三好実休

三好実休(みよしじっきゅう)  

戦国時代の武将
三好氏の家臣
三好長慶の弟
物外軒、實休居士

Table of Contents

生涯  

  • 大永7年(1527年)、三好元長の次男として生まれる。
    生年には大永6年(1526年)説もある。
  • 兄に三好長慶、弟に安宅冬康、十河一存、野口冬長がいる。
  • 諱は「之虎」とされるが、書物では「三好之康」「三好義賢(義形)」と書かれる。
    【三好家系図】
    源義光………小笠原貞宗─小笠原政長─小笠原長興─三好義長─┐
                                 │
    ┌────────────────────────────┘
    │
    └長之─┬之長─┬長秀─┬元長───────┬三好長慶─┰三好義興
        │   ├長光 │         │     ┗三好義継─長元
        │   ├長則 └康長(笑岩入道) │
        │   └長逸  ┗━三好信吉   ├三好実休─┬三好長治
        │          (豊臣秀次) │     └三好正安(一存養子 存保)
        │                 │
        │                 │【安宅】
        ├長尚               ├安宅冬康─┬安宅信康
        │                 │     └安宅清康(河内守)
        │                 │
        │                 │【十河】
        │                 └十河一存┬┰十河重存(長慶養子 義続)
        │【勝時流】                 │┗十河存保
        └勝時──政長─┬政康(下野守、釣竿斎)   └─十河存之(存保家老)
            (宗三)└政勝(一任斎、為三入道)


細川持隆の家臣  

  • 兄の長慶に従って、和泉、伊予、讃岐、播磨など各地で転戦した。
  • 兄の三好長慶は細川京兆家の当主細川晴元に仕えたが、実休は晴元の従兄弟で分家の阿波守護である細川讃州家の当主細川持隆に仕えている。
    細川晴元は実権を持っていた最後の管領とされる。正室は三条公頼の長女であり、その縁から武田信玄、本願寺法主顕如の義兄に当たる。

三好政権  

  • 天文18年(1549年)、三好長慶は河内十七箇所の代官職を巡って三好分家である三好政長(宗三)・三好政勝父子と対立、彼らの追討をめぐり、長慶と細川晴元の争いが勃発する。摂津江口の戦いで三好政長を破っている。
    三好政長は「宗三左文字」「九十九髪茄子」などを所持した人物。
    いっぽう子の三好政康は後に和解勧告に応じ、長慶に臣従する。長慶の死後は甥の三好義継の後見役の1人として台頭、三好長逸・岩成友通と共に三好三人衆と呼ばれる。釣竿斎宗渭。
  • 細川晴元と三好政康らは摂津から逃亡し六角軍も撤退を開始、晴元は足利義晴・義輝父子らを連れて近江国坂本に逃れた。
  • 長慶は晴元に代わる主君として細川氏綱を擁立、晴元派の伊丹親興が籠城する伊丹城を包囲、天文19年(1550年)3月遊佐長教の仲介で開城させ摂津国を平定する。これにより細川政権は事実上崩壊し、三好政権が誕生することになった。
  • この戦いの後、天文22年(1553年)6月に実休は弟の一存と共に細川持隆(細川晴元の従兄弟)を見性寺で殺害し、その子細川真之を傀儡の守護として擁立する。鑓場の義戦で持隆派を破ると、細川讃州家の実権を完全に掌握、阿讃衆と呼ばれる国人衆を三好政権の統制下においた。
  • 天文23年(1554年)から天文24年(1555年)には播磨に遠征している。永禄元年(1558年)の京都北白川の戦いでは安宅冬康・十河一存らとともに四国勢を率いて参戦する。
  • 永禄3年(1560年)に兄と共に河内守護畠山高政や安見宗房らと戦って大勝し、彼らを追放した後に高屋城に入り、河内の守護を任されている。

久米田の戦い  

  • しかし永禄4年(1561年)には実弟で岸和田城主であった十河一存が病死。永禄5年(1562年)紀伊国に落ち延びていた畠山高政は、三好弱体化の兆候を読み取り、根来衆の援助を得て反撃を開始した。
  • 畠山軍が安見宗房、遊佐信教、根来衆1万兵で岸和田城を取り囲むと、この応援に向かった実休は久米田寺近くの貝吹山城に陣を張る。
  • しかし混乱する戦いの中で実休の本陣は精鋭の馬廻り衆100騎前後と手薄になり、実休は銃弾が当たり戦死した。享年36。
  • 実休を討ち取ったのは根来衆の往来右京といい、実休は鉄砲で討ち取られた初の武将ともいう。※流れ矢にあたったともいう。

    実休当千鉄炮死去、数白余討死、即敗軍

  • なお最期については諸説あり、根来往来左京というものが斬り伏せたともいう。

    実休ひるまず下知する處を根来往来左京、長劍を眞向にかざし、実休に討てかゝる、実休推参なりとて、光忠太刀を以て抜打に拂へば、左京が臑當の十王頭の半切て膝口を斬付たり、左京事ともせず立蒐り散々に戦ひ、終に実休を切り伏せて首を取る時に実休三十七歳也
    (翁草)

    最後の時、実休は「三雲光忠」を佩いて奮戦し、敵方である根来法師の往来左京の脛当を払ったために、切先の刃が少しこぼれたという。この「三雲光忠」は畠山高政が分捕るが、永禄11年(1568年)に上洛してきた信長に拝謁し、献上している。その後この刀は「実休光忠」と呼ばれた。

教興寺の戦い  

  • 三好実休を失った三好軍は総崩れとなり、堺から阿波に落ち延びた。岸和田城の城主であった安宅冬康も脱出し淡路へ帰国したため、畠山高政は和泉、南河内を取り戻した。
  • 同時に京都でも戦いが行われていたが、三好義興は勝龍寺城に撤退。畠山高政は数日後に三好長慶が籠る飯盛山城を攻囲した。
  • 一方阿波に逃げ帰った三好軍は態勢を建てなおすと再び畿内に上陸し、飯盛山城の救援に向かう。この動きを知った畠山郡は高野街道を南下するが、河内高安郡教興寺村付近(現大阪府八尾市教興寺)で合流した三好軍と畠山軍は激しく激突した。
  • これを教興寺の戦いといい、戦国期における畿内での最大規模の会戦となった。※三好方6万、畠山方4万という。畠山方に参戦していた雑賀・根来衆の火縄銃は4000丁あったとされ、これが脅威となっていた。
  • 戦いは三好方の優位に進み、湯川直光が討ち死にすると湯川衆が総崩れになり、続いて雑賀衆大和衆が敗走し、多くが討ち死にする。その後河内衆、譜代衆も総崩れとなり本陣崩壊、譜代衆の多くが討ち死にする。
  • 勢いに乗った三好方は勢いにまかせて大和へ侵入し、六角軍も近江へ退却したことにより、三好氏の勢力は河内・大和・紀伊北部にまで及ぶこととなった。

三好家の終焉  

  • しかしこの頃にはすでに三好長慶は体調を崩していたとされ、軍勢は三好義興と松永久秀が率いていた。さらに永禄6年(1563年)8月には義興が22歳で早世すると実権は松永久秀が握ることになる。
  • 永禄7年(1564年)5月9日、長慶は弟の安宅冬康を居城の飯盛山城に呼び出して誅殺、さらに7月4日に長慶自身も飯盛山城で病死した。享年43。
  • 三好義継が後を継いだが、後見役として支えるはずであった松永久秀と三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)が対立し始め、永禄11年(1568年)に信長が上洛してくると蹴散らされ、三好政権は瓦解した。




刀剣  

  • 三好実休は、「実休光忠」に名を残すほか、名物を蒐集したことで知られる。
    実休は稀代の物数寄者にて天下の珍物をあつむ、所謂正宗のの剃刀、貞宗、の小刀、定家爲家兩筆一番七首の和歌等、其外珍物員を不知となり
    (翁草)
  • 光忠の華やかな作風を愛した信長の所持となり、天王寺屋会記では木津屋が見事にこの「実休光忠」を当てるというエピソードが残る。

    信長公天下を治め玉ふ頃、光忠の刀を好て、二十五腰を集め給ふ、或時安土の御城の堺衆被参けるに、皆々天守に被召、御茶を下さる、其の中に木津屋と云ふ町人、堺一番の目利と被聞召及、彼(信長)の光忠を残らず見せ給ふ、此の中に実休光忠有り孰(いずれ)がそれぞ撰出せよとの御事なり、木津屋則二十五腰を不残熟覧して、一腰を取除け、其の道具は是にて候と申す、果して相違なかりしかば信長公御手を拍給ひ、如何して見知れるやと尋玉ふに、木津屋は此の御太刀切先に少し刄のこぼれ拝見候、実休最期に敵の臑當を切拂に、刄少しかけたりと傳承候、仍て如是申上候と云ふ、信長感じ給ふと云々
    (翁草)

逸話  

妙国寺  

  • 生前、実休は日珖に帰依している。

    十二月三好實休日珖を久米田に請して戒を受け

    五年安居の地東西三町、南北五町を割いて之を寄附し、道場を興立せんとした。

  • 日珖は堺の商人伊達常言(油屋常言)の子で、長じて比叡山の僧となる。日蓮宗において紫衣を着たのは日珖が嚆矢とされる。
  • 実休が久米田にて討ち死にすると、日珖は城中の諸人を率いて堺に戻り、その後実休が寄進した土地を元に妙圀寺を開いた。
    • この妙圀寺は、「朱銘長義」を所蔵し、また信長のソテツのエピソードで有名である。

辞世の歌  

  • 合戦前夜に詠んだという辞世の歌

    草枯らす 霜又今朝の日に消て 報の程は終にのがれず

    実休は実弟である安宅冬康と何度も歌のやり取りをしており、この歌に対して冬康が「因果とは 遥か車の 輪の外を 廻るも遠き みよし野々里」と返したという。

茶道  

  • 津田宗達(天王寺屋。津田宗及の父)をはじめ、今井宗久、北向道陳、千利休などとも交流し、彼らを自室に招いて茶会を開いている。
  • 山上宗二によれば、名物茶器を50種類も所持したという。

    豊州三好実休ハ名物の小茄子・三日月ヲ初テ、其他五十種類程名物所持ス、実休阿波・河内両国ノ主也、右ノ他、名物所持ノ人モ京都ニ数多在之、実休ハ武士ニテ数寄者也

小少将  

  • 殺害した旧主君である細川持隆の妻、小少将を強奪したという逸話が残る。
  • 小少将は岡本牧西(美作守清宗)の娘と伝わり、細川真之の母でもある。
  • 細川持隆の死後、持隆を滅ぼした三好実休の妻となり三好長治・十河存保を産み、実休の死後は三好氏の重臣である篠原自遁(篠原長房の弟)の妻となった。

関連項目