蜘蛛切藤四郎
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蜘蛛切藤四郎(くもきりまる)
脇差
銘 吉光
裏銘 亀王丸(蜘蛛切丸と伝承)
長さ32.6cm、反りなし 元幅1.9cm
愛知県指定の文化財
熱田神宮所蔵
- 「吉光」は同名刀工が多いが、藤四郎吉光と見られている。
- 二筋樋、巴紋が金象嵌で入る。
- 目釘孔2個、うち上を埋める。
- 「癬丸」、「熱田国信」と合わせて「熱田三剣」と呼ばれる。
いわゆる寸延び短刀と呼ばれるものだが、県指定文化財とする愛知県では"脇差"としている。
由来
- しかし、「張州雑志」の熱田志、熱田神宮神宝の欄には、そのような記述はない。
【蜘切太刀一柄】
粟田口鍛冶吉光作之。謹按。吉光者粟田口國家曾孫國吉子也。住粟田口。凡按太平記劔巻。源頼光斬蜘蛛之妖。冷泉圓融之際也。鍛工吉光者伏見院御宇之人也。傳説實齬々焉。抑別有稱吉光鍛工歟。考宇都宮三河入道之所記鍛工目録等書。外有呼吉光者。所謂土佐吉光。備前吉光也。
- いっぽう「張州雑志」での織田信長の記述は、「御葭神事」(後に南新宮祭となったもの。現在は”熱田まつり”)の項にあるが、「太刀一柄」としか書かれておらずどの太刀かは特定できない。神宝の項目には”太刀一柄”とされるものが複数載っている
此當時平信長家人有橋本伊賀守(橋本一巴の本人または一族か)某者。信長一旦觀此祭禮。祝神事賜太刀一柄於伊賀守氏族橋本源右衛門某。自是以降。橋本氏子孫賜之太刀。
- 結局、かなり古くより源頼光より伝わる蜘蛛切(膝切・膝丸)と混同されていることがわかる。しかし古くより熱田神宮の吉光として著名でもあり、記録にも残る。
- 尾張藩士・朝日文左衛門重章の日記「鸚鵡籠中記」にも登場する。
同七日
御刀・脇指二十一腰御ぬぐひとぎや両人上下を着す有之、其内、蜘蛛切丸吉光と云々、しのぎに金の巴、象眼に入る八幡太郎の紋なり・癬丸・熱田国信の三腰、
- 昭和55年(1980年)に愛知県の文化財に指定。
一色家「蜘蛛切藤四郎」
小刀(刺刀)
九寸五分
- 鞍馬の多聞堂を再建した折の話、京都から通っていた大工が粟田口藤四郎に釘を作らせていたが、工事のある間木屑(こけら)を持ってくるので、護身用の九寸五分の刺刀(さすが)を作ってくれと頼む。
- 木屑を三年運んだところでようやく出来上がり、それを腰に差して市原のあたりを通っていると、村雨が降ってきた。杉の木の下で雨宿りをしているとつい眠りに落ちてしまう。すると大きな蜘蛛が糸を垂らして大工を巻き上げにかかったが、腰の刺刀がひとりでに抜け出し、糸を切ってしまう。そんなことを繰り返しているところに一色家の家来が通りかかって、刺刀の霊力に驚き主君に報告すると、さっそく千疋で買い上げ「蜘蛛切藤四郎」と命名したという。
- しかし、吉光の時代に一色家は創建されておらず、この話は吉野朝以降のものとされる。
丹後結城家「蜘蛛切吉光」
短刀
粟田口藤四郎
- 康生(1455)のころ、丹後国丹波郷の領主であった結城越後入道道成所持の粟田口藤四郎の短刀。
丹後出身の結城満藤という人物が、足利義満の近臣として寵愛を受け、明徳2年(1391年)の明徳の乱ののち応永元年(1394年)に山城守護となっている。本姓は古山(ふるやま)氏。通称十郎。勘解由左衛門尉、越後守。応永3年(1396年)、伊勢守護であった仁木満長を策謀により追放、仁木満長がこれに反抗する意味で出家遁世すると、これが諸大名による結城満藤弾劾のきっかけとなっていく。結城満藤は応永8年(1401年)頃まで山城守護を務めるがその後は不明。
この満範の孫である結城義貫は足利義教から疎まれ、永享12年(1440年)に幕命により暗殺された。
「蜘蛛切吉光」を所持したという「結城越後入道道成」については不詳だが、この結城一族よりさらに15年後に丹波郷を領していた人物という。
それよりさらに50年ほど下った延徳3年(1491年)に足利義視が没すると、足利義材と対立していた結城正広は義材の攻撃を受け出奔、丹波郷はその後、丹後一色氏の一族である一色政具の所領となる。明応6年(1497年)の足利義澄の御教書においても、一色政具の所領として丹波国丹波郷が記されている。結城満藤──○──結城義貫
- 中心に蜘蛛の姿を金象嵌していたという。
- 銘「吉光」の光は、第一画の縦線が垂直で、第二画は”く”、第三画が”一”となっていた。
蜘蛛切正恒
- 本阿弥家(7代光心ころ)の押形に残る正恒。
- 中心に梵字を切っており、「洲崎兵庫重代、蜘蛛切ト云」と注記されている。この洲崎兵庫とは、慶覚坊と号した加賀一向一揆の大将であった人物だという。
金沢市にある慶覚寺(きょうかくじ)の寺伝によれば、開山開基が洲崎兵庫次男の洲崎慶覚為信であるという。それによれば、慶覚こと洲崎為信は、近江国馬渕郷の郷士・洲崎兵庫次郎右衛門の次男として生まれるが、江州堅田で蓮如に帰依して慶覚の号を拝受した。のち国人武士として加賀松根城や、尾山御坊の出城であった椿原山堡(現在の椿原天満宮)の城主となるが、石川郡の泉村、米泉村、西泉村の三ケ村支配権を得た後、 文明8年(1476年)に米泉村(金沢市米泉町)に住み着いて道場を開いたという。冨樫政親を高尾城に攻め滅ぼした長享の一揆では総大将冨樫泰高の下で実質的なの指揮権を握ったという。
7代本阿弥光心の頃の押形というので、本阿弥家に持ち込まれたのは天文(1532-15551)~弘治(1555-1558)頃の話ということになる。なお長享の一揆は長享2年(1488年)の事なので、洲崎慶覚よりも少なくとも1代か2代あとの「洲崎兵庫」を名乗る人物からの鑑定依頼ということになる。「金沢古蹟志」でも楠部子春の「加賀古蹟考」を引いた上で、「おもふに、右慶覺坊は蓮如の時にて文明の頃の人なるよし、慶覺寺の由來書に記載し、三州志等にも泉入道洲崎兵庫は蓮如の弟子と成るなど載せたれば、永禄・天正頃の洲崎兵庫は、其の子孫にて別人なるべけれど、諸舊記には皆同人の如く載せたり。故にその事實互に齟齬して判然せず。」と書かれている。
三州志は加賀藩士・富田景周の「加越能三州志」のこと。「越登賀三州志」、「三州志」とも。
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