杉原祥造

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杉原祥造(すぎはらしょうぞう)  

明治から大正にかけての刀剣研究家

生涯  

  • 明治16年(1883年)尼崎に生まれる。
  • 歯科医を志し、大阪で歯科医院の書生となったのち、東京で歯科医専に進んだが中退する。

    私が杉原氏を知りましたのは實に三十幾年もの昔の事で、其頃には神田雉子橋の佛国大使館の近傍、岡玄卿氏邸の横手の二階に書生生活をして居られ、歯科醫を志して居りましたが、生來の御嗜好と見え、よく剣會にも出席され、又先輩諸先生を訪問されて説を聞いて居られましたが、其の頃より非常に熱心でありました。

刀剣研究  

  • 明治35年(1902年)神津伯と出会い、その後刀剣研究に没頭する。
  • なお刀剣研究の資金を得るために、競馬に没頭し、これについても科学的研究を行い巨額の資金を得たという。

    地所の思惑、又は投機的に成功されました所謂成金時代が杉原氏にもありましたが、百萬、二百萬の富の如きは誠に易々たるのみと、高言された時代には金に飽かして盛んに蒐集され、無慮二千刀と評判されて居りました。

  • 自分が見た刀は真贋に関わらず押形を採り、それまで最多の刀を見たと言われていた今村長賀を凌いだとされる。今村が享保名物帳について及ばざること七刀といっていた(網屋が今村の書き入れから類推した)のに対して、杉原は自分は悉く見たと豪語したという。また手に入らない物については描写してまで押形蒐集も行なったという。

    刀を見られることについても東奔西走された人で、恐らく日本國中足跡のない處はない位で、刀剣好の人で交際のない人はない有様でありました。

    見られた刀の數では、故今村先生程、多數見られた人は古來あるまいと言はれますが、杉原氏は實に之を遥に凌いで居ると思はれます。曾つて名物帖に就いて、私が今村先生の書き入れを調べて見ると、及ばざる事七刀と話しました時に、杉原氏は「自分は悉く見た」と言はれましたが或は此時既に凌いで居たのではないかと思はれました。

    文献方面も蒐集を怠りませんで、今村先生(今村長賀)を始め、苟も斯道に名のある人の集められたもので、手に入れる事の出來ぬものは描寫すると言ふ有様で、私(網屋)の先代の押形などまで寫された事があり、先代の押形は震災に焼亡しましたが寫本は残りました。

  • 大正7年(1918年)から國學院大學で毎月日本刀の講義を行っており、大正9年(1920年)3月には中央刀剣会の評議員、さらに同年10月には同会の幹事および審査員に任じられている。
  • 大正7年(1918年)3月淀藩主稲葉子爵家の売立入札で出た享保名物鳥飼来国次」を大枚をはたいて購入し、これを終生携帯して愛玩した。

    所蔵中にては名高い鳥飼來の短刀が第一に指を屈すべきもので、之は先年稲葉子爵家の入札會に出品され、名物帖に登載されてある來国次の傑作で、名物帖にも關東にある短刀の白眉と記されてあり、加州家より稲葉家に贈られたものであります。杉原氏も大金にて手に入れられ、秘蔵されて始終携帯されて居ると言ふ有様でした。

  • また同9年(1920年)には、「日本刀を学術的に研究してその成果を発表、愛刀趣味の国民的普及を図ること」を目的として、杉原日本刀学研究所を設立している。
  • 大正9年(1920年)10月には数珠丸恒次を華族の売立の中から発見して買い入れている。この時には東京大阪で新聞記者を招待し、数珠丸についての講演を行ったほどである。
  • 大正11年(1922年)40歳で古社寺保存法による古社寺保存会の委員に任命されるに至る。また同年、国学院大学での講演草稿をまとめた「日本刀講話」を出版。
  • 大正12年(1923年)埼玉の新刀蒐集家で貴族院議員であった野口褧の蔵刀200本余を三万円で買収している。

    先年埼玉の故野口褧翁の蒐集された刀剣を三萬圓で買収されたことがありました。

  • しかし同年、関東大震災で麹町六番町にあった家が罹災し、そこに保存していた刀剣類を消失してしまう。
  • 大正14年(1925年)に「長曽根虎徹の研究」(乕徹の研究)をまとめあげ予約募集を開始する。
  • しかし、その完成を待つことなく、翌15年(1926年)2月に44歳で死去。
  • 杉原の刀剣研究に対する態度は微細な点をも見逃さず、銘では一点一画にまで比較して理屈をつけるものであった。ある人をして、作者(作刀した刀工)自身到底そこまで注意しなかったであろうといわしめたという。

    其研究に際しては比較研究に重きを置き、其研究が一層進みましては微細の點まで忽にせず、例へば銘の字一點一書迄理屈がつくと言ふ有様で、或人よりは「到底作者自身も其所までは注意しないで居たならん」などと評された事もありました。
    又後藤家の金工の研究を發表された事がありますが、笄の耳掻きの寸法とか、紋金の高さ、其他微に入り細に亘り、各個の寸法を示されましたが、其尺度が不明だとて質問された人がありました。處がそれは金剛石を計る尺度だと言はれ聞く人を驚かしました。

所持刀剣  

菊御作。大竹氏、小松崎氏、杉原氏、久原房之助家。

関連項目