僧正孫六


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 僧正孫六(そうじょうまごろく)


銘 兼元
刃長二尺三寸五分

 由来

  • 鳥居強右衛門が羽黒山の僧正より贈られたためという。

 来歴

  • 天正3年(1575年)世に名高い長篠の戦いの際、長篠城の守備を任されたのが奥平信昌であった。その奥平家の家臣に鳥居強右衛門(すねえもん)がいる。
  • 鳥居強右衛門は、長篠城から命がけで脱出し家康に援軍を要請した後、城に戻ろうとして武田方に捕まって磔にされた。武田勝頼は、命を助ける代わりに、城に向かって「援軍は来ないから早く降伏せよ」と叫ぶように命じた。
  • しかし、それを請けた強右衛門は死を決しており「もうすぐ援軍が来る。それまでの辛抱である」と大声で叫んだために激怒した勝頼により斬られてしまう。この強右衛門の命を賭した援軍要請により、長篠の戦いは織田・徳川連合軍の勝利となり、多くの主力武将を失った武田氏は滅亡への道をたどることとなった。
  • この岡崎城へ援軍要請に走った鳥居強右衛門が、ある時出羽の羽黒山を参詣したという。本刀は、その時に羽黒山の僧正より贈られたものであるという。
    鳥居強右衛門の前半生は不明で、三河国宝飯郡内の生まれで長篠の戦いの際の年齢は数えで36歳ということ以外ほとんどわかっていない。なぜ彼が出羽羽黒山に参詣していたのかも不明である。長篠城から岡崎城までの行程は片道約65kmもあり、強右衛門は往復約130kmの山道をわずか1日余で駆け通したことになる。あるいは山伏のような前半生であったのかもしれない。
     この鳥居強右衛門勝商の子が鳥居信商であり、父の功により百石を与えられている。鳥居信商はのち、関ヶ原の戦いに従軍し、京都で安国寺恵瓊を捕縛する大功を挙げ二百石を加増されている。「庖丁正宗」の項を参照のこと。
  • 長篠の戦いの後、本刀は藩主奥平家の所蔵となった。

    一、僧正孫六兼元刀
    出羽国羽黒山□之異僧此刀ヲ鳥居強右衛門勝商信昌功臣ニ之ヲ与エ去リヌ。之ニ依テ僧正孫六ト称ス。

  • 大正の末に奥平家の売立で売却されている。
  • その時点でもすこぶる健全な刀であり、刃紋は三本杉。うぶ中心で「兼元」の二字銘が入っていたという。

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