陸奥守吉行(刀工)


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Table of Contents

 陸奥守吉行(むつのかみよしゆき)

江戸中期の刀工
土佐吉行

 生涯

  • 刀工吉行は、慶安3年(1650年)刀工森下播磨守吉成の次男として、摂津国住吉に生まれる。

    陸奥守源吉行は山岡平助と稱す、攝津國住吉の人、初代大和守吉道か門人なり、周徳公(高知藩4代藩主山内豊昌)の御世堀川國法の弟子と稱し當國に來り、長岡郡仁井田村にて給田壹町拾貳代五歩夕を被下御刀工になしたまひ御鍛冶屋藏の西に住しける、元禄三年正月朔日より給田召上られ二口(上二人扶持)の食をたまふ、御用にきに因りてなり此後辭して本國に歸る、
    按するに天曄院君(高知藩5代藩主山内豊房)の御時下るといふ説あれども延寶六年町中橋井流改帳□崎町に井流壹ヶ處永貳間並壹尺四方御鍛冶屋端惡水吐胆力鍛冶吉行出口ニ有とあれハ覆戴院君(高知藩4代藩主山内豊昌)の御時に下りしなるへし、又曰く御町方記録延寶五年渡戸町甚助吉行平助に對し云々といふ訴状有り、

  • 上野守吉国の弟。
  • 森下平助。
  • 山岡家の養子となり、のち父、兄とともに大坂の刀工初代大和守吉道に入門し、作刀を修行する。
  • 銘「陸奥守吉行」、「吉行」
  • 「陸奥守」を受領。

 土佐藩

  • 吉行は、元禄年間に土佐藩に招聘され、同藩の鍛治奉行となった。
  • はりまや橋に近い東種崎町(ひがしたねざきまち)の仕事場で鍛刀したという。

 作刀

  • 土佐藩出身の幕末の志士、坂本龍馬がこの「陸奥守吉行」の刀を愛用したことで知られる。




 龍馬所用「陸奥守吉行」


銘 吉行
坂本龍馬所用
二尺二寸
京都国立博物館所蔵

  • 龍馬が最後に使った陸奥守吉行作の刀は、京都国立博物館に現存する。

 入手経緯

  • この龍馬所用の「陸奥守吉行」は、龍馬が21歳年長の兄である坂本権平に頼んで送ってもらったものである。
    司馬遼太郎の「竜馬がゆく」(昭和37年~昭和41年に産経新聞連載)では、竜馬が脱藩するときに次姉の栄(高名な乙女姉さんの上の姉)に頼み込み、陸奥守吉行を手に入れたとしている。これは(司馬遼太郎の創作ではあるが)栄の墓が見つかっていない当時の定説であったという(昭和43年に坂本家の縁者が同家の墓を改修した際に地下2.5mから髪の毛と遺骨を発見し、栄のものと推測の上で栄の墓をたてている)。
     しかし昭和63年(1988年)に柴田作佐衛門に嫁いでいた栄の墓が発見され、栄の没年が龍馬脱藩の17年前の弘化2年(1845年、龍馬10歳時)であることが明らかになり、今となってはこの定説は覆されている。同年3月11日付の高知新聞「坂本龍馬の姉で、龍馬脱藩の折、刀を渡し、その責任をとって自害したと伝えられている栄のものらしい墓が十日、坂本家の墓地がある高知市山手町の丹中(たんち)山で見つかった。しかし、没年が龍馬脱藩より十数年もはやい弘化年間となっており、これが栄の墓とすれば、今までの通説が覆されることになり、議論を呼びそうだ」
  • 龍馬は、死の前年となる慶応2年(1866年)12月に権平に手紙を出し、先祖伝来の刀で死にたいと郷士坂本家で所蔵していた「陸奥守吉行」を無心している。

    此頃願上度事ハ古人も在レ云、国家難ニのぞむの際ニハ必、家宝の甲を分チ、又ハ宝刀をわかちなど致し候事。何卒御ぼしめしニ相叶(あいかない)候品、何なり共被レ遣候得バ、死候時も(なお)御側ニ在レ之候(おもひ)在レ之候。何卒御願申上候。
    (慶応二年十二月四日 坂本権平あて)

  • 権平は西郷にことづけ、中岡を通じて届けている。
    この時期西郷は、島津久光の命を受け宇和島藩の伊達宗城、土佐藩の山内容堂を訪れ四侯会議に向けた地ならしを行っている。権平はこの時に西郷に渡したものと思われる。その後、海援隊設立や「いろは丸」受け取りなどで長崎にいたころの龍馬に渡ったと思われる。
    龍馬は、この時届けてくれた西郷の近習に対して、それまで指していた鈴木正雄二尺八寸二分を渡したともいう。
  • 慶応3年(1867年)3月ごろから吉行を使ったと見られ、6月24日の権平宛の手紙でその喜びを伝えている。

    然ニ先頃西郷より御送被レ遣候吉行の刀、此頃出京ニも常帯仕候。京地の刀剣家ニも見セ候所、皆粟田口忠綱位の目利(めきき)仕候。此頃毛利(アラ)次郎(恭助)出京ニて此刀を見てしきりにほしがり、私しも兄の(たまもの)なりとてホコリ候事ニて御座候。
    (慶応三年六月二十四日 坂本権平あて)

    一説に吉行は西郷隆盛の佩刀だったものであるとされるが、ちゃんと読めば龍馬自身が無心した手紙も残っており、なおかつ兄の権平より送られたもの(「兄の賜たまものなりとて」)であると記述している。権平はたまたま土佐を訪れていた西郷に頼んで送っており、龍馬も返礼として西郷の下僕に鈴木正雄作の刀を渡していることから誤伝したのだろうと思われる。
     「毛利荒次郎」は毛利恭助吉盛。幕末土佐藩の致道館剣道導役。前日の23日に吉行を見たようである。

  • 死の数日前(慶応3年11月13日)と見られる陸奥宗光宛の手紙でも述べている箇所がある。

    一、さしあげんと申た脇ざしハ、まだ大坂の使がかへり不レ申故、わかり不レ申。
    一、御もたせの短刀は(さしあげんと申た)私のよりは、よ程よろしく候。(但し中心(なかご)の銘及形。)
     是ハまさしくたしかなるものなり。然るに大坂より刀とぎかへり候時ハ、見せ申候。
    一、小弟の長脇ざし御らん被レ成度とのこと、ごらんニ入レ候。
      十三日
                              謹言。
    陸奥老台(陸奥宗光
                             自然堂 拝

    三番目の「小弟の長脇ざし」が「陸奥守吉行」と見られている。
     「自然堂(じねんどう)」とは龍馬が晩年に使った号。龍馬は慶応3年(1867年)2月にお龍とともに下関の伊藤助太夫(号 自然居士)方を訪れその一室である「自然堂」を借りている。のち龍馬はこの部屋の名前を取り号とした。
     「自然(じねん)」とは「(おの)ずから()る」を意味する言葉で、使い始めたのは老子とされ「老子道徳経」において無為自然が説かれている。日本には古くからこの老子概念による「自然(じねん)」が入ってきており、8世紀の風土記に現れるという。いっぽう英語:natureの訳語概念である「自然(しぜん)」は、蘭学者の稲村三伯が寛政8年(1796年)に蘭和辞典「ハルマ和解」を出した際にオランダ語のナチュール(natuur、英:nature)に「自然」の文字を当てたのが始まりという。しかしこれはあまり広まらず、実際には森鴎外が論文「『文学ト自然』ヲ読ム」を明治22年(1889年)5月の雑誌「国民之友」に発表し、その中でドイツ語のナトゥール(natur)の訳語として”自然”を用いたことが契機になったのだという。ヨーロッパ諸語に現れるこれらの源流はラテン語ナートゥーラ(natura)であり、さらに元をたどるとギリシャ語のピュシス(physis)であるという。

  • 最期の日も龍馬はこの「吉行」を携えていた。それにより、兄への手紙に「死候時も猶御側ニ在レ之候思在レ之候」と書いた通りになってしまった。

 龍馬以後の坂本家での来歴

  • 龍馬の差した「吉行」は、のち長姉・千鶴の息子・高松太郎(坂本直、変名小野淳輔)が坂本龍馬の家督を相続したため坂本直(高松太郎)に伝わる。
  • 明治31年(1898年)11月に坂本直が死ぬと、家督は次男・坂本直衛が継いだが遺品類は妻・留が管理していたようである。その後、さらに鶴井の長女・直意の婿養子で郷士坂本家の7代目当主となった坂本弥太郎(浜武弥平の次男・浜武弥太郎)へと伝わる。
    【郷士坂本家】
    八平直足─┬権平直方───春猪─┬──鶴井    浜武弥太郎(坂本家養子)
         │          └兎美 │     ├────┬彌直
         │高松順蔵          ├───┬直井(直意)└直行
         │ ├──┬───坂本南海男直寛   ├直恵
         ├千鶴  │             ├坂本直道─────┬直臣(夭折)
         │    │             └勝清(土居家養子)└寿美子
         ├栄   │
         │    └[長男]直(高松太郎、小野淳輔)
         ├乙女     ├──┬坂本直樹(夭折)
         └龍馬    瀬田留 └坂本直衛
    
  • 明治37年(1904年)に浦臼聖園小学校で坂本龍馬遺品展が開かれている。この時、本刀「陸奥守吉行」のほか、血染めの掛け軸、紋服など多数の遺品が展示された。
  • 明治43年(1910年)8月30日付で、坂本弥太郎氏が留に書いた預かり証にも「吉行」は登場する。

    吉行:刀キズノ鞘付キ束ナシ

    この時点では刀傷のついた鞘もこの時現存していたが、ただし柄は失われていた。

  • 坂本弥太郎は明治38年(1905年)に釧路で坂本商会を創業するが、大正2年(1913年)12月26日に釧路で大火事が起こり、ここで龍馬の遺品を焼失している。

 京都国立博物館へ寄贈

  • この釧路の大火事で坂本家にあった「陸奥守吉行」も焼けてしまうが再刃された。
    2021年12月、この吉行の押形が取られていたことが報道され判明した。それによれば、北海道室蘭市の日本製鋼所M&Eにある「瑞泉鍛刀所」の資料館に所蔵されている鍛刀所初代当主(刀鍛冶堀井家としては三代)の手による「俊秀押型集(甲)」に、”坂本龍馬氏遺物 吉行 焼身”と記載された押形があり、これが火災で焼けた後、刃取りをするまでの間に採られた物であることが確認された。採録日付は大正13年(1924年)9月27日、”札幌刀劔 會山口喜一先生宅に於いて”と注記されている。再刃(刃取り)したのはこの後ということになる。
  • 昭和6年(1931年)に恩賜京都博物館(現京都国立博物館)に寄贈された。弥太郎氏は寄贈の前年10月に目録を書いており控えが残る。
    なお、従来この時に再刃したと書物等に書かれていたが、刃取りをしただけであったことが最近の研究で明らかになったという。
  • この"弥太郎氏による昭和5年作成の寄贈目録控え"が、2015年に遺族が寄贈した遺品の中から発見され、大火事の際に無反りになってしまったこと、鞘は焼けてしまったことが記されている。

    一、長刀「吉行」 在銘 一
    此刀ハ元ト西郷吉之助佩用ノモノニシテ坂本龍馬ニ贈ル爾来坂本之ヲ佩用ス
    慶応三年十一月十五日坂本、中岡ト共ニ京都河原町ノ寓居ニ於テ刺客ニ遭ヒ咄嗟ノ塲合鞘ヲ拂フニ暇ナク鞘ノ侭ニテ受ケタルハ即チ此刀也
    然ルニ大正二年十二月二十六日北海道釧路市大火ノ際仝市ニ居住セシ坂本家類焼ト共ニ此刀モ亦罹災ス之ヲ札幌市ノ富田秋霜氏苦心シテ研キ上ケタリ、刀身ノ反リナキハ焼ケタル結果也此刀ノ鞘ハ消失セリ約八寸ノ裂ケ目アリキ

    スミス&ウエッソン社製第I1/2ファースト・イッシュー22口径の5連式ピストルもこの時焼けている。

    この写しが信用されるのは、弥太郎氏の性格による。この文書を残した坂本弥太郎氏は大変に几帳面な性格だったようで、重要な手紙や覚書などについてはカーボンで複写して手元に残していた。その結果、様々な龍馬遺品の異動状況が明らかになることとなった。たとえば京博に寄贈した龍馬遺品目録なども京博には現存せず、弥太郎氏の控えにより新たな事実も明らかになっている。詳細は「坂本龍馬」の項参照
     ※ただし「此刀ハ元ト西郷吉之助佩用ノモノニシテ坂本龍馬ニ贈ル」は誤りで、上記した通り坂本家にあった吉行を兄・権平から送ってもらったものである。当時西郷佩刀が通説で、弥太郎氏は刀の来歴にそこまで興味がなかったのかも知れない。

  • ちなみに、この坂本弥太郎氏の次男が、画家で六花亭製菓の包装紙のデザインを手がけたことでも知られる坂本直行氏である。




 その他の吉行

  • なお、故郷である高知の坂本龍馬記念館と北海道坂本龍馬記念館にも吉行の刀が展示されている.

 高知:坂本龍馬記念館所蔵


銘 陸奥守吉行
二尺二寸(66.7cm)
坂本龍馬記念館所蔵

  • 最後に所持していた京都国立博物館所蔵のものとは別の吉行で、龍馬所持ではないもの。元は刀剣研究家の小美濃清明氏が所持していたもので、後に坂本龍馬記念館に寄贈された。同館で常設展示されている。

 函館市:北海道坂本龍馬記念館

脇差
銘 陸奥守吉行
刃長45.2cm、反り1.2cm
北海道坂本龍馬記念館所蔵

  • これも同様に最後に所持していたのとは別の吉行で、龍馬所持ではないもの。

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