西郷隆盛の刀

西郷隆盛の刀  

  • 西郷隆盛が所持・関係した刀剣についてのまとめ。
Table of Contents

村正の短刀  

短刀
銘 村正

  • 西郷が徳川家を討つために村正を所持したという話は昔からあり、実際に村正の大小を所持していた。
    なお近年妖刀村正説が否定されているが、幕府(徳川家)で村正を妖刀視したか否かと、倒幕を志した者が当時妖刀説を信じていたか否かについては全く別問題である。
  • そのうち大(つまり打刀)の方は偽物とされている。これは村正自体江戸時代には高い評価を受けており入手するのが困難であったためとされている。
  • 小刀は正真の村正作で、両刃造りの短刀を所持した。
  • この短刀の外装は鉄扇仕込みとなっており、漢詩が彫り込まれていた。

    匕首腰間鳴粛々北風起
    平生壮士心可以照寒水
     
    (読み下し:匕首腰間に鳴り、粛々として北風起る。平生壮士の心、以て寒水を照す可し。)

  • これは中国の故事によった文章で、中国戦国時代末期の刺客荊軻(けいか)が、燕の太子(燕太子丹)の命を受けて秦王の政(後の始皇帝)を暗殺しようとした時の情景を描いている。
  • 荊軻は暗殺に使うために鋭い匕首を天下に求め、遂に趙人・徐夫人の匕首を百金を出して手に入れる。準備を整えた荊軻が易水のほとりから出発する際、知人が喪服(白装束)を纏い見送る中、荊軻は生還を期さない覚悟を詩に詠む。

    風蕭蕭兮易水寒 壮士一去兮不復還
    (読み下し:風蕭々として易水寒し、壮士ひとたび去って復た還らず。)

  • これを聞いた見送りの人々は、誰もがその覚悟に打たれ感情の高まりの余り凄まじい形相になったという。
    咸陽に着いた荊軻たちは秦王政との接見に成功するが、今一歩の場面で殺害に失敗し、逆に秦王政により切り刻まれてしまう。暗殺に激怒した秦王は翌紀元前226年に燕を攻めて首都の薊を陥落させ、紀元前222年には完全に燕を滅ぼした。
  • 強大な秦王に対して心意気一つで立ち向かった義士荊軻の人気は古来高く、当時強大な権力を持っていた幕府に対して立ち向かっていく西郷の覚悟を示したものとされる。
  • この短刀は西郷隆盛の三男午次郎へと伝わった。


信国  


銘 信国
長二尺二寸三分五厘

  • 三代目の源左衛門尉信国の作。
  • 中心大磨上、銘は中心先、折返し銘になっている。
  • 信国」の二字銘。目釘孔3個
  • 明治5年(1872年)8月に大礼服の規定が制定され、それにあう軍刀拵を従兄弟の大山巌に作らせたもの。
  • 外装は金メッキのサーベル拵になっている。通常のサーベル拵と異なり、棟側に角、刃側に金属板が付いている。
  • 西郷隆盛没後50年祭記念として建てられた軍服姿の西郷隆盛の銅像(鹿児島県鹿児島市城山町)には、この信国の軍刀を模したサーベルを差している。
  • この信国はその後、猿渡宅次氏所蔵となった。


来国行  


来国行
長二尺四寸餘

  • 「明治六年政変(征韓論)」において敗れた西郷を始めとする板垣、後藤、江藤、副島らは明治6年(1873年)10月24日に一斉に辞表を提出し下野した。
  • 鹿児島に戻る際に、この国行を旧薩摩藩士得能良介に残している。
    西郷の実弟西郷従道の妻が得能良介の長女清子という関係。
  • 得能良介が明治15年(1882年)に亡くなり本刀は子息道昌へと伝わった。しかし刀剣に興味がなくこれを明治末に売り払っており、道具屋の岩崎某が仲介して青山芳得が購入した。
    青山芳得は愛刀家で、海軍育ての親と呼ばれる人物。妻は秋山真之の妻稲生季子の姉にあたる。季子の父、稲生真履は三河国挙母藩出身。宮内省御用掛を長らく務めた人物で、東京帝室博物館(現東博)の学芸委員として刀剣などの古美術に精通した。
  • その後、大正初年に大島義泰が懇望して譲り受けている。

長篠一文字  

  • 織田信長が長篠の戦い語に奥平貞昌に与えた備前福岡一文字。
  • 奥平家の子孫の武蔵忍藩藩主松平家に伝わり、明治に西郷が購入し本阿弥成重に研ぎ直しを依頼している。
  • その後、山県有朋が所持した。
  • 詳細は「長篠一文字」の項参照

手掻包永  

太刀
銘 包永
長2尺3寸6分5厘(71.5cm)、反り七分三厘
東京国立博物館所蔵

  • 手貝包永作の太刀
  • 中心大磨上、中心先に「包永」の二字銘。
  • 西郷の死後、実弟の西郷従道から明治天皇に献上された。
  • ただし異説があり、本刀は元々宮津本庄家(本庄松平家)伝来のものを西郷従道が入手し、献上したという。
  • 現在、東京国立博物館所蔵。

雲次  

太刀
雲次作
長二尺三寸三分強

  • 備前鵜飼庄の刀工雲次の作。
  • 中心大磨上。額銘。
  • 目釘孔3個。尻に2個、その上に額銘。
  • 薩摩藩12代藩主の島津忠義より拝領した太刀
  • 現存

志津  


金銘
長二尺○五厘

  • 濃州志津三郎兼氏の作。
  • 二筋樋。
  • 目貫に金無垢の竜で後藤作。栗形は菊池序定の作。
  • ある藩主から拝領したものという。外装は西郷が作らせたもの。
  • のち辺見十郎太が貰い受け、のち西南戦争の際に差した。城山での最後の戦いでは、西郷の死後に別府晋介と刺し違えて死んだとも、政府軍に突撃し戦死したとも伝えられる。享年29。
  • 本刀は官軍に没収され、監獄官が所持していた。
  • のち薩摩出身の大久保利貞が譲り受けた。
    大久保利通の従叔父。大久保治良介の子。陸軍中将。
  • 大久保利貞の死後、坂元盛秋が所持していた。
  • ある時南洲神社の記念館に本刀を展示した所、辺見十郎太の子息辺見重治から返還して欲しいと要求されてしまい、その話を聞いた児玉善之助に譲ってしまう。
  • 昭和35年(1960年)ごろ、熊本の刀剣商を通じて山口正次氏が入手した。「南洲先生愛刀覚書」という由緒書が付いていたため正真と判明したという。

小烏造りの刀  

  • 三条実美から贈られたもの。
  • 小烏丸と同じ小烏造りとなっており、刃長二尺餘。
  • 中心に「八幡大菩薩」と金象嵌が入っており、その左上に「西郷隆盛所持刀」と朱銘が入る。

兼定の脇差  

脇差
一尺七寸

  • 兼定
  • 大切先、棒樋。
  • 黒塗りの鞘、革の片手巻の柄。鍔は兜の透かし彫り。目貫は弓と靭の彫物。
  • 最期まで差していたが、敵に取られるのを避けるため土中へ埋めていた。のち掘り返して遺族へ贈られた。

兼定の短刀  

短刀
銘 和泉守兼定
長一尺二寸二分五厘

  • 二代兼定(之定)の作。「兼㝎」
  • 平造り。
  • 棒樋に添樋の彫物。鍔は鉄地に桜花。
  • 城山の戦いで最期まで差していた脇指。
  • 島津斉彬から拝領したという。

出羽酒井家伝来の兼定  

  • 二代兼定(之定)の作。
  • 明治3年(1870年)、出羽藩主酒井忠篤が鹿児島を訪問した際に西郷へと贈られたもの。
  • 詳細は坂崎出羽守「冑割り」の項参照。
  • のち嫡男の侯爵西郷寅太郎に伝わった。

別府晋介の村正  

脇差
銘 村正
一尺七寸七分

  • 西郷隆盛の介錯をした別府晋介の刀。
  • 刃長一尺七寸七分、反り五分。
  • 村正二字銘が入るが、これは偽銘とされる。
  • 城山陥落の日、島津応吉久能邸の門前まで来た時、西郷も腹と股に負傷してしまう。すると西郷は、晋介に向かって「晋どん。晋どん。もうここらでよか」と自害し、晋介は「御免なったもんせ(お許しください)」と叫び介錯したという。
  • 西郷が糸子夫人と結婚した際に媒酌人を務めた坂元純陽の三男坂元俊一は、西南の役には海軍少将として出征している。薩軍首脳が城山で自決すると、その検屍役として赴いた。
  • その際に坂元は、別府晋介が帯びていた本刀を形見として持ち帰ったという。
  • 別府晋介の村正は当時有名で、川村純義や大山巌らが「坂元に持たしておくのはもったいない。おいどんに寄こせ」といったというが、坂元は最後まで渡さなかった。
  • その後子孫に伝わる。
  • 現存。

薙刀と鎗  

薙刀

短槍

  • 西郷家は肥後菊池氏の分かれといい、ともに西郷家の先祖から伝わったものという。
  • 薙刀は静型と呼ばれる刀身の身幅が細く反りが少ないもの。
  • 鎗は短い直鎗で、柄に菊の紋が入っている。この菊紋は朝廷から賜ったものであるという。
  • なお西郷家の家紋も「抱き菊の葉に菊」だが、西郷は畏れ多いとして菊紋を除いて使用していたという。

関連項目