鬼丸国綱
鬼丸国綱(おにまるくにつな)
太刀
銘 国綱
名物 鬼丸
刃長二尺五寸八分五厘(78.2cm)、反り3.1cm。
御物
山里御文庫 御剣庫蔵(宮内庁管理)
- 鎬造り、庵棟、長大で反り高く、腰に踏ん張り、先細く中峰。
- 鋩子乱れ込み、表少し尖り、裏は中丸。ともに浅く返る。
- 物打ちに一つ刃こぼれあり。
- 生ぶ中心、目釘孔1個。太鏨で「国綱」(國綱)二字銘。
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作刀
由来
- 太平記によれば、初代執権北条時政が、毎夜毎夜夢の中で子鬼に苦しめられていたという。
巻第三十二 直冬上洛事付鬼丸鬼切事
抑此鬼丸と申太刀は、北条四郎時政天下を執て四海を鎮めし後、長一尺許なる小鬼夜々時政が跡枕に来て、夢共なく幻共なく侵さんとする事度々也。修験の行者加持すれ共不休。陰陽寮封ずれ共不立去。剰へ是故時政病を受て、身心苦む事隙なし。
- ある晩、夢の中に翁が現れ、「自分は太刀国綱である。ところが汚れた人の手に握られたため錆びてしまい鞘から抜け出せない、妖怪を退治したければ早く自分の錆を拭い去ってくれ」と言ったという。
或夜の夢に、此太刀独の老翁に変じて告て云く、「我常に汝を擁護する故に彼夭怪の者を退けんとすれば、汚れたる人の手を以て剣を採りたりしに依て、金精身より出て抜んとすれ共不叶。早く彼夭怪の者を退けんとならば、清浄ならん人をして我身の金清を拭ふべし。」と委く教へて、老翁は又元の太刀に成ぬとぞ見たりける。
- 翁の言うとおり、錆を拭き去ったところ、立掛けておいた国綱が倒れ、近くにおいてあった火鉢の足を斬った。見るとそれは銀で作られた鬼の形をしており、それ以来夢の中で子鬼に苦しめられることがなくなったと言う。
時政夙に起て、老翁の夢に示しつる如く、或侍に水を浴せて此太刀の金精を拭はせ、未鞘にはさゝで、臥たる傍の柱にぞ立掛たりける。冬の事なれば暖気を内に篭んとて火鉢を近く取寄たるに、居たる台を見れば、銀を以て長一尺許なる小鬼を鋳て、眼には水晶を入、歯には金をぞ沈めたる。時政是を見るに、此間夜な/\夢に来て我を悩しつる鬼形の者は、さも是に似たりつる者哉と、面影ある心地して守り居たる処に、抜て立たりつる太刀俄に倒れ懸りて、此火鉢の台なる小鬼の頭をかけず切てぞ落したる。
- その後「鬼丸」と名付け、北条高時(第14代執権)の代まで北条家に伝わったという。この逸話の主は太平記では時政とするが、異説がある。詳しくは後述。
誠に此鬼や化して人を悩しけん、時政忽に心地直りて、其後よりは鬼形の者夢にも曾て見へざりけり。さてこそ此太刀を鬼丸と名付て、高時の代に至るまで身を不放守りと成て平氏の嫡家に伝りける。
来歴
北条執権家
名越高家
- 山崎の合戦で名越高家が使用する。名越高家は北条氏の一門、名越流北条時家の子。
山崎攻事付久我畷合戦事
大手の大将名越尾張守(名越高家)、(略)其日の馬物の具・笠符に至まで、当りを耀かして被出立たり。花段子の濃紅に染たる鎧直垂に、紫糸の鎧金物重く打たるを、透間もなく着下して、白星の五枚甲の吹返に、日光・月光の二天子を金と銀とにて堀透して打たるを猪頚に着成し、当家累代重宝に、鬼丸と云ける金作の円鞘の太刀に、三尺六寸の太刀を帯き添、たかうすべ尾の矢三十六指たるを云々- 北条執権家から名越高家(北条)に渡ったが、高家が山崎合戦(久我畷の合戦)で赤松円心と交戦(1333年)した際に討死にしたため、第14代執権北条高時に戻る。
北条高時
- 北条高時から次男時行へ伝える。
相摸入道(高時)鎌倉の東勝寺にて自害に及ける時、此太刀を相摸入道の次男少名亀寿(時行)に家の重宝なればとて取せて、信濃国へ祝部を憑て落行。
- 正中3年(1326年)に北条高時が24歳で病を得て執権を辞して出家する(相摸入道)と、後継をめぐり鎌倉幕府が分裂する。高時庶子の邦時を推す内管領長崎氏と、正嫡子が生まれるまで高時弟である泰家を執権につけるべきと主張する安達氏(高時の正室は安達氏)が対立し、「嘉暦の騒動」が起こる。
- 金沢貞顕(北条氏庶流)が執権に就任するも安達氏の圧力を受け10日あまりで辞任、その後赤橋守時(引付衆一番頭人)が鎌倉幕府最後の執権に就任した。
- 同じ頃朝廷でも大覚寺統と持明院統による皇位継承争いが激化しており、元弘元年(1331年)8月に後醍醐天皇が再び倒幕を企てて笠置山へ篭り、河内では楠木正成が挙兵する。幕府は軍を派遣してこれを鎮圧し後醍醐天皇を隠岐島へ配流するが、元弘3年/正慶2年(1333年)に後醍醐天皇が隠岐を脱出して伯耆国の船上山で挙兵する。
- 幕府は、名越高家とともに御家人筆頭足利高氏(尊氏)を京へ派遣するも高家は赤松則村に討たれてしまい、その後高氏は後醍醐天皇方に寝返って六波羅探題を攻略、関東でも新田義貞が挙兵し鎌倉へ進撃し、北条高時は北条家菩提寺である葛西ケ谷東勝寺で北条一族らと共に自刃する。
- 「鬼丸」は次男の北条時行に持たせ信濃の国に落ちていく。
新田義貞
- 「鬼丸」は北条時行から兄の北条邦時へと伝わる。
- その後さらに、北条邦時を討った新田義貞へ伝わる。
建武二年八月に鎌倉の合戦に打負て、諏防三河守を始として宗との大名四十余人大御堂の内に走入、顔の皮をはぎ自害したりし中に此太刀有ければ、定相摸次郎時行も此中に腹切てぞ有らんと人皆哀に思合へり。其時此太刀を取て新田殿に奉る。義貞不斜悦て、「是ぞ聞ゆる平氏の家に伝へたる鬼丸と云重宝也。」と秘蔵して持れける剣也。
斯波高経
- その後、新田義貞が藤島合戦(1338年)で敗死した後、この鬼丸と鬼切の両方を斯波高経が分捕った。
尾張守(斯波高経)此首を能々見給て、「あな不思議や、よに新田左中将の顔つきに似たる所有ぞや。若それならば、左の眉の上に矢の疵有べし。」とて自ら鬢櫛を以て髪をかきあげ、血を洗ぎ土をあらひ落て是を見給ふに、果して左の眉の上に疵の跡あり。是に弥心付て、帯れたる二振の太刀を取寄て見給に、金銀を延て作りたるに、一振には銀を以て金膝纏の上に鬼切と云文字を沈めたり。一振には金を以て、銀脛巾の上に鬼丸と云文字を入られたり。是は共に源氏重代の重宝にて、義貞の方に伝たりと聞れば、末々の一族共の帯くべき太刀には非と見るに、弥怪ければ、膚の守を開て見給ふに、吉野の帝の御宸筆にて、「朝敵征伐事、叡慮所向、偏在義貞武功、選未求他、殊可運早速之計略者也。」と遊ばされたり。さては義貞の頚相違なかりけりとて、尸骸を輿に乗せ時衆八人にかゝせて、葬礼の為に往生院へ送られ、頚をば朱の唐櫃に入れ、氏家の中務を副て、潜に京都へ上せられけり。
斯波家はもと足利尾張家と呼ばれた足利家の別流で、足利泰氏の長男家氏が陸奥国斯波郡を領したのに始まる。のち子孫は代々尾張守に叙任され、足利尾張家と呼ばれる。後醍醐天皇の倒幕運動に宗家の足利尊氏が与すると、足利尾張家当主の高経や弟家兼らもこれに与して活躍した(元弘の乱)。
- 足利尊氏が所望するが斯波高経が偽の太刀を渡し機嫌を損ねる。
尾張修理大夫高経(斯波高経)は忠戦自余の一門に超しに依て、将軍も抽賞異于他にして世其仁を重くせしかば、何事に恨有べし共覚ぬに、俄に今敵に成て将軍の世を傾んとし給ふ事、何の遺恨ぞと事の起りを尋ぬれば、先年越前の足羽の合戦の時、此高経朝敵の大将新田左中将義貞を討て、源平累代の重宝に鬼丸・鬼切と云二振の太刀を取給ひたりしを、将軍使者を以て、「是は末々の源氏なんど可持物に非ず、急ぎ是を被渡候へ。当家の重宝として嫡流相伝すべし。」と度々被仰けるを、高経堅く惜て、「此二振の太刀をば長崎の道場に預置て候しを、彼道場炎上の時焼て候。」とて、同じ寸の太刀を二振取替て、焼損じてぞ出されける。此事有の侭に京都へ聞へければ、将軍大に忿て、朝敵の大将を討たりつる忠功抜群也といへ共さまでの恩賞をも不被行、触事に面目なき事共多かりける間、高経是を憤て、故高倉禅門(足利直義)の謀叛の時も是に与し、今直冬(足利直義養子)の上洛にも力を合て、攻上り給ひたりとぞ聞へける。
足利家重宝
- 以後足利代々の重宝として秘蔵された。
- 室町幕府13代足利義輝が二条御所での死闘の際に振るったという。
信長・秀吉(本阿弥預かり)
- 後に足利義昭から織田信長に贈られ、更に豊臣秀吉に渡るが、秀吉は鬼門よけの意味を込めて京都の本阿弥光徳に預けたという。
公方昌山に三つ寶劒あり、二つ銘これ兩作なり、二人の名秘密にて本阿彌あらはに不云、鬼丸、これは粟田口の國綱なり、大傳太、これは名のりは光世と云ふ、秀吉公の仰に、吾天下をしる故に、諸方より家々の寶物をあぐる、然るに昌山は、右三つの内一つもあげず、その心は再び天下を取んなどゝ云志あるとみえたぞと、かげにて仰を傳聞を、それで三つながらあぐる、さてあがりてから秀吉公の御心もちにあしき事あるによりて、二つ銘はあたごへ御奉納、鬼丸は本阿彌へ被下、大傳太は加賀の黄門に被下、
太閤治世ノトキ諸方ヨリ寶物ヲ獻ス、然ルニ槇木島ノ公方照山(昌山)ヨリハナニモアケラレス、太閤怒テコノ公方ハ再ヒ王ノ天下ニナサント思、吾ニナニモ獻セラレヌカト仰ラルヽヲキヽタマヒ家ニ傳ル三ノ劔ヲ奉ラル。一ッハ鬼丸ト云テ粟田口國綱ノ作。コレハ楠正成カ陣太刀ナリ。二尺六寸アリ、ヌイカケサヤ緒ハトラサキテツムキクケ緒チハカントウニテツヽムリモカフトモカナクノ上ヲスクニヌイカケテツカノハツハノ上ヘカヽルヤウニシタモノナリコノ太刀ヲハ本阿彌光徳ニ被下今ニ家ニアリ
鬼丸ノコシラヘヲ細川幽斎コレヲウツシ家ニアル、烏丸殿ヘヲクラレテ于今烏丸殿ノ家ニアリ
徳川将軍家(本阿弥預かり)
天皇家
- 寛永3年(1626年)11月13日、後水尾院に嫁いだ徳川和子に皇太子高仁親王が御誕生の節、翌月4日鬼丸が御所に献上された。
同二十日 皇子誕生ノ嘉儀トシテ
禁裏エ御太刀一腰白銀千枚 女院ノ御所エ白銀三百枚ヲ進セラル大澤中将基宿 御使トシテ京都ニ赴ク○四日大御所よりこたび降誕し給ひし皇子へ。寶刀
鬼切丸 を進らせらる。
徳川和子は秀忠娘であり、皇太子は秀忠外孫にあたることから。
- 享保3年(1718年)9月4日、八代将軍吉宗が大久保佐渡守を通じ、京都の本阿弥家に命じて江戸城で一覧するも、また戻させたとの記録も残る。15日に江戸出発、翌月18日帰着、21日幕府へ提出、上覧が終わり閏10月11日に本阿弥三郎兵衛に白銀二十枚、京都へは本阿弥四郎三郎が返しに行っている。
(享保三年)この日本阿彌三郎兵衞をして京にいたらしむ。これは其家に東照宮よりあづけたまはる粟田口國綱の御刀と。鬼丸の御太刀御覽あらんとて。こなたにもち參るべきためとぞ聞えし。
本阿彌三郎兵衞に銀二十枚をたまふ。 これは京の家に藏る鬼丸。 國綱の太刀をもたらし歸り。 御覽にそなへしによてなり。
皇室御物
- 慶応3年(1867年)10月に慶喜が大政奉還すると、朝廷では本阿弥家に対して鬼丸は朝廷の御物になったので「鬼丸の太刀」は以後「鬼丸の御剣」と呼ぶよう通達している。明治元年、鬼丸の保管について中参与に伺いでたところ、従来通りとの返事であった。
御維新の時、昨辰正月参政御役所へ願出候処、御剣是迄通り大切に守護仰せ付られ候旨、御書付下し置かれ候。是より以来、御剣と称し奉り候。幕府より御預りの頃は太刀と唱へ罷在候此段恐乍申上候。以上。
- 廃刀令により家職を失った本阿弥当主の本阿弥悌三郎は、実家の柏原姓に復し、跡をわずか6歳の道太郎に継がせる。
- これにより本阿弥家に実質的に管理能力が失われたため、明治14年(1881年)宮内省に返還される。
廃刀令は段階を追って導入され、まず明治3年(1870年)には庶民に対して禁止が布告され、翌明治4年(1871年)8月9日には帯刀・脱刀を自由とする散髪脱刀令を発していた。そして明治9年(1876年)3月28日には廃刀令が発布され帯刀は禁止された。
- 後述する「御物調書」でも明治14年取寄せとされるが、実際には明治4年(1871年)に取り寄せ(上納)となっているようである。
- まず明治2年(1869年)に本阿彌守人より太政官へ書付が提出される。
鬼丸御剣の儀は、北条時頼の頃に鬼丸と号し始め候由にて、北条氏伝来の処、高時以後新田義貞に渡り、また足利氏に渡り、足利家重代と相成り、義昭に至り鬼丸、二つ銘、大伝太の三振を織田信長に送り、また豊太閤に渡る。然るに仔細有之、依って本阿弥光徳に預けられ候処、徳川家康の時また同様預けられ候。その後乍恐、後水尾様より太子御降誕の砌、所司より差図に付御所へ差上奉り候処、程なく御下げに相成り元の如く守護仕り来り候。(後略)
※疑問点が幾つか残るがすべて原文ママ。なおこの引用自体、原文が見当たらず孫引きのため読み下し文になっている。
- その後、翌明治3年(1870年)に京都府史官に対して同様の書付が提出され、結果的に明治4年(1871年)になって宮内省(当時)へと上納されたという段取りになっているようだ。
本阿彌守人鬼丸劔上納伺書
本阿彌守人儀先達テ平民ヘ編入候様御指圖ニ付其段申達候𠁅鬼丸 御劔従來保護罷在候儀ニ付別紙之通申出候右ハ如何取計可申哉此段相伺候也
辛未十月廿二日 京 都 府
史官御中
(赤字)其地宮内省ヘ相納候様可相達事鬼丸 御劔ノ儀従來保護仕來リ候𠁅今般平民入籍ノ私右保護難仕候ニ付御府ヘ御劔上納仕候而冝哉此段奉伺上候以上
明治四辛未年十月廿日 本 阿 彌 守 人
京都府御廳別紙本阿彌守人鬼丸 御劔上納ノ儀ニ付伺書御下知濟ニ付則及返却候也
辛未十月廿九日 史 官
此末同年十一月十四日宮内省ヘ上納
相濟
(本阿彌守人鬼丸御劔上納伺)
- つまり明治4年10月に、本阿彌守人なる人物より平民になったため今まで預かっていた鬼丸につき管理が困難となったため上納したいという申し出があり、同年11月14日に宮内省へと上納されたという流れとなっている。
さらに、本阿彌守人及びその一族(本阿彌徳三郎、同康二、同又四郎、同平十郎、同兼次郎、同七郎兵衛、同悌三郎)が士族を離れ民籍となったのは明治4年(1871年)9月のことである。その翌月には鬼丸の返上を申し出ており、これまで刀剣書に書かれてきた”廃刀令により家職を失い云々”という記述自体が怪しい可能性もある。上述したように廃刀令は段階を経て導入されている。その流れの中、本阿彌家は早めに民籍になり、返納したということになるのだろうか。
本阿彌守人民籍ニ編入ス
- ※「御物調書」の明治14年は明治4年の誤りか。
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逸話の主
- この「鬼丸国綱」の話は、後鳥羽院の御番鍛冶であった刀工、粟田口国綱を鎌倉へ招聘し、刀を打たせたことから始まっている。
- この逸話の主は、太平記では初代時政とするが時代が合わず、一般に第5代執権北条時頼であろうとされている。一説には第3代執権北条泰時であるともいう。
- 順に整理をすると、初代北条時政(1138~1215年)は後鳥羽院の院政中に死んでおり、粟田口国綱が御番鍛冶を務めたとすれば時代が合わない。後鳥羽天皇は建久9年(1198年)に土御門天皇に譲位し、以降承久3年(1221年)まで、土御門、順徳、仲恭の3代23年間にわたり上皇として院政を敷いている。
- 「鬼丸国綱」の作者である粟田口国綱は、1163年?~1255年頃まで存命とされており、また後鳥羽院の御番鍛冶に任命されていることから、少なくとも承久の乱を経て院が隠岐に流される承久3年(1221年)までは務めたと思われる。
- 承久3年(1221年)の承久の乱で、軍を率いて後鳥羽上皇方の倒幕軍を破ったのは北条泰時であり、その後六波羅探題北方として就任し、以降京に留まり戦後処理を行っている。この時に粟田口国綱とつながりが出来た可能性は高い。貞応3年(1224年)6月に父北条義時が急死したため第3代執権となる。
- 一方、寛元4年(1246年)~康元元年(1256年)まで執権であった北条時頼の逸話であるとすると、時頼と粟田口国綱との関連が弱くなり(時頼は早くに父を亡くして祖父泰時に養育され、六波羅探題北方を経ることなく執権となっている)、さらに粟田口国綱最晩年の作となる。
執権 在職 備考 初代
北条時政建仁3年(1203年)
~元久2年(1205年)3代
北条泰時貞応3年(1224年)
~仁治3年(1242年)承久3年(1221年)~六波羅探題北方
※延応元年(1239年)後鳥羽院崩御5代
北条時頼寛元4年(1246年)
~康元元年(1256年)
- 第3代執権北条泰時には次のような逸話も残る。
- それによれば、後鳥羽院が隠岐に流された時に6名の刀工がお供をしたと言い、その中に粟田口国綱も含まれたという。鎌倉への招きもあったが、粟田口国綱は「院の御厚恩を蒙りたる身なれば、御上の御在世中は当地を離れること思いもよらず」と断り続けたという。
- その後延応元年(1239年)2月20日、後鳥羽院が配所にて崩御される。その1周忌が済んだ後に粟田口国綱は鎌倉へ下り、北条泰時の依頼により幾振りかを鍛えた中からもっとも上作を泰時が差料とし、褒美として良田三十町を国綱へ与えたという。
- これらのことを考慮すると、作刀を命じたのは第3代執権北条泰時の可能性が高いのではないかと思われる。
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