかつた。
    何故なら、行衛がわからないと書いた今日庵傳來の吉光の小脇差が、偶然にも、今日、今日庵に寄贈されてきたからである。
     
    小脇差を寄贈して下さつたのは、松山市の素封家で現貴族院議員仲田傳之𨱛氏で、五月十六日朝、突然今日庵を訪問され、家にこんな刀があるが、家元に重要な品なら、寄贈してもいゝと語られたので、淡々齋も傳來品目録や記録には、チャンと出でゐるが、皆目行衛が知れなかつたものだけに、大變な喜びで、ぜひにと懇望されたので、それはと、同日午後別項會記の如く、利休堂に於てその寄贈式が擧げられ、仲田氏により居士の像前に、何十年ぶりかで、由緒ある小脇差が供へられたのである。
     
    さて吉光の小脇差は、本阿彌家の鑑定が直書された白鞘造りで、錦の袋に包まれ、本阿彌家の極書と共に桐箱に収められてゐる。
     その箱の蓋には、
      洛東粟田口藤四郎吉光(※作)在銘
       小脇差 長七寸三分 本阿彌副箱あり
           傳來   精中宗室
    と、玄々齋が甲書してゐる。尚本阿彌家の極書は、吉光たる事正眞、刄文見事、重寶とされるべし、と云つた事が書かれてゐる。
    刀身は、極く細身で、一點の曇、いさゝかの刄こぼれもない。
    此の小脇差には、黄金造の見事な造りがあつた筈でそれがために、「本阿彌副鞘あり」と玄々斎が書附してゐられるので、先きに白鞘造りと書いたのは、その副鞘の事らしく、したがつて、造りと、傳來の文書の軸物と、刀掛の三點が缺けてゐるが、これは、又玅斎時代に、今日庵から持ち出されて、仲田氏の先代が入手される迄に、諸處を轉々として賣り歩かれてゐたらしいから、その間に散逸してしまつたのだらう。
     
    とにかく、此の原稿に、すばらしい、くゝりが出來た事を私は喜んでゐる。(十二年五月十六日夜)

    この著者「井口海仙」とは、13代千宗室の3男として生まれた人物。名は三郎、号は宗含。機関誌「茶道月報」を主宰。戦後は淡交社社長として茶道書の出版、執筆に活躍した。なぜ井口氏が「武徳編年集成」の骨喰藤四郎の逸話を引用したのかは不明だが、秀吉の内意を伝えるために松井友閑と千利休が派遣されたことをなにか勘違いされているのか、あるいはこの「こぶ屋藤四郎」と大友氏から献上された骨喰藤四郎とを結びつける話が千家に伝わっていたのかも知れない。言うまでもないが、「骨喰藤四郎」は薙刀直シ刀で刃長1尺9寸4分もあるため、まったくの別物である。
     玄々齋こと精中宗室とは、裏千家11代家元。号は精中、玄々斎(げんげんさい)。三河国奥殿藩4代藩主(大給)松平乗友の五男として生まれ、のち10代柏叟宗室(認得斎)の養子となった。文政9年(1826年)に認得斎が没すると、その長女萬地と結婚して11代家元となった。
     又玅斎こと直叟玄室(ゆうみょうさい)は裏千家12代家元。京角倉家・角倉玄祐の子として生まれ、のち10代玄々齋の婿養子となった。

  • なお、寄贈式の様子も同号に載っている。

    傳來の短刀還へる
     
    今日庵傳來品の一つ、豊公より利休拝領の吉光の短刀は、別項「竹陰抄」に書かれた如く、傳來品中でも特に重要な品であつたが、明治初年に他の傳來品等と共に市場に出で、その後行衛さへも判明しなかつたが、計らずも松山市仲田傳之𨱛氏より今日庵へ寄贈されることとなり、五月十六日その受納式が、利休堂に於て擧げられた。

 2つの吉光の整理

  • つまり、今日庵(裏千家)には2口の藤四郎吉光が伝来してきたが、明治大正期に一時流出し、その後2口共に今日庵(裏千家)に戻ったということになる。※これで刀長の謎も解ける
こぶ屋藤四郎
刀長八寸二分半
利休好の眞塗の鞘、本阿彌光甫の手紙、本阿彌折紙、常叟、泰叟等の添状も附く。
判明している来歴:今日庵→?→中鳥万次郎→吉田由道→?→昭和26年(1951年)春、今日庵で買い取り
吉光の小脇差
刀長七寸三分
本阿彌副箱あり。玄々齋の甲書あり。
判明している来歴:今日庵→?→仲田傳之𨱛→昭和12年(1937年)5月、今日庵に寄贈


  • 参考)裏千家系図
                  ┌満知         ┌良子
    精中宗室───┰萬地    ├広瀬拙斎 ┌井口三郎 ├弥栄子
    ※松平乗友男 ┃ ├────┴鉄中宗室 ├菊地武夫 ├大谷巳津彦
           ┗直叟宗室    ├───┴碩叟宗室 ├納谷嘉治
            ※角倉玄祐男 西綱子    ├───┴汎叟宗室 ┌井住政和
                         伊藤嘉代子  ├───┴玄黙宗室
                               塚本登三子  ├────丹心斎
                                     三笠宮容子
    
    
    11代玄々斎精中─12代又玅斎直叟─13代圓能斎鉄中─14代無限斎碩叟─15代鵬雲斎汎叟─16代坐忘斎玄黙
    
    ※西綱子は九鬼家の縁者である。摂津国三田藩11代藩主で、九鬼氏23代当主の九鬼隆徳の娘に「お岩の方」がおり、三田藩筆頭家老である九鬼兵庫の長男である西貢(にし みつぐ)に嫁いだ。その娘が綱子であり(つまり九鬼隆徳の孫)、裏千家13代圓能斎の妻となったという。
     いっぽう綱子の父の姉「さつ」が、九鬼隆一(実は星崎貞幹の次男)の実兄・星崎琢磨に嫁いでおり、13代圓能斎と九鬼隆一とは縁戚関係に当たる。その関係で14代は結婚を機に大伯父・九鬼隆一男爵から「淡々斎」と命名されたものと思われる。
     ※つまり淡々斎から見れば「祖母の叔母の夫の弟」ということになり、現代の通念では縁戚関係とも呼び難い関係性だが、当時は実際に命名親になるほどの関係性であった。実のところ九鬼隆一は、明治新政府で男爵に叙爵され、文部省に出仕し現在の事務次官クラスにまで栄進。のち駐米特命全権公使、その後は図書頭、臨時全国宝物取調委員長、宮中顧問官、帝国博物館(後の帝室博物館、現東京国立博物館)初代総長を歴任し、美術行政に尽力した。「古社寺保存法」制定にも深く関わっている。のち郷里の三田に日本で初の民間立博物館である「三田博物館」を設立している(隆一の死後1941年に閉館)。その関係から裏千家との関係も深かったようである。

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