高瀬羽皐


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 高瀬羽皐(たかせ うこう)

ジャーナリスト、社会事業家
高瀬真卿、羽皐隠史
1853年~1924年

 生涯

  • 嘉永6年(1853年)水戸藩士高瀬儀平次の長男として生まれる。
  • 本名は真之介、のち真卿を名乗る。
  • 弟に小山松吉
    小山松吉は検事総長、司法大臣、貴族院勅選議員、法政大学総長を歴任した人物。娘は建築家山下啓次郎の次男山下啓輔と結婚。山下啓輔は三井セメント会長となった人物。山下啓輔の次男がジャズピアニスト山下洋輔。
  • 明治8年(1875年)に庄司健斉(庄司春村)に師事する。
  • 仙台で松田常吉が発行していた「東北毎日新聞」で自由民権論を唱える。
  • 明治15年(1882年)に東京に出て戯作者となる。

 社会事業

  • 明治17年(1884年)には囚人の感化協会を設立、また翌明治18年には本郷湯島称仰院内に日本初の少年感化院(私立予備感化院、翌年に東京感化院)を設立する。
  • 明治22年(1889年)に本郷駒込曙町に移転、渋沢栄一の後援も受けている。

    是月、東京感化院後援ノ目的ヲ以テ東京感化院慈善会組織サル。栄一其会計監督ニ就任シ、同三十七年十月辞ス。

  • 明治45年(1912年)に日蓮宗の宗務院総監佐野前励(さのぜんれい)師に無償譲渡するまで院長を務めている。
    感化院は現在でいう児童自立支援施設。この少年感化院は、大正12年に土地の返還期限が到来し、江古田に移転する。のち錦華学院と改称し、現在は社会福祉法人錦華学院。東京都練馬区小竹町。

 羽皐号

  • 高名な「羽皐(うこう)」は号で、明治27年(1894年)ごろより東京渋谷村の羽澤に住したためとする。
    "皐"は澤(沢)と同義。なおこの「羽皐」はそれより前に羽澤に住んでいた愛刀家で知られた第2代内閣総理大臣黒田清隆の号でもある(黒田羽皐)。
  • この羽澤の地は、感化院運営の援助を目的として、宮内省より南豊島御料地7800坪を貸し下げられたことによる。羽皐はここに新たに感化院を設立し、傍らに自宅を構え、羽澤文庫と称した。

    (明治25年)
    七月四日 渋谷御料地ノ内、拝借地仮受取ノ為メ院長出張セラル
    一一月一一日 院長、午前八時半ヨリ南豊島羽澤御料地見分トシテ出張

  • この敷地内の一画に明治44年(1911年)の10月に鍛刀所を作り、宮内省御用刀匠の堀井胤明を招いて鍛刀させており、自らも焼刃直し程度は行ったとされる。
    しかし日本刀大百科事典によれば、正しくは堀井胤明の養子の堀井兼吉(俊秀)であるという。この刀工・堀井兼吉(俊秀)とは、2021年12月に坂本龍馬所用「陸奥守吉行」の押形が残っていたと話題になったときの「瑞泉鍛刀所」の初代の人物である。堀井兼吉(俊秀)は明治37年(1904年)胤明に入門。明治44年(1911年)に高瀬羽皐の羽澤文庫内の鍛刀所に迎えられた。同年師の娘と結婚して堀井家を継いでいる。大正7年(1918年)に瑞泉鍛刀所の専属刀工として養父とともに赴任し同主任となる。
     堀井胤明は本名堀井五郎三郎、刀工・堀井胤吉(月山貞吉ついで荘司直胤に師事。のち宮内省御用刀工)の甥でのち養子となって継いだ人物。明治36年(1903年)に宮内省御用刀匠。昭和7年(1932年)に室蘭に移って日本製鋼所(現室蘭製作所)に入所している。
     瑞泉鍛刀所では、刀鍛冶堀井家の初代を堀井胤吉、堀井胤明を二代としており、また瑞泉鍛刀所の初代は堀井胤明の跡を継いだ縁戚の堀井兼吉(刀工名は最初兼明、ついで秀明、さらに俊秀と改名)とする。
    瑞泉鍛刀所百年の歩み - 日本製鋼所(PDF)

 刀剣

  • 刀剣を趣味とし、明治33年(1900年)より靖国神社遊就館の刀剣会幹事を務める。
  • 明治42年(1909年)に「刀剣談」、翌43年には「日本刀」の連載を開始する。
  • また明治43年(1910年)10月には刀剣保存会を設立し、「刀剣と歴史」を羽澤文庫から発刊する。編集発行人は近藤鶴堂(近藤藤之介)。
  • さらに大正元年10月には日本刀の保存及びその研究を目的とした「日本刀剣保存会」を創立している。
  • 自らの愛刀としては、「青木郷」、武田信虎所持という兼光二尺九寸三分などが知られる。
  • 晩年羽澤の地から世田谷太子堂に移っている。
  • 大正13年(1924年)11月17日に72歳で死去。

 書籍

  • 主に刀剣、歴史関係の書籍を多数出版している。

 参考

 関連項目


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