赤羽刀


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赤羽刀(あかばねとう)  

第二次世界大戦直後の連合国軍占領下の日本において、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ)の指令によって接収された刀剣類のうち、東京赤羽にあった旧陸軍倉庫に入れられた刀剣類の総称

  • 「GHQ刀狩り」
Table of Contents
  • 話は昭和20年(1945年)、日本がポツダム宣言を受諾し無条件降伏したところからから始まる。
    日本政府は8月14日にポツダム宣言の受諾を連合国各国に通告している。
  • 8月19日、フィリピンのマニラで行われた「マニラ会談」(降伏に向けた下準備のための会談)において、「一般命令第一号」が手交された。この11条では次のように定めている。

    日本國大本営及日本國当該官憲ハ聯合國占領軍指揮官ノ指示アル際一般日本國民ノ所有スル一切ノ武器ヲ蒐集シ且引渡ス為ノ準備ヲ為シ置クヘシ
    DOCUMENTS ON THE MANILA CONFERENCE > From MacArthur Report(Japanese Version Only)

  • この「日本国民の所有する一切の武器を蒐集し引き渡す」べしとする命令書の内容はほどなくして日本国内に伝わることとなり、混乱とその収集に向けた動きが起こり始める。
    陸軍代表河辺虎四郎中将率いる総勢16名の日本降伏使節団は、8月19日早朝に木更津空軍基地から飛び立つと、沖縄県伊江島を中継して同日18時にマニラ南部のニコルス飛行場に到着。同日夜よりマッカーサー元帥麾下の諜報部長であったウィロビー准将率いるスタッフと断続的に会合を行っている。会議を終えた使節団は、20日の13時にマニラを発ち、17時45分に伊江島着。故障のため半分を残して18時40分に同島を発つも23時45分に燃料が切れて天竜川河口付近に不時着、徒歩とトラックで移動し翌朝7時に浜松空港より陸軍機に乗り出発、8時に調布空港へと到着している。
    抜粋引用:DOCUMENTS ON THE MANILA CONFERENCE > From MacArthur Report(Japanese Version Only)

経緯  

米軍兵士による略奪  

  • 昭和20年8月28日朝に米軍先発隊が厚木飛行場に到着すると、米軍兵士は勝手に日本刀の略奪を開始する。
  • その後、30日にはマッカーサー元帥が到着し、その略奪が激しくなったため、たまりかねた日本側は、連合国軍最高司令部との間に設けられた大本営横浜連絡委員会(有末機関)において武器は日本側で収集し米軍へ引き渡すことを申し入れた。しかし略奪はやまなかったという。
  • 9月3日、ミズーリ艦上での降伏文書調印式の翌日、河辺参謀次長は、サザーランド参謀長に対して、日本刀は単なる武器ではなく家宝である旨を強調するも、日本刀の件は大本営横浜連絡委員会と交渉することになった。この交渉の間も日本刀の略奪は止むことがなかったという。

    九月三日午後河辺参謀次長はマニラ派遣のおり折衝したサザーランド中将(連合軍参謀長)と顔馴染みであったので、挨拶を兼ねて出頭された機会に、「日本の軍刀は、必ずしも単純な武器としてではなく、日本文化の象徴としてむしろ美術品的鑑賞に値する」所以を説明して、その無制限な徴集接収を厳に戒められたいむね懇願されたのをはじめとして(略)たしか五日の夜だったか、大雨の最中に浦茂中佐のごときどうしてもサザーランド参謀長に直接訴えたく面会に行ったが、護衛の兵隊さんに脅かされたとわたしに訴えられ、何とか機嫌をとり直すべく苦肉の策など授けたことについて、今に忘れられない思い出もあった。これらの運動が期せずして誰いうことなく自発的に盛んに行われたのは、当時横浜を中心とした軍人全般の希望でもあり念願でもあって、日本軍人いな日本人伝統美風の発露の賜であったと直感された。
    (有末機関長の手記)
    ※引用注:Webの特性上横書きに変更するに伴い、改行位置を変更した。以後の「有末機関長の手記」引用部も同様。

    浦茂(うら しげる)中佐
    旧日本軍軍人、航空自衛官、実業家。陸士44期。終戦時に陸軍中佐、陸軍省軍務局課員を兼ねている。大本営横浜連絡委員会(有末機関)の第二班所属。日本刀返還交渉の日本軍側の中心人物とされる。のち航空自衛隊、第5代航空幕僚長。のち水産エンジニアリング社長、芙蓉海洋開発(現、海洋エンジニアリング)代表取締役。

  • 9月6日、東日本を占領している第八軍から、軍刀ではない将校の刀剣は所持許可するとの連絡があり、翌7日にキャドウェル憲兵司令官は将校の私物刀は米軍憲兵隊に申し出れば所有を許可するが、米軍の指定する場所に保管し、家庭での保管は許可しないと通告があった。

    九月六日の午後サザーランド参謀長に招致されたわたしはマンソン大佐立会いの上、「爾後、米軍将兵による勝手な軍刀の接収は行わせないよう取計う」との理解ある口頭指示を受けて一安心。人身の安定に大いに効果ありとし、急いで参謀次長に電話報告に及んだのであった。同日夜八時ごろ、宿舎である磯子の偕楽園に帰ったところ、追っかけるように米進駐軍伝令から角封筒、それも名刺判の角封筒を受け取った。中にマンソン大佐の名刺にフランス語で、「本日、参謀長の口頭指示は取り消された。詳細は明日説明されましょう。とりあえず」と書いてあった。わたしは何が原因なのか、考えても考えても解らず、その夜マンジリともしなかった。翌七日出務するなり、マンソン大佐を通じサザーランド参謀長に面会を申し込んだ。取り消しの理由は、「日本刀に対する日本人、ことに日本軍人の観念に対する見解の相違であり、明治の廃刀令の話やら『刀の手前』云々の古語を接用しつつ、日本人ことに日本軍の復讐、進駐軍に対する暴力抵抗を疑ってのこと」であった。
    (有末機関長の手記)

  • 有末氏はここで30分あまり食い下がるが、やがてサザーランド中将は米本国からの秘密電報を示し、日本軍人が刀を取り返して米軍に復讐を企てるに違いないとの見解を示し、翌8日付けで日本軍兵は佩刀を禁じられ、軍刀の保管については日米両当局の認可書類と共に警察当局に届け出ることになったという。
  • 9月11日、米軍最高司令官から日本刀は昔からの家宝だけ残し購入したものは没収するとの命令が出、一般人の刀剣は警察署に提出する事となる。
  • そして12日にはサザーランド参謀長は、個人の所有を含むすべての刀剣の破棄を要求してくる。驚いた有末氏はサザーランド参謀長を尋ね、没収には家宅捜索もやるのかと質したところ、将校の所持刀はしても一般人のものはしないと言明したが、実際には民家の屋根裏まで捜索した例もあったという。
  • さらに電波探知機を使用して捜索し、もし発見された場合には沖縄に重労働にやられるとの噂が流れ、また日本人同士での密告も行われたという。
  • こうした事態を憂慮し、有末機関が改称した陸海軍東京連絡委員会では執拗に日本刀没収の緩和を訴え続ける。

    勇を鼓して直訴にかえて、GHQ軍政部長クリスト准将や第四部のイーストウッド准将、ハチソン大佐、第八軍兵器部長サドラー大佐などに、日本課長マンソン大佐を介して近づき、明治の帯刀禁止令の由来、日本刀を心の鏡とする哲学、抜かざるの剣の道、日本刀の平和的美術価値観の説明に何回となく訪れた。
    その後、第八軍の兵器破壊命令(十月五日)に私物刀除外を懇請したり、武器引渡促進の軍政部司令(十月十七日)に日本刀問題の解決が促進の有力手段であると抗弁したり、機会ある毎に理解を深めるようつとめた。
    (刀剣と歴史536号 「日本刀保存についてマッカーサー司令部との交渉経過(当時の日誌から)」浦茂氏)

    この間、当初横浜にあったGHQは、9月15日付けで東京有楽町の第一生命ビルへと移動し、それに伴い有末機関も移動しており、以降は陸海軍東京連絡委員会と改称している。

方針転換  

  • こうした運動が奏功し、9月22日米軍軍政部は、日本刀の接収は10月末日までに完了するよう、また、記念品など特別な事情のある日本刀は破棄の対象から外す、と態度を軟化させ、9月25日には日本刀の接収は日本の警察機関に行わせると譲歩する。
  • その後も陳情の手を緩めなかったところ、10月24日には最高司令官から、善意の日本人の所有する美術品としての日本刀は、審査の上で保管を許可するという指令が出された。

     聯合國総司令官發日本政府宛覺書 一九四五年十月二十三日附
     日本民間武器引渡シニ關スル件
    一九四五年九月二十四日附表題ニ關スル當司令部ヨリ日本政府宛通告ニ對シ次ノ諸指令ヲ追加スルモノトス
    (一) 日本政府ハ米第六軍、米第八軍司令官竝ニ米海軍第五艦隊司令官ノ指令ニ基キ一般民間ヨリ蒐集シタル全火器、刀剣、銃剣、短剣及ビ其ノ他ノ武器、彈薬、火藥類及其ノ材料ヲ米軍代表ニ引渡スベシ
    1.尚左記ノモノハ例外トシテ許容サルモノトス
    イ狩猟用火器竝ニ猟用ナイフ及ビ美術ノ對象ト認メラルル刀剣
    (略)
      総司令官ニ代リ、
        高級副官部
           高級副官補大差(HWアレン)

    十月二十四日という日は永久に私の脳裏に刻まれて、忘れない。それは「善意の日本人の所有する骨董品、美術品的刀剣は審査のうえ保管を許す」というGHQ指令が発せられたからである。当時宮城前のGHQの隣りの日本クラブにあった連絡委員長室で二ヶ月の長い折衝の結実に涙を流して欣び合った。
    (前出:刀剣と歴史536号)

    日本刀保護の論理は、「一般日本國民ノ所有スル一切ノ武器」から除外するために、家宝から記念品など、さらに美術品としての日本刀と、方針が転換されていることがわかる。

    当初、「一般命令第一号」に基づく日本刀接収計画を知った本間順治がかねてより交流のあった長尾よねに相談し、東大教授児島喜久雄の案内により9月2日朝には東久邇宮稔彦第43代内閣総理大臣(昭和22年10月14日に皇籍離脱)に面会の上相談すると、近衛(文麿)にも相談すべしということで、女婿で秘書を務めていた細川護貞に相談し近衛文麿に話が通じたことでこの問題が認知されたという。しかしその後については本間・佐藤の両氏とも話が飛んでおり、この間の詳細な経緯は2人の口からは明らかにされていない。※細川護貞のはじめの妻は、近衛文麿の二女・近衞温子。2人の子には、細川護煕(第79代内閣総理大臣)、近衞忠煇がいる。温子は結核により早世した。
  • 佐藤寒山「刀剣鑑定手帳」及び「日本名刀物語」にも次のように書かれている。

    この指令(※昭和20年10月の美術品としての日本刀を除外する指令)が出されたについては内輪話をすれば、昭和二十年九月三日(※正しくは2日)ミズーリ艦上において重光日本全権が降伏調印の日に、ときの首相東久邇宮に今はすでにない東大教授児島喜久雄先生の案内で本間氏が御目にかゝっている。その時しばしばお願いしたことは、一般国民の持っている刀剣は武器ではなく美術品であるからなんとか救って頂きたいという事であり、宮様もそれは一寸難しいぞという事であったらしい。宮様はこのことを近衛文麿氏に処置を頼まれたが近衛さんが死なれた今日どんなコースをたどってマックァーサー元帥のいれるところとなったかは明りょうではないがこのときの陳情が実を結んだものである。
    (刀剣鑑定手帳)

     思いつめた私どもは、なんとかして刀剣を護らねばならない、救わねばならないと文字どおり東奔西走、進駐軍に嘆願やら説得やらで、八方手を尽くした。その第一線に立ったのが本間博士であり、及ばずながら私も全力を挙げた。しかもそのはじめは、交渉の窓口すらもわからなかった。それが横浜の第八軍憲兵司令部であることを知ったのは、昭和二十年もまさに二、三日を残す十二月の末であった。
    (日本名刀物語)

     やっとのことで、美術的価値ある刀剣は日本の権威者の審査の上、国民が保管してもさしつかえないという覚え書をもらったのが、昭和二十一年五月である。美術的価値ある刀剣、こんな言葉はその以前にはなかった言葉である。これは昔から軍刀程度とか軍刀むきとかいう言葉があって、刀剣愛好者や専門家の間では、自然のうちに実用刀とそうではない高級品との区別が厳然とあったものである。この高級な日本刀が美術品であり、一口に刀剣といっても、すべてが武器ではないということを進駐軍に理解させ、認識させるためには、非常な努力と日時をついやしたのである。そして日本刀が晴れて美術品として鑑賞できるようになるまでは、さらに多くの時間を必要とした。

     昭和二十三年の春に、国立博物館(いまの東京国立博物館)で刀剣の大展覧会を開催したのは、日本刀の美しさを世界にむかって宣言したものであり、敗戦によって自信を喪失した国民に、大きな誇りと信念を与えたものと信ずる。
    (日本名刀物語)

  • これにより、日本刀処理は日本の内務省・文部省の手に移った。しかしその後も引き渡しの督促や引き渡した日本刀に対して米軍の手による海洋投棄やガソリン焼却などが行われた。

刀剣審査委員会発足  

  • 昭和21年6月3日付の勅令「銃砲等所持禁止令」および同月17日付けの内務省令「銃砲等所持禁止令施行規則」により、それまで米軍の手にあった日本刀審査権と所持許可権が日本の内務省に譲渡され、内務大臣の任命した刀剣審査委員会が発足することとなった。

    勅令第三百號
      銃砲等所持禁止令
    第一條 鉄砲、火藥類及び刀剣類(以下銃砲等といふ)は、これを所持することができない。但し、法令に基き職務のために所持する場合及び左の各號の一に該當するものについて、内務大臣の定めるところにより、地方長官(東京都においては警視総監)の許可を受けた場合は、この限りでない。
    一 有害鳥獣駆除のために必要とするもの
    二 狩猟を業とする者がその業務の用に供するもの
    三 刀剣類で美術品として價値のあるもの
    四 火藥類で産業の用途に供するもの
    前項に規定する銃砲等の範囲は、内務大臣がこれを定める。

    内務省令第二十八號
    銃砲等所持禁止令施行規則を次のやうに制定する。
     昭和二十一年六月十七日
       内務大臣 大村清一

  • 委員は全国で60余名任命され、美術品と認めたものは所持許可証が与えられた。この時、古来の日本刀の鍛法により製造されたものは原則許可されることとなる。
  • 第1回の刀剣審査委員会のメンバー。

    委員長 本間順治
    委員 石渡信太郎、神津伯、佐藤貫一(佐藤寒山)、倉田文作、尾崎元春、辻元直男、本阿弥光遜、本阿弥猛夫(本阿弥日洲)、本阿弥宗景、川口陟、加島勲、宮形光鷹、近藤周平、村上孝介(以下略)

  • ※なお昭和25年(1950年)11月15日の政令第334号「銃砲等所持禁止令」の施行に伴いこれらの禁止令及び施行規則は廃止されている。

赤羽への保管と国外持出  

  • いっぽうそれ以前に接収されたものは、昭和21年3月までに北海道から岐阜縣までのものは第八軍、近畿中国地方は第六軍、九州四国地方は第五海兵隊がそれぞれ保管していたが、やがてそれらは東京赤羽の旧工兵隊跡地にあった第八軍兵器庫に集められた。その数は、脇差、鎗、薙刀などを含み、20万口を越える膨大なものとなった。
  • その後審査委員20数名により判別され、昭和22年(1947年)、美術品と認められた数千本は上野国立博物館(東京国立博物館)に搬入され、不合格刀は米軍により破棄された。
  • 昭和24年(1949年)4月、国家地方警察本部が作成した「進駐軍より返還せられた刀剣類作者別分類目録」では、その総数が5037(4460)振りとなっており、そのうち1132振りが所有者に返還されたという。
    なお「接収刀剣類の処理に関する法律」にもとづき、平成8年8月29日付の「官報」に告示された「赤羽刀」の数は、4576本。また文化庁文化財保護部美術工芸課が、平成12年につくった「赤羽刀(接収刀剣類)」という冊子では約5500本となっている。要するに著しくズレがあるということ。

日本への里帰り  

  • 進駐軍兵士により米国など日本国外へ持ち去られた日本刀の数は、万をもって数えられ、その中には国宝重要美術品も相当数含まれていた。
  • その後1947年(昭和22年)には豊後正宗や備前国宗、長船兼光、相州秋広など重要美術品クラス以上のほか、約5600口の日本刀が里帰りした。
    • ただし「本庄正宗」など現在でも里帰りしておらず行方不明となっている刀は多数ある。

所有者への返還  

  • その後、元所有者への返還が始まり、1132口が所有者などに返還されたが、4576口が所有者不明のまま国の所有として東京国立博物館の収蔵庫で保管された。
  • その中には、重要美術品に相当するのものは含まれていなかったが、およそ4000口には銘があり、「刀匠の出身地でなら、十分展示に値する」と評価されたものの、長期間放置されていたため研磨を要する状態になっていた。
  • 戦後50年にあたる1995年(平成7年)には「接収刀剣類の処理に関する法律」が成立して1996年2月から施行され、国への移管が行われる。同時に、文化庁が元所有者からの返還請求を受け付け、審査の結果7口は、元所有者やその遺族に返還された。
  • 1999年、なお国の所有に残ったもののうち3209本が、広く公開・活用を図るため、転売せず一般公開することを条件に全国191の公立博物館に無償譲与されることになった。


関連資料  

経緯  

一般命令第一号  

接収刀剣類の処理に関する法律