観世正宗


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 観世正宗(かんぜまさむね)


大磨上無銘 相州正宗
名物 観世正宗
2尺1寸1分9厘(73.6cm)
国宝
東京国立博物館所蔵

  • 享保名物帳所載

    観世正宗 磨上長二尺一寸三分 代七千貫 御物
    観世左近所持、宗燻両代の内より家康公へ召上らる、取次の人は不知、光瑳申しは御城御帳に森正宗、観世ともあり作州森殿の家より取次召上られ候やと光山森殿御家へ尋申候処、相知れ不申由、秀忠公へ伝り天寿院殿御入輿の時、本多中務殿拝領、其刻は代千貫なり、後ち中務殿遺物として差上け越後光長卿御元服の時拝領、秀忠公御座の間にて理髪は崇源院殿、加冠は秀忠公万治三年に三千貫になる、又其後二百枚になる寛文三四の頃家綱公召上られ黄金四百枚拝領なり、表裏樋、忠表に剣梵字、裏に梵字倶利伽羅有之、元禄十五霜月十二日綱吉公甲府家宣公へ御成の時此刀に光包千五百貫の脇差三百五十貫の来国俊太刀そへて拝領、此時二百枚の郷、百五十枚の貞宗献上なり

  • 大磨上のなかごには、表裏に梵字、倶利伽羅竜、剣の彫り物が残っている。
Table of Contents

 由来

  • 号は能楽の観世左近の所持にちなむ。
    • 元は「森正宗」と呼ばれていたというが、その由来は不明。本阿弥光山が「作州森殿」つまり津山藩森家(鬼武蔵の末弟、森忠政の家系)に問い合わせたが知り申さずと答えており、また埋忠銘鑑には「毛利殿すり上 寿斎かなぐ仕申候 酒讃岐殿ニ有之」とあり、この毛利殿は毛利秀頼、または父・毛利新助かも知れない。

 来歴

 観世左近

  • もとは観世左近の所持

 家康

  • 享保名物帳」によれば、観世宗雪、黒雪の時代に徳川家康が召し上げたという。

    観世左近は元祖服部観阿弥より七代目稀世の名人にて黒雪と呼ぶ、此者死したる時家康公殊の外惜み何にても紀念(かたみ)の品差上よとの上意で、此の正宗を献上したりと其家にては言伝ふる由なり(観世家所伝・詳註刀剣名物帳

    ただし家康は元和2年(1616年)薨去、九世黒雪は寛永3年(1627年)に没しているためこの話は矛盾する。一方、七世宗節の方は天正11年(1584年)に没している。宗節は元亀2年(1571年)には家康を頼って遠州に下っている。元亀以後、遅くとも元和までに徳川家に伝わったことになる。

  • 以後、何度か下賜と将軍家献上を繰り返す。

 本多忠刻

  • 元和2年(1616年)、徳川秀忠の代に息女千姫(豊臣秀頼室、後に本多忠刻室)の輿入れに際して本多家に持参。
  • 寛永3年(1626年)本多忠刻の死後、遺物として献上。

 越後高田藩松平光長

  • 寛永6年(1629年)、元服した松平光長に下賜される。

    十二月七日松平千千代首服加へられ。従四位下左近衛權少將に叙任し。御名の一字たまはり越後守光長と稱す。中川郷の御刀を給ひ。  大御所よりも観世正宗の御刀を給ふ。

    西丸ニ登テ大御所(秀忠)ニ謁シ御腰物観世正宗ヲ賜フ

    なおこの元服日については諸説ある。

  • 越後高田藩松平家に仕えたことがある大村加卜は、「童子切安綱」などとともにこの「観世正宗」も拝見しており、自著「剣刀秘宝」に切先の図を載せている。
  • さらに、(寛文3年ごろ)光長から家光に献上した所、返礼として判金五百枚をくだされたと記している。※これは四百枚が正しいとされる。

 甲府中納言(家宣)

  • さらに元禄10年(1697年)に綱吉から甲府中納言(のちの家宣)が拝領している。

    十二日甲府中納言綱豐卿の邸に臨駕あり。御盃下さるとき。勸世正宗の御刀。光包の御差ぞへ給はり。黄門(のちの家宣)より返盃のとき。義弘の刀。貞宗の御さしぞへ奉らる。

    同十二日、甲府中納言様へ御成、被進候品々、
    眞御太刀三百五十貫国俊
    御腰物三百五十貫観世正宗、御脇指千五百貫光包
    (御当代記)

    十二日入御于甲府黄門綱豊卿之亭、御太刀国俊、御刀観世正宗、御脇差光包(略)、被献御太刀粟田口国吉、御刀、御脇差、御馬

    継平押形」に「金象嵌正宗」と載せるのは、御腰物台帳「金象嵌正宗 御刀 二尺四寸」と本刀を混同したもの。

 将軍家

  • その後家宣の将軍就任により、再び将軍家所蔵に戻る。
  • 寛政2年(1790年)4月に上覧。

     四月廿四日、左之御道具
       上覧ニ相廻ル、御名物御道具、是者帳面ニ而、
     
      一、観世正宗
        是ハ観世左近所持、
        権現様被 召上、元和之頃秀吉ゟ本多
        中務大輔給ル、又上リ越後少将殿元服之
        時拝領、其後
        厳有院様被 召上、元禄十年十一月十二日
        常憲院様甲府中納言殿御館御成之時被進、

    元和に秀吉はおらず2代将軍秀忠の誤記だが、闕字もしておらず明らかに秀吉と間違っている。観世左近→家康→秀忠→本多忠刻→将軍家→越後少将光長→家光→綱吉→甲府中納言(のちの家宣)と、上の来歴同様の経緯が記されている。

  • 明治まで徳川宗家に所蔵。
  • 明治12年(1879年)10月の熾仁親王日記に登場する。

    十日金、晴
    一、議官大久保一翁ヨリ徳川家達所蔵ノ刀剣取寄、差贈相成之事
      目録 刀ノ部
    一、會津正宗・義弘・貞宗・宗近・二字國俊・國光・行光行平・西蓮、
           短刀ノ部
     新藤吾國光・信國・長圓・行平行光粟田口國吉・來國次・青江貞次、
     
      徳川達孝所藏、
    一、観世正宗・包永・粟田口國安・仁静、
     
      徳川家達所藏
    一、五月雨郷・一文字吉光貞宗・兼氏・長光・當麻・木庄正宗本庄正宗)・光包・信吉・正宗・吉家・正宗正宗中脇差

    この文は意味が通らずよくわからない。そもそも大久保一翁から「徳川家達所蔵ノ刀剣取寄」という項であるため、全てが徳川宗家所蔵なのかと思うが、途中「目録」と同じ字下げ位置で「徳川達孝所蔵」、「徳川家達所蔵」と並んでいる。徳川達孝は田安徳川家第9代当主で徳川家達の弟。慶応4年(1868年)兄の家達が徳川宗家を継いだため達孝は明治2年(1869年)に田安家の嫡子となり、明治9年(1876年)に田安家9代当主となった。
     なお「観世正宗」は有栖川宮家から高松宮家に伝来したことは確実だがその時期は不明で、熾仁親王日記にも登場しない。ちなみに「会津正宗」はこの年の年末に有栖川宮熾仁親王の所有となりその旨日記にも記載があるが、「五月雨江」はのち尾張徳川家に譲渡されている(現在は徳川美術館所蔵)。

 有栖川宮・高松宮

  • のち徳川慶喜から有栖川宮熾仁親王に献上、のち同宮家を継承した高松宮家に伝えられた。
    旧皇室典範では皇族の養子縁組は禁止されていたため、有栖川宮の旧称である「高松宮」として新たに創設され、大正天皇の第3皇子である宣仁親王が有栖川宮家の祭祀や資産などを継承した。のち昭和62年(1987年)に宣仁親王が、さらに平成16年(2004年)に喜久子妃(徳川慶喜の孫にあたる)がそれぞれ薨去したため高松宮家は断絶となった。
  • 昭和32年(1957年)、文化財保護委員会が購入した。
    旧所有者は高松宮付宮内事務官の吉島六一郎氏。
  • 昭和34年(1959年)6月27日に国宝指定。
  • その後、昭和36年(1961年)5月に銀座松屋で「正宗とその一門」という展覧会に本刀が出品された際、高松宮(宣仁親王)が案内なくお見えになり、係りの者が慌てて案内したところ、この「観世正宗」は特に懐かしげにご覧になり思い出話をされたという。
  • 昭和36年(1961年)に東京国立博物館へ移管。


 観世宗節

  • 戦国時代に活躍した観世流猿楽師。七世観世大夫。
  • 現代に至るまで観世宗家の通り名となっている「左近」を初めて名乗った人物ともされる。
  • 父の従兄弟にあたる観世弥次郎長俊とその子・観世小次郎元頼らが織田信長の寵愛を受けたのに対し、観世宗節の観世宗家は苦境に立たされ、遠江浜松へと下る。
  • 宗節は生涯独身だったため、弟である宝生大夫重勝の子・三郎元尚を養子としていた。しかし八世大夫であった元尚も早くに亡くなってしまったため、元尚と小次郎元頼の娘との間に生まれていた当時12歳の子、鬼若(宗節孫)を育て後継とする。
  • この鬼若が、後に九世大夫身愛となり黒雪を名乗る。
観阿弥─┬世阿弥─┬観世元雅──十郎──十郎(2代目)━━十郎(越智大夫、駿河十郎大夫)
    │    │  (越智観世家)
    │    │
    │    └元能────三郎
    │
    └四郎──┬観世三郎元重─┬又三郎(正盛)
         │(音阿弥)  ├又四郎
         │       ├小四郎(四郎左衛門)
         └弥三郎    ├与四郎(宗観)
                 ├八郎
                 ├三郎之重──元広─┬元忠(観世宗節)━━三郎元尚
                 │(祐賢)     ├宝生重勝──元尚  │
                 │         ├十郎(越智観世家) │
                 │         └宗顕        ├鬼若身愛(観世黒雪)
                 │                    │
                 └観世信光──観世長俊──観世元頼────女

三郎清次(観阿弥)──三郎元清(世阿弥)──三郎元重(音阿弥)──又三郎(正盛)─
─三郎之重(祐賢)──三郎元広(道見)──元忠──左近元尚──左近身愛──左近重成

 観世黒雪

  • シテ方観世流九世
  • 本名、身愛(ただちか)。
  • 宗家の通り名、左近を名のる。黒雪は法名。
  • 観世宗節の孫。三河の人。最初京都に進出して豊臣政権下で四座棟梁の一人として認められるものの、金春流を愛好した豊臣秀吉からは重用されなかった。
  • のち江戸に下って徳川家康・秀忠の援助をうけ、四座の筆頭として活躍した。
  • 数年後、駿府を出奔して高野山で出家するという事件を引き起こす。2年後には帰参して観世左近大夫暮閑と称した。

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