三日月宗近
三日月宗近(みかづきむねちか)
太刀
銘 三条 (名物 三日月宗近)
刃長80.0cm、反り2.7cm、元幅2.9cm
附 糸巻太刀拵鞘
国宝
東京国立博物館所蔵
- 享保名物帳所載
三日月宗近 三条ト在銘長二尺六寸四分半 御物
三ヶ月と申す仔細は三ヶ月形の打のけ数々有之依て名付たる由、秀吉公御後室高台院殿(ねね)御召仕に山中鹿之助と申者あり此者に一度下され候事有之此者常々三日月を信仰して武具に三ヶ月を記す御拵に三ヶ月あるは右の者所持の内拵へ其造りの儘にて候哉、台徳院様(2代秀忠)へ高台院殿御遺物として遣さる三條と銘有り
- 中心うぶ、雉股形。目釘孔3個でうち2個は埋める。鎺元近くの佩き裏に三条の二字銘。
- 糸巻太刀は、金平目地に五七桐紋を金蒔絵し、赤銅魚々子地に三日月、雲、桐を配した金具を施した桃山時代の鞘。
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由来
- 三日月の異名は、刃縁に沿って続く打ちのけがあたかも三日月のように見えることから付けられた。
- 長享2年(1488年)ごろの刀剣書「長享銘尽」に、三条小鍛冶宗近に対して「三日月ト云太刀造之」との説明があり、室町期からすでにこの号で呼ばれていたことがわかる。
宗近 三条小鍛治、寛和元乙酉御即位御門ヲ一条ノ院ト申、神武ヨリ六十六代也。此作中子ツチ目也鋒少丸ヤウナリ。後鳥羽院御釼鵜丸造之。少納言入道信西所持ノ釼同。釼名ノ打ヤウ三条宗近トモ打。只三条トモ打。三日月ト云太刀造之。寺丸ト云釼也。又畠山庄司次郎重忠太刀三尺一寸造之。又弁慶長刀岩融三尺五寸造之。
来歴
日野内光
- もと日野権大納言内光所持。
日野内光は徳大寺実淳の次男。長享3年(1489年)生まれ、明応4年(1495年)に日野富子の兄・日野勝光の息子である日野政資が嗣子なく没したため、その生前の遺言によって日野家を継ぐこととなった。「長享銘尽」の成立年代が正しければ、日野内光が所持したときにはすでに「三日月」の号があったことになるが、これ以前の来歴は不明。
日野内光は大永7年(1527年)の桂川原の戦いにおいて、12代将軍足利義晴擁する細川高国軍に所属し、2月13日に討ち死にしている。ちなみに、日野政資の弟が烏丸家を継いだ烏丸冬光(勝光三男)で、そのひ孫が烏丸光広となる。
現存刀にも物打ちより少し下に切り込みが残り、奮戦の跡をとどめる。
- 一説に、日野内光の死後に友軍であった畠山卜山が菩提を弔うために高野山に納めたといい、また三日月宗近は、元は「五阿弥切り」とも呼ばれていたという。
しかし卜山こと畠山尚順は、日野内光の死の5年前、大永2年(1522年)に淡路で死んでいるため、矛盾している。初め権大納言日野内光の佩刀なり、内光桂川にて戦死せしより畠山卜山これが追福の為、高野山に納めしがのち秀吉の北政所高台院の蔵する所となり(略)古名を五阿弥切と云ふ、天下出群の名刀五振の一なり、
※徳川家の記録に基づくもので、昭和前期くらいまでの刀剣書で散見する説。なおこの説では山中鹿之介が登場しない。
秀吉→ねね
徳川秀忠
- その薨去後、寛永元年(1624年)12月13日に遺物として徳川秀忠に贈られたという。
将軍家代々
- 寛政2年(1790年)4月に上覧。
四月廿四日、左之御道具
上覧ニ相廻ル、御名物御道具、是者帳面ニ而、
一、三日月宗近
是ハ山中鹿之介所持、惣拵三ヶ月造リ
也、寛永元子年十二月十三日秀吉之後
室高台院ゟ 台徳院様江為遺物上ル、
宝暦十二午年十一月朔日、御七夜御祝義之時、
浚明院ゟ 孝恭院様江被進、
- 昭和4年(1929年)3月の日本名宝展覧会でも徳川家達公爵所持。
- 昭和5・6年ごろに本間順治氏が拝見したときにはまだ千駄ヶ谷の徳川公爵邸にあった。
いろいろ出てきたなかで、あそこでいちばん感心し、打たれたような気持ちになったのは三日月宗近ですね。これはご存知の通りの非常にすばらしい姿をしている。姿の気品の高いことといったら、おそらく古刀中の第一等じゃないですか。
(薫山刀話)
- 昭和11年(1936年)の「国宝刀剣図譜」でも徳川家達公爵所持。
中島喜代一→渡邊三郎
- 昭和20年(1945年)1月13日、徳川宗家を出て中島飛行機の中島喜代一所持となる。
太刀 銘三條 一口
旧所有者 東京都渋谷区 徳川家正
新所有者 東京都杉並区 中島喜代一
変更の年月日 昭和二十年一月十三日
(昭和二十二年 文部省告示第五十四号)
- 昭和24年(1949年)12月13日に高橋金雄氏へ、さらにその後渡邊三郎氏所持となる。
太刀 銘三條 一口
旧所有者 東京都杉並区 中島タマ
新所有者 東京都港区 高橋金雄
変更の年月日 昭和二十四年十二月十三日
(昭和二十五年 文部省告示第十六号)
この時高橋氏は、太刀銘則房(中島昭吉旧蔵)、「中務正宗」(中島昭吉旧蔵)、「三日月宗近」(中島タマ旧蔵)、太刀銘包永(中島タマ旧蔵)を、さらに家族と思われる名義で太刀銘国安(関南芳雄旧蔵)、太刀銘貞次(中島タマ旧蔵)、太刀銘国宗(中島タマ旧蔵)、「亀甲貞宗」(中島タマ旧蔵)、薙刀長光造(中島タマ旧蔵)、太刀銘兼永(中島タマ旧蔵)、太刀銘国光(中島昭吉旧蔵)の移動(取得)申告を行っている。変更日もすべて同日。
渡邉氏への移動時期は不明だが、次の新国宝指定も考えれば高橋氏が所持したのはごく短期だったのではないかと思われる。
渡邊誠一郎→東京国立博物館
異説
山中鹿之助
- 一時山中鹿之助が佩用し、その時に刀拵えに三日月紋を付したため三日月と号したという伝承がある。しかし「元暦ヨリ今ノ長享二年(1488年)迄三百五十年也」の記述がある「長享銘尽」(つまり鹿之助の生まれる60年ほど前の書物)ですでに「三日月」と呼ばれていたとの記述があり、矛盾している。
- そもそも鹿之助の当時すでに天下五剣として鳴り響いており、それを鹿之助が佩用したとあれば、その旨記した書物が見つかってもおかしくはない。また三日月と名のある剣は多数あるためそれとの混同ということも考えられる。
- 鹿之助は、「宗近」在銘の二尺二寸八分の太刀を佩用したという。その中に半月形の打ち除けがあったため「半月丸」と号した。菊桐紋付きの糸巻き刀拵えに入っていたという。
- 「備前国住長船与三左衛門尉祐定作 山中鹿介脇指剣也 鯰江左京亮所持之」と在銘の二尺一寸二分の脇差もあった。重要美術品。
- 「伯耆国菊島住弓削新三郎正綱作 永禄十二年二月日 主山中鹿之介」と在銘の刃長二尺五寸五分の刀もあった。出雲新山城に立てこもった頃とされる。
- 「備前州住長船藤兵衛尉藤原国光作之 天文八年二月吉日」と在銘の刃長二尺一寸二分の刀も佩用と伝わる。
別人鹿之助
- ある本に、高台院(秀吉正室、寧々)の近習に鹿之助と同姓同名の武将がおり、その山中幸盛とは別人の山中鹿之介なるものが一時佩用したと記載されているが、同様の理由で疑わしい。
秀吉公御後室高台院殿御召仕に山中鹿之助と申者あり此者に一度下され候事有之
山中山城守長俊(山内橘内、山きち)の一族か?
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