庖丁正宗

※当サイトのスクリーンショットを取った上で、まとめサイト、ブログ、TwitterなどのSNSに上げる方がおられますが、ご遠慮ください。

庖丁正宗(ほうちょうまさむね)  

尾州徳川家伝来
7寸9分半(24.0cm)徳川美術館所蔵「ほりぬき正宗
奥平松平家伝来
7寸1分6厘(21.8cm)永青文庫所蔵
内藤家伝来
7寸1分3厘(21.6cm)大阪の法人蔵。日向延岡藩主の内藤家伝来「包丁透し正宗
Table of Contents

庖丁正宗(尾州徳川家伝来)  

短刀
無銘正宗名物 庖丁正宗)
長さ7寸9分半(24.0cm)
国宝
徳川美術館所蔵

  • 享保名物帳所載

    庖丁正宗 無銘長八寸 代金三十枚 尾張殿
    同斷の造り、刄をすかす、尾張の天守より出る。承應の極め。

  • 詳註刀剣名物帳

    此刀現に侯爵家に在り、尾張の天主と云ふは名古屋城の天守閣なり。元和元年五月大坂落城の時、城中にありし刀劍多く徳川家の手に入り、家康公の命にて取敢す名古屋の天守へ納める事に成り、追て吟味の上、江戸へ引取らるゝ筈なるに、其事のなき中に家康公薨去、其儘天守に殘りし道具多しと云、これも其内の物なるべし。

  • 平造り、庵棟。表裏に爪形付きの素剣が透かし彫りで入る。中心先は剣形。うぶ中心で目釘孔1個。無銘
  • 駿府御分物(徳川家康遺品)中にあったもので、尾張徳川家に伝来した。
  • 「駿府御分物御道具帳」の中之御脇拵の部には、「ほりぬき正宗」と記載されている。

    一 中之御腰物 ほりぬき 正宗

  • 初代尾張義直の刀剣遺品帳

    一 無銘 包丁正宗 御拵有 但目貫□□柄下ニテ不見 右同断(御分物之内)

  • 承応年間になって取出し本阿弥に見せた所、承応3年(1654年)8月に金三十枚の折紙が付いた。
  • また「享保名物帳」には「尾張之天主より出る」とあるが、これは一時期天守閣に納められていた故に記されたと思われる。
  • 昭和16年(1941年)9月24日重要美術品指定、尾張黎明会所蔵。
  • 昭和28年(1953年)11月14日重要文化財指定。
  • 昭和29年(1954年)3月20日国宝指定。
  • 現在は徳川美術館所蔵。


庖丁正宗(武州奥平松平家伝来)  

短刀
無銘正宗名物 庖丁正宗)
長さ7寸1分6厘(21.8cm)
国宝
永青文庫所蔵(東京都文京区目白台)

  • 享保名物帳所載

    庖丁正宗 無銘長七寸三分 代金百枚 松平下総守殿
    幅一寸一分 表剣裏梵字 安国寺所持にて庖丁にニたりと有り。右透しの事不分明なり。

    享保名物帳では、内藤家庖丁スカシ正宗、本刀奥平家庖丁正宗、尾張家庖丁正宗の順で並んでいる。「右透しの事不分明なり」の右とは、内藤家庖丁スカシ正宗のことを指すと思われるが、「不分明」としている通り意味がわからない。

  • 詳註刀剣名物帳

    安國寺は恵瓊、字は瑤甫、安藝の治田の人。博學能辯、才幹衆にすぐれたる僧なり。京南禪寺の録司となり、紫衣を許され國へ歸て安國寺に住し、毛利輝元に知られ軍事の謀議に與り、秀吉と講和の時、最も周旋して功を奏し、是より秀吉の寵任を受け、所領壹萬石餘を賜ふ。關ヶ原の時、西軍敗れて恵瓊、鞍馬山に隠れ、七條道場に入り、他國へ走らんとしたる時、京の所司代奥平信昌の家臣に知られ東寺へいたる道にて捕縛せられ、六條河原にて梟首せられた、一説に鳥井右京亮の臣鳥井庄左衛門搦取るとも云、此時恵瓊、大小の刀黄金にて造りし器物等悉く歿収せられ大小の刀は鳥居右京亮の手に入りしと云、忍の松平家に移りたる由來分らす。
    「補」この刀今も松平子爵家にあり拝見せしに透しはなし地鐵殆ど粟田口に似たり直刃と覺ゆ。

  • 平造り、庵棟。差表に片爪付きの剣。裏に梵字。中心先は栗尻。うぶ中心、目釘孔1個、無銘。
  • 昭和11年(1936年)の売立時、拵には横屋宗珉の赤胴馬の二所が附いており、小柄目貫も重要美術品認定。
  • 元は毛利家の使僧安国寺恵瓊の所持刀。
  • 関ヶ原の戦い後、恵瓊は京都鞍馬山月照寺や建仁寺に潜み、さらには西本願寺の家老下間形部卿の婿にあたる端ノ坊明王の許に隠れていた。これを閑鎮という僧が奥平信昌に知らせたことで発覚する。
  • 奥平信昌が追手を差し向けると、恵瓊は家臣の肩輿に乗り、病人を装い逃げようとした。捕手の鳥居信商が恵瓊を生け捕りにしようとすると、この正宗を抜いて突こうとするが、逆に鳥居信商に奪い取られついには生け捕りにされる。
    この鳥居信商とは、高名な鳥居強右衛門勝商の子である。父の功により百石を与えられた鳥居信商はのち、関ヶ原の戦いに従軍し、京都で恵瓊を捕縛する大功を挙げ二百石を加増されている。「僧正孫六」の項を参照のこと。
  • 奥平信昌が家康のもとに恵瓊を連れて行き短刀も差し出した所、褒美として奥平信昌に与えられた。

    一、包丁正宗御脇指
    慶長五年濃州関ヶ原御陣之節、御勝利之後信昌京都諸司職タリシ時ニ、逆賊ノ役将安国寺恵瓊芸州之余山拾二萬石ヲ領ス。洛中ニ隠レ居テ潜ニ逃レ去ラントス。信昌ノ家士鳥居庄右衛門是ヲ捕ヘ此短刀ヲ分捕ス。神君ヨリ是ヲ信昌ニ賜ウ。右御脇差ハ信昌之四男松平下総守忠明エ譲ル。

  • 包丁正宗は、その後信昌から四男松平忠明(母は徳川家康の長女亀姫で、家康の外孫に当たる。松平性を許される)に与えられた。
  • 享保名物帳の「松平下総守殿」は松平忠明の曾孫忠雅のことで、その後転封された武州忍藩(奥平)松平家に伝来した。
    奥平信昌は長篠の戦いの戦功で「大般若長光」も拝領しており、ともに武州忍藩に伝来した。
  • 山下汽船の山下亀三郎が所持、のち伊東巳代治に贈った。
  • 昭和のはじめに重要美術品指定。伊東治正伯爵(伊東巳代治の孫)所持。
  • 昭和11年(1936年)7月の伊東家の売立で14700円で落札され、細川護立候爵に譲渡されている。

    重要美術品 名物 包丁正宗 短刀
    剣・梵字、長サ七寸二分、奥平家伝来
    重要美術品、宗珉、赤銅馬、目貫・小柄、拵え、梨子地鞘合口、有馬家伝来
    一四、七○○円

    この時同時に出品されている目貫・小柄は、元は有馬伯爵家が所蔵したもので、売立で伊東が1150円で落札して抱き合わせたもの。

  • 昭和27年(1952年)11月22日に国宝指定。


庖丁正宗(日向延岡藩主内藤家伝来)  

短刀
無銘正宗名物 庖丁正宗)
長さ7寸1分3厘(21.6cm)
国宝
大阪府の法人錦秀会所蔵

  • 「包丁透し正宗」「透し正宗」とも呼ばれる。
  • 享保名物帳所載

    庖丁スカシ正宗 無銘長七寸一分半 無代 内藤右京亮殿 
    幅一寸三分 護摩箸をすかし、下に爪あり。庖丁に似たる故両様に名付なり。名古屋古道具屋にて元十疋にて求し由。

  • 丸棟。中心先は剣形。中心うぶ、目釘孔1個、無銘。
  • 始め本阿弥家某とみられる人物が名古屋の小道具屋で十疋(銀十五匁)で買い入れたという。
  • その後会津若松の蒲生忠郷の所蔵となる。寛永4年(1627年)忠郷が早世して御家断絶となり、領内の三春城は内藤帯刀忠興の預かりとなった。おそらくこの時期に内藤家に移ったものとみられる。
  • 享保名物帳編纂時は、奥州磐城平藩5代藩主内藤右京亮義稠所蔵となっているが、義稠は享保3年(1718年)に死んでおり養子の6代藩主備後守政樹となる。
  • 備後守政樹の代の延享4年(1747年)に日向延岡へ転封となったあと延岡藩主内藤家に伝来。
  • 明治後、日清戦争時は東京深川木場の鹿崎某氏の所蔵、のち井上元侯爵家に移る。

    此庖丁正宗、今は東京深川區木場鹿島某方にあり、明治廿七年新富町刀商網屋総右衛門借受て得意先の人々に見せたる事あり。誰人が十疋にて掘出したるや分明ならず。昔し百疋は銀十五匁卽貳十五銭なり、十疋ならば貳銭五厘なる。
    詳註刀剣名物帳 大正8年版)

  • 昭和12年(1937年)5月25日旧国宝指定。井上三郎氏所蔵。
    井上三郎は桂太郎の三男として生まれ、のち井上馨の侯爵井上勝之助の養子となる。妻は井上馨の娘で井上勝之助の養女となっていた千代子。陸軍少将。貴族院議員。
     井上勝之助は井上馨の兄井上光遠の次男として生まれる。明治2年(1869年)に実父が死去したため馨が井上家の家督を継ぎ、勝之助は叔父馨の養嗣子となった。
  • 昭和27年(1952年)11月22日新国宝指定。
  • その後岡山の岡野多郎松氏所持。
  • 昭和33年(1958年)「備山愛刀図譜」では1番目に載る。
  • のち、岡野勝野氏を経て大阪府の法人所蔵へ。






写し  

堀川国広による写し  

名物庖丁正宗の写し  

短刀
国広
八寸四分半

  • 慶長14年頃の作

名物庖丁正宗の写し  

脇差
銘 洛陽住藤原国広 慶長十五年五月日
一尺九分

その他  

荏柄天神社の庖丁正宗  


一尺三寸七分
荏柄天満宮所蔵

  • 鎌倉の荏柄天神社に伝わったもので、「庖丁正宗」であるとされる。
    荏柄天神社は、源頼朝が自らの住まいである大倉幕府(大倉御所、現在の清泉小学校)の鬼門に当たる方角に守護社として造営した神社。
  • 過去、靖国神社遊就館で展示されたことがある。
  • 平造り、差表に天蓋、梵字、剣巻き竜。裏に梅の老木の透かしが入っている。生なかご、無銘。
  • 「包丁正宗」または「北条正宗」と呼ばれる。
    梅の花木の彫り物は江戸期になってから始まったものとされ、年代的に正宗作とするのには無理があるとされる。