乱藤四郎


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 乱藤四郎(みだれとうしろう)

短刀
銘 吉光
名物 乱藤四郎
個人蔵

  • 「乱れ藤四郎」
  • 享保名物帳所載

    乱藤四郎 在銘七寸四分半 代金六十枚 阿部豊後守殿
    昔は細川殿の乱藤四郎と云、出来替り故の異名なり、元禄十四年極め

  • 平造り、真の棟。中心はうぶ、吉光の二字銘。

 由来

  • 細川勝元所持の時、「乱吉光」と名付けられる。「細川の乱れ藤四郎」

    細川勝元の乱吉光と「八幡閑談」にあり、と春村筆記に記したるはこの藤四郎なるべし
    詳註刀剣名物帳

    春村は庄司健斉(庄司春村)。高瀬羽皐が師事した。

  • 藤四郎は多くは直刃にも関わらず、この藤四郎は珍しく乱れ刃ゆえに名付けられる。

 来歴

 細川勝元

  • 細川勝元は室町幕府管領家である京兆家(嫡流家)当主。のち管領。応仁の乱では東軍総大将となる。

 足利将軍家

  • のち「乱藤四郎」は足利将軍家に献上される。

 朽木元綱

  • 永禄11年(1568年)9月28日に信長が義昭を奉じて入京、同10月18日には14代将軍足利義栄を廃し、義昭が15代将軍となる。
  • そのわずか3ヶ月後の永禄12年(1569年)1月6日、美濃に戻った信長の留守を伺い、三好一族が15代将軍足利義昭を本圀寺に囲む。
  • このとき江州朽木の朽木元綱がこれを救い出し、その恩賞として与えられた。(本圀寺の変(ほんこくじのへん)
    この時信長は、「本圀寺急襲される」の報を受け、本来3日かかる道程を大雪の中2日で走破し、1月8日にわずか10騎足らずの供を連れて本國寺に到着したという。

    この後、本圀寺の建築物を解体し、烏丸中御門第の後に二条城(義昭期)の造営を開始する。信長自身が普請総奉行として現地で陣頭指揮を執り、細川分家である典廐家の細川藤賢の旧邸から文字通り鳴り物入りで名石「藤戸石」を搬入した。二条城は約70日ばかりで完成し、義昭は4月には本拠を移した。

 秀吉

  • のち秀吉が所蔵。

 備後福山藩主阿部家

  • その後備後福山藩主阿部家に伝来するが、そこまでの経緯は不明。

 その後

  • 昭和7年(1932年)に当麻国行とともに同家を出た。
    この現国宝の当麻国行は、その後ぎょうせいの中興の祖藤沢乙安氏の所蔵となり、のち日刀保の刀剣博物館へと寄贈された。
  • 昭和11年(1936年)細川利文子爵所持。長さ七寸四分半
  • 昭和47年(1972年)には飯田稔氏所持。
  • 現存、個人蔵

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