紫式部
紫式部(むらさきしきぶ)
平安時代中期の歌人・作家・女房
源氏物語、紫式部日記の作者
「中古三十六歌仙」、「女房三十六歌仙」の一人
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概要
- 藤原北家良門流の越後守・藤原為時の娘で、母は摂津守・藤原為信女であるが、幼少期に母を亡くしたとされる。
紫式部者、鷹司殿従一位倫子、一條左大臣雅信公女、官女也、相續而陪侍上東門院、父越後守為時、母常陸介為信女也、其祖先者、閑院左大臣、冬継、次内舎人良門、右中將利基、中納言兼輔、因幡守雅正、為時也、後に左衛門權佐宣孝に嫁して、大貳三位辨局狭衣作者を生す、
- 同母の兄弟に藤原惟規がいるほか、姉がいたこともわかっている。三条右大臣・藤原定方、堤中納言・藤原兼輔はともに父方の曽祖父で、一族には文辞を以って聞こえた人が多い。
生涯
- 長徳4年(998年)頃、親子ほども年の差があり、又従兄妹でもある山城守・藤原宣孝と結婚。長保元年(999年)に一女・藤原賢子(大弐三位)を儲けた。
- この結婚生活は長く続かず、間もなく長保3年4月15日(1001年5月10日)に宣孝と死別した。
女房として
- 寛弘2年12月29日(1006年1月31日)、もしくは寛弘3年の同日(1007年1月20日)より、一条天皇の中宮・彰子(藤原道長の長女、のち院号宣下して上東門院)に女房兼(現代でいえば)家庭教師役として仕え、少なくとも寛弘8年(1012年)頃まで奉仕し続けたようである。
- 紫式部が女房として務め始めた年月には諸説あり、永延元年(987年)の藤原道長とその正室・源倫子の結婚の際に、倫子付きの女房として出仕した可能性が指摘されている。
『源氏物語』解説書の『河海抄』『紫明抄』や歴史書『今鏡』には紫式部の経歴として倫子付き女房であった(河海抄云鷹司殿從二位倫子官女也相續而陪仕上東門院)ことが記されている。他にも『紫式部日記』からうかがえる、新参の女房に対するものとは思えぬ道長や倫子からの格別な信頼・配慮があること、永延元年(987年)当時は為時が散位であったこと、倫子と紫式部はいずれも曽祖父に藤原定方を持ち遠縁に当たることなどが挙げられる。
また女房名からも、為時が式部丞だった時期は彰子への出仕の20年も前であり、さらにその間に越前国の国司に任じられているため、寛弘2年(1005年)に初出仕したのであれば父の任国「越前」や亡夫の任国・役職の「山城」「右衛門権佐」にちなんだ名を名乗るのが自然で、地位としてもそれらより劣る「式部」を女房名に用いるのは考えがたく、そのことからも初出仕の時期は寛弘2年以前であるという説である。
父・為時は永観2年(984年)に見六位蔵人式部丞。弟・惟規は寛弘4年(1007年) に六位蔵人、見兵部丞。
- 『詞花集』に収められた伊勢大輔の「いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重ににほひぬるかな」(百人一首61番歌)という和歌は宮廷に献上された八重桜を受け取り中宮に奉る際に詠んだものだが、『伊勢大輔集』によればこの役目は当初紫式部の役目だったものを式部が新参の大輔に譲ったものだったとされる。
女院の中宮と申ける時、内におはしまいしに、ならから僧都(※扶公僧都、興福寺別当)のやへさくらをまいらせたるに、こ年のとりいれ人はいまヽいりそとて、紫式部のゆつりしに、入道殿きかせたまひて、たヽにはとりいれぬものを、とおほせられしかは
- 『小右記』長和2年5月25日(1014年6月25日)条で「実資の甥で養子である藤原資平が実資の代理で皇太后彰子のもとを訪れた際、『越後守為時女』なる女房が取り次ぎ役を務めた」旨の記述があり、これが紫式部であるとされる。
- 『小右記』寛仁3年正月5日(1019年2月18日)条で、実資に応対した「女房」を紫式部本人と認める説もある。
- さらには、西本願寺本『平兼盛集』巻末逸文に「おなじ宮の藤式部、…式部の君亡くなり…」とある詞書と和歌を、『定頼集』の逸文と推定し、この詠歌以前には死亡していたとする説もある。
女房名「藤式部」
- ”紫式部”は後世に付けられた愛称のようなもので、当時宮中では父親の官名(式部丞・六位蔵人)であったとされる「式部」に、藤原氏である「藤」を付けた女房名「藤式部」と呼ばれていた。
あるいは同母弟である藤原惟規の官位「従五位下、式部丞」によるとする説もある。
- これでは一般的すぎるのか、平安時代末には源氏物語の登場人物の印象から「紫式部」と呼ばれるようになったのだという。
すでに万寿2年(1025年)の「栄花物語」で「大宮彰子の御方の、紫式部がむすめの越後の辨、左衛門督兼隆の御子うみたるぞ、仕うまつりける」と紫式部になっている。さらに応徳3年(1086年)、勅撰「後拾遺和歌集」で「紫式部」とされて以降は、およそ紫式部が正式な通称となったとされる。
- 当時の人物は、とくに女性については本名は天皇の妻か母とでもならない限り、まず残っていない。下記系図で登場する女性名は、ほとんどがそうした出自の氏と関係者の官職などを合わせたものになっている。
さて紫式部といふ名は、實の名にはあらず、すべて女房に、式部少納言右近などいふたぐい、みないはゆる呼名也、こは初學のためにまづいふ也、此人、實の名は世にはつたはらず、すべて古名高かりし女房、おほくは實の名は見えず、撰集どもにも、よび名をしるされたり、さて式部といふに、紫和泉小式部などあるは、式部といふが、あまた有て、まぎるヽ故に、わかむため也、(略)さて紫式部も、もとは姓によりて、藤式部といへりしと也、そはとうしきぶとよむべし、(略)さて又紫としもいへるよしは、河海抄に一説云、もと藤式部といへるを、幽玄ならずとて、藤の花のゆかりに、紫の字にあらためらるとあり、(略)河海にも、一部のうち紫上の事を、すぐれてかきなしたる故に、藤式部を改めて、紫式部と號せられたりとあり
(源氏物語玉の小櫛)
「まひろ」「ちやは」などは、あくまで「光る君へ」というNHK大河ドラマにおける登場人物名(フィクション)にすぎない。NHKチーフプロデューサーで大河ドラマ「光る君へ」制作統括の内田ゆき氏も「平安時代の多くの女性の名前は判然としません。紫式部も然りです。そこで私たちは、心に燃えるものを秘めた個性的な主人公に『まひろ』という名をつけました。」と述べている。
関係者と贈答した歌などから、(幼名?が)「もも」ではないかと指摘されているが決定的な根拠はない。
- 「道長の近親者の女性の本名(諱)が残っているではないか」といっても、それは天皇の妻か母となったおかげであり、彼女達であっても基本的に”よみがな”すら伝わっていない。そもそも多くの人は生年もわかっておらず、当時は(身内はわかっていたとしても)他人に年齢を数える習慣がなかった(だから誕生年月日を記載しなかった)ともいわれている。
生誕地
- 紫式部の生誕地として名高いのが、京都御苑東側にある現在の廬山寺(天台圓淨宗の本山、廬山天台講寺)の地である。「紫式部旧邸址」の石碑が建っている。
紫式部者(略)、舊跡は正親町以南京極西颊、今東北院向也、此院は上東門院(※藤原彰子)御所の跡也、
(河海抄)
古代学協会による調査の結果、昭和40年(1965年)にこの地が紫式部ゆかりの地であることが特定され、石碑建立とともに、「源氏の庭」が整備された。『源氏の庭』/京都府ホームページ
なお「東北院」は現在、もっと東の吉田神社の東側にあるが、これは天喜6年(1058年)の法成寺の火災により移転したもので、元は京都市上京区北之辺町付近にあったと考えられている。元々は道長の没後に道長娘である上東門院(彰子)の発願により法成寺の東北に建てられた常行三昧堂。上東門院の母である源倫子が建立した常行三昧堂が法成寺西北にあり「西北院」と称していたのに対応する。法成寺は現在の京都府立鴨沂高等学校北側に「従是東北 法成寺址」の石標が建っている。KA032 法成寺址
※いずれも現在の京都御苑の東、鴨川までの間に位置する。
- 曽祖父・藤原兼輔の屋敷が、「中川のわたり」とも呼ばれていたこの近辺にあったとされる。鴨川の堤に接していたため「堤邸」と称され、それにより兼輔は「堤中納言」と号したという。この屋敷はのち、紫式部の伯父にあたる為頼(丹波守、従四位下・摂津守、太皇太后宮亮)、さらに父の為時へと相伝された。
東西50丈(3.05×50=152.5m)、南北40丈(3.05×40=122m)あったとされる。この「中川のわたり」は、「中川のわたりなる家」として源氏物語にも空蝉が住む屋敷(紀伊守邸)として登場する。
中川(中河)とは、かつて東京極大路(現在の寺町通)の東側を流れていた川で、は東京極川とも呼ばれたという。現在は暗渠となっており確認できない。鴨川上流から水を引き二条大路まで川が掘られ、次第に拡張されて中川(二条大路より南では京極川)となった。平安中期には中川より東に公営田が広がっていたという。のちこの中川と鴨川の間一帯には法成寺など貴族の屋敷が建ち並び繁栄を見る。紫式部が源氏物語に描いたのもこの頃である。
のち、中津川から今出川を作った際に、旧中川の鴨川からの引き込み口はなくなり、今出川の水流を中川へと流した。またこの時、一條以南の川の名称も今出川と変わっている。のち戦国時代に荒廃したときに川の流れも変わってしまい、秀吉が御土居を築いた際に一條以北の今出川も姿を消した。
- 紫式部は、ここから上東門院に出仕しながら筆を執ったとされ、また紫式部が晩年に住んだとも言われる。
墓地
- 古くは14世紀中頃の『源氏物語』注釈書『河海抄』(四辻善成)に、「式部墓所在雲林院白毫院南 小野篁墓の西なり」と明記されている。また宇治宝蔵日記にも「紫野に雲林院有よし見えたり」と記される。
又式部墓所在雲林院、百毫院の南、小野篁墓の西也、宇治寶蔵日記にも、紫野に雲林院あるよしみえたり、雲林院は淳和離宮也、賢木巻に、光源氏雲林院にて六十巻といふ文とかせてきヽ給し所也、式部は檀那贈僧正の許可を蒙て、天台一心三觀の血脉に入れり、かねてより紫野雲林院の幽閉を思しめけるも旁ゆへあるにや
(河海抄)雲林院百毫院の南にあたるこの場所は、もと淳和天皇が離宮・紫野院を置いており、天長9年(832年)には雲林亭、のち雲林院と改められた。のちに仁明天皇の離宮となっている。仁明天皇の崩御後に皇子・常康親王(-869)へと譲られた。没後、今度は文徳天皇の皇子・惟喬親王(844-897。生母の更衣・紀静子の姉が、仁明天皇更衣で常康親王の生母)に譲られ、親王は貞観11年(869年)2月に雲林院を遍昭に譲って天台宗の修行場とし、薨去後に官寺「雲林院」(元慶寺の別院)となった。
※僧正遍昭は桓武天皇の孫(良岑氏)で、六歌仙および三十六歌仙の一人。百人一首12番歌「天津風 雲の通ひ路吹きとぢよ」でも知られる。俗名・良岑宗貞として仁明天皇に仕えて寵愛を受け、その崩御後に出家した。
平安貴族に広がっていた仏教思想によれば、架空の物語(嘘)を作る行為は五戒の1つ「不妄語戒」に反することから、「色恋沙汰の絵空事を著し多くの人を惑わした紫式部は地獄に堕ちたに違いない」という考えが生まれ、それを供養(源氏供養)する考えから小野篁伝説と結びつけられたのだ、ともいう。
- その他、15世紀後半の注釈書『花鳥余情』(一条兼良)、江戸時代の書物『扶桑京華志』や『山城名跡巡行志』『山州名跡志』にも記されている。この情報が長い間にわたり、両家の墓所として保たれてきた理由を示している。
- 甲子夜話にも次のように載る。
篁朝臣の塚は大徳寺の畠中に在り。其傍に土人こうづき塚と呼び來る古塚あるは、紫式部が古墳と云ふ。これは雲林院の末院白毫院といふ寺院の持分なり。地方は紫野雲林院の卯辰の方三町ばかり畠の中なれど、いと細き田疇にて往き求めがたし。
- 雲林院は鎌倉時代に入って衰退したものの正中元年(1324年)に復興され、大徳寺が建立されるとその院外塔頭となった。以後は禅寺となったが、応仁の乱(1467年-1477年)の兵火により廃絶した。
- 現在の雲林院は、臨済宗の江西宗寛を開山として1707年(宝永4年)にかつての寺名を踏襲し、再興されたものである。京都市の建札によれば、この場所から東北の地域はかつては小野氏の領地だったが、後に藤原氏の所有となったとされる。
作家・歌人として
- 『紫式部日記』の18首のほか、『紫式部集』、『拾遺和歌集』などにも和歌を残し、和歌795首が詠み込まれた。
- 百人一首
めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな
(57番:紫式部)
- 作家としての評価は当時から高く、一条天皇も「この人は日本紀をこそ読みたるべけれ、まことに才あるべし」と評価し(これにより日本紀の御局とあだ名された)、道長もその評価故に女房に採用し、また当時は貴重であった紙も提供したとされる。
「源氏物語」は原本は残っていないものの、鎌倉期の六半本写本を元に試算した結果では、全54帖には全紙換算で507枚程度が必要だったとされる。また紫式部日記には下書きや推敲の存在も書かれており、書き損じも加えるとおよそ2000枚以上の紙が用いられたのではないかと推定されている(NHK「歴史探偵」”光る君へコラボスペシャル2 源氏物語”)。また一条天皇へ献上する本については、特に「色とりどりの紙を選んで整えて」と書いており、特別な紙に書かれていたことがわかっている。
また古典総合研究所の著書「後期挿入と経済性」では、東山御文庫蔵「源氏物語紙」(各筆源氏)を元に、2788丁(ページ)が必要だったと推計している。こちらでも下書き・推敲で倍は必要としたとしており、計5576丁(ページ)を推定必要最低枚数としている。こちらでは1帖から48枚取ったと仮定して経済性を算定している。
- 源氏物語と紫式部日記の2作品は、150年ほど後の平安時代末期に『源氏物語絵巻』、200年ほど後の鎌倉時代初期に『紫式部日記絵巻』として、各々絵画化された。
- 一方歌人としての評価は、同時代では和泉式部、赤染衛門、伊勢大輔、相模らに劣っており、同時代の歌集では親交があったとされる「伊勢大輔集」に採られる程度で、能因法師が「永延巳來寛德以往(一条代より後朱雀代まで)」の92名167首を集めた「玄々集」にも入っていない(赤染衛門や和泉式部、道綱の母らは入る)。
- しかし白河天皇の時代「後拾遺和歌集」に三首、堀河天皇の「栄花物語」に五首、藤原範兼の「後六々撰」に三首入ることで中古三十六歌仙へと撰ばれることとなった。その後も俊成の「千載集」に九首、定家の「新古今集」に十三首が採られることでその評価は最高峰に達した。これは「源氏物語」による名声の高まりによるものだとされており、俊成の「源氏見ざる歌詠みは遺恨の事なり」、定家の「紫式部の筆を見れば、心も澄みて、歌の姿・詞の優に詠まるるなり」という言葉に現れている。順徳天皇に至っては「下説に源氏歌は劣たり、狭衣(※「狭衣物語」作者を大弐三位としている)歌こそよけれと云人有と 云々。此條心
浮淺猿 事也。更非同日論。試狭衣歌も少々不惡はあれども、源氏歌に不可及事雲泥也。凡歌道は知與不知如水火者歟」と評価している。
源氏物語
- 平安時代中期に成立した日本の長編物語、小説。全54帖。
- 文献初出は1008年(寛弘五年)、平安末期に「源氏物語絵巻」として絵画化された。
- 作者の紫式部は平安中期における和歌の名手の1人で、娘の大弐三位とともに「百人一首」や「女房三十六歌仙」の歌人として現代に至るまで永く親しまれており、源氏物語は、紫式部が生涯で唯一残した物語作品である
- 平安期では晩婚となる20代半ばすぎに藤原宣孝と結婚し一女をもうけたが、結婚後3年ほどで夫と死別し、その現実を忘れるために物語を書き始め、これが『源氏物語』の始まりともいわれる。
- 当時、紙は貴重で、紙の提供者がいればその都度書き、仲間内で批評し合うなどして楽しんでいたが、その物語の評判から藤原道長が娘の中宮彰子の家庭教師として紫式部を呼んだ。
- それを機に宮中に上がった紫式部は、宮仕えをしながら藤原道長の支援の下で物語を書き続け、54帖からなる『源氏物語』が完成した。この原本は現存せず、鎌倉初期の「藤原定家自筆本」が現存する最古の写本となる。
紫式部日記
- 藤原道長の要請で宮中に上がった際、宮中の様子をはじめ藤原道長邸の様子などを記した『紫式部日記』を残している。
古写本には表題を「紫日記」とするものが多く、室町時代の源氏物語の注釈書「河海抄」には「紫記」・「紫式部が日記」・「紫日記」・「紫式部仮名記」といったさまざまな名称で現存する紫式部日記に含まれる文章が引用されている。
中世の源氏物語研究の中では取り上げられることがほとんど無かったが、江戸時代に安藤為章が「紫家七論」で取り上げて以降、源氏物語の成立事情を考えるための第一資料とされるようになっている。
- 中宮彰子の出産が迫った寛弘5年(1008年)7月から、寛弘7年(1010年)正月にかけて約1年半にわたる日記で、随所に宮中行事の様子も記され、宮中内の者しか知り得ない現場の様子もよくわかり、行事の開催など事実だけを記載する公的歴史記録では知ることができないものである。また紫式部が女性仲間と物語に関して批評し合い楽しんでいた様子なども書かれており、この日記は源氏物語執筆のきっかけを知ることができる第一級の資料でもある。
- 日記体部分
- 寛弘5年7月 出産のため、中宮彰子が父藤原道長の土御門邸へ里帰り。
- 寛弘5年8月 懐妊10ヶ月に入る。公卿たちが宿直。
- 寛弘5年9月 めでたく敦成親王(後一条天皇)を出産。
- 寛弘5年10月 一条天皇が面会に土御門邸へ行幸。
- 寛弘5年11月 誕生五十日の祝宴。中宮彰子は内裏へ還る。
- 寛弘5年12月 紫式部も内裏に戻る。初出仕の頃の回想。
- 寛弘6年1月 元旦は坎日(かんにち)の凶日で、若宮の戴餅の儀は延期。
- 消息文
- 11人の中宮付き女房の描写。
- 斎院(選子内親王)の女房たちと中宮彰子の女房たちの比較。
- 和泉式部・赤染衛門・清少納言の論評。
- 自らを省みる。
- 日記体部分
- 時期不明記事 道長との和歌贈答。
- 寛弘7年1月 敦成・敦良(後朱雀天皇)両親王の戴餅の儀。
紫式部集
- 紫式部自身による少女時代から晩年ころまでの歌の自撰集とされている。
- 和歌およそ120首が収められている。
参考系図
【現実の藤原家系図】
- 主に「光る君へ」登場人物中心
- 「三十六歌仙」:斎宮女御、伊勢、中務、藤原高光、藤原朝忠
- 「中古三十六歌仙」および「女房三十六歌仙」:紫式部、清少納言、和泉式部、赤染衛門、伊勢大輔
- 「女房三十六歌仙」:儀同三司母(高階貴子)、大弐三位(藤原賢子)、小式部内侍
※赤塗りは、主な女流歌人・女流作家。重複出現の場合は本家でのみ赤塗りをした (藤原北家) 藤原不比等─房前─真楯─内麻呂─┐ │ ┌───────────────┘ │ │ ─宇多─┬─醍醐───┬村上─ │ └─敦慶親王 └重明親王─斎宮女御(※三十六歌仙) │ (北家真夏流) ├─中務(※三十六歌仙) └┬真夏─濱雄─家宗─継蔭─伊勢(※三十六歌仙) │ │ (小野宮流) └冬嗣┬長良┬基経─忠平┬実頼─┬頼忠──公任──定頼 │ │ │ └斉敏──実資(「小右記」) │ │ │ │ │清原元輔─│───┬清少納言(定子の女房) │ │ │ └理能室 │ │ │ │ │ │ │ ┌藤原理能 │ │ │ ├菅原孝標室(妹)─菅原孝標女(「更級日記」) │ └高経─惟岳─倫寧─┴道綱母(「蜻蛉日記」) │ │ ├──道綱 │ │ │ │ │ │ 儀同三司母(高内侍) │ │ │ ├─┬─定子(一条帝皇后) │ └師輔─┬兼家─┬道隆 └─伊周 │ │ ├道兼───兼隆 │ │ │ ├─源良宗室 │ │ │ 紫式部─大弐三位 │ │ │ │ │ │ ┌源簾子(大納言の君) │ │ │┌源扶義┴小少将の君 │ 源雅信─│───│┴源倫子(頼通および妍子、教通、威子の生母) │ │ │ │ ※仕:赤染衛門 │ │ │ │ │ │ ├─道長┬─頼通 │ │ │ │ │ │ │ ├─────嬉子 │ │ │ │ ├──後冷泉 │ │ │ │ ┌後朱雀 │ │ │ │ │ │ │ │ ├─妍子 │ │ │ ├超子 │ ├──禎子内親王 │ ├安子 │ ├───三条 │ │ │ ├┬─冷泉─│─花山 │ │ │村上│├───│─────威子 │ │ ││ └─彰子 │ ├─章子内親王 │ │ │└詮子 ├─┴後一条 │ │ │ ├───一条 │ │ └─円融 │ │ │ │ ├兼通──媓子(女房が小大君で※三十六歌仙) │ │ │ └高光(※三十六歌仙) │ │ │ 伊勢大輔 │ ├─源兼俊母 │(北家良門流) ┌明順─成順 ┌伊周 └良門┬利基─兼輔┬雅正┬為時┬惟規 ┬高階成忠┴儀同三司母─┴定子 平清盛┌平基盛 │ └清正└為頼├惟通 └高階敏忠─業遠─高階成章 源家実 ├─┴平重盛 │ ├定暹 │ ├─基章┬高階基章娘 │ └紫式部(彰子の女房) ├高階為家─┬源家実室 └高階為泰 │(勧修寺流) ├──藤原賢子(大弐三位、後冷泉乳母)└高階為章━━高階基章 └高藤─定方┬朝頼─為輔─藤原宣孝 │ └朝忠(※三十六歌仙) ├───源良宗室 │ 藤原道兼──兼隆──兼房 ├──左大臣家少輔 赤染時用──赤染衛門 ┌─江侍従 ├──┴─挙周─成衡──匡房─維順─維光─大江広元 大江維時──重光─┬─大江匡衡 └─大江雅致──和泉式部 ├───小式部内侍 橘仲任───橘道貞(道長側近)
※一条天皇・藤原道長中心系図 ┌藤原伊周 │ 【中関白家】 │ (清少納言)┌媄子内親王 ┬藤原道隆──┴藤原定子 ├敦康親王 │ ├─────┴脩子内親王 │ │ │┌円融天皇 │ ││ ├───懐仁親王(一条天皇) ├─藤原詮子 │ ││ ┌─│──────藤原威子 ││ │ │ ├───┬章子内親王(後冷泉天皇中宮) ││ │ │ │ └馨子内親王(賀茂斎院、後三条天皇中宮) ││ │ ├─────┬敦成親王(後一条天皇) └藤原道長──┼藤原彰子 └敦良親王(後朱雀天皇) 【御堂関白家】│ (紫式部) │├────親仁親王(後冷泉天皇) │ ├─────────藤原嬉子 │ ├藤原頼通 │ │ │ │ │ │ │ ─┴冷泉天皇─│┬花山天皇 ├─────尊仁親王(後三条天皇)──白河天皇──堀河天皇 │├三条天皇 │ ││├──────禎子内親王 └─藤原妍子 │ ├為尊親王━┓ └敦道親王━┻和泉式部━藤原保昌(藤原南家) (道長・彰子に仕えたという)
- 藤原彰子の女房には、紫式部のほか和泉式部、赤染衛門、出羽弁、大弐三位、伊勢大輔などが居た。
道長と紫式部との縁戚関係 ※道長の妻の母・穆子を経由した関係 【藤原北家良門流】 ┌藤原嬉子(後朱雀天皇東宮時代の妃、後冷泉の母) ├藤原威子(後一条天皇皇后 号中宮) ├藤原教通 (御堂関白家)├藤原妍子(三条天皇皇后 号中宮) 藤原道長 ├藤原頼通 源雅信 ├───┴藤原彰子(一条天皇中宮。後一条・後朱雀の母) (勧修寺流) ├──源倫子 藤原良門─┬高藤─定方─┬朝忠──穆子 │ ├朝頼──為輔──宣孝 │ └女子 ├───大弐三位 │ ├──為時──紫式部 └利基─兼輔──雅正 ※道長の母・時姫を経由した関係 【藤原北家魚名流】 為輔 ├──宣孝 藤原山蔭─┬公利──女子 │ ├中正──時姫 │ ├──┬藤原道隆 │ 兼家 ├藤原超子(冷泉天皇女御、三条天皇生母) │ ├藤原道兼 │ ├藤原詮子(円融天皇女御、一条天皇生母) │ └藤原道長 │ └女子 ├──女子 定方 ├─為時──紫式部 雅正
- つまり道長の妻となる源倫子の母・穆子が紫式部のことを親戚というのも、また夫である宣孝が紫式部の親戚関係であるというのも、どちらも正解となる。むしろ道長と紫式部はまったくの他人というわけではなく、かなり近しい関係(現代で言えば子供時代なら親にくっついて冠婚葬祭に呼ばれるか呼ばれないか程度)にあることもわかる。
系譜
- 家系としては、冬嗣を初めとして曽祖父・兼輔、祖父・雅正、その弟・清正、定方、父・為時、その兄(つまり伯父)・為頼や為長、紫式部の弟・惟規も悉く勅撰歌人という綺羅びやかな家系に生まれている。こうした背景が、「源氏物語」を生む基礎となる教養や、歌人としての素質を育んだことは容易に想像できる。
大河ドラマでは身寄りが夫となる宣孝しかない極貧家族に描かれているが、曽祖父・兼輔は従三位権中納言、祖父・雅正は従五位周防守、伯父・為頼は従四位下摂津守、伯父・為長も従五位上陸奥守と、決して素寒貧な状態ではなかったものと思われる。しかも祖父兼輔の「堤邸」も一族で相続しており、紫式部自身もそこで生まれ育ったとされる。藤原北家嫡流ほど盛んではなかったが、決して庶民ではない受領層貴族の家系である。
また父方の従兄弟で後に妹の婿となる藤原信経も六位蔵人から、右兵衛尉・兵部丞・式部丞も兼ねており、従五位下・河内権守に任じられ、のち越後守、内蔵権頭をも任じられている。
曽祖父・兼輔
- 賀茂川堤に邸宅があったことから堤中納言と号した。
- 娘・桑子が醍醐天皇更衣となりその春宮時代より仕えた。のち桑子は章明親王を生む。
- 寛平9年(897年)に醍醐天皇が即位すると昇殿を許される。
醍醐天皇の伯父で右大臣に昇る藤原定方も同じく春宮殿上しており、この頃より交流があったと見られている。のち定方の娘を娶ったほか、息子・雅正にも藤原定方の娘(母は山蔭女)が嫁いでおり、曾孫である紫式部も定方の曾孫である宣孝と結婚している。定方も百人一首の25番歌「名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな」で知られる。
- 醍醐天皇に非蔵人として仕える傍ら、右衛門少尉を兼ね、延喜2年(902年)従五位下に叙爵する。
- 延喜3年(903年)内蔵助に抜擢されるが、この頃より定方の娘の許へ通い始める。
- 内蔵権頭・内蔵頭と20年近くの長きに亘って内蔵寮官人を務める傍ら、左兵衛佐・右衛門佐・左近衛少将といった武官や五位蔵人を兼任して引き続き天皇の側近として仕える。
- この間、延喜10年(910年)従五位上、延喜15年(915年)正五位下、延喜16年(916年)従四位下と順調に昇進する。その後も、延喜17年(917年)蔵人頭、延喜19年(919年)左近衛権中将を経て、延喜21年(921年)に参議として公卿に列した。
- 藤原北家嫡流ではなかったが、外戚であった醍醐天皇や、義父の定方の庇護を得て高官に昇った。延長5年(927年)従三位・権中納言に至る。
- 和歌・管弦に優れ、また従兄弟で妻の父である三条右大臣・藤原定方とともに当時の歌壇の中心的な人物であり、紀貫之や凡河内躬恒など多くの歌人が邸宅に集まった。
- 百人一首に採られている。
みかの原 わきて流るる 泉川 いつ見きとてか 恋しかるらむ
(27番:中納言兼輔)
祖父・雅正
- 平安時代中期の貴族・歌人。
- 藤原北家良門流、中納言・藤原兼輔の長男。
- 刑部大輔や豊前守・周防守などの受領を歴任したが、位階は従五位下に留まった。村上朝の応和元年(961年)周防守在任中に頓死したとされる。
- 父・兼輔とともに紀貫之との親交で知られている他、伊勢とも交流があった。『後撰和歌集』に和歌作品が7首採録されている他、藤原基俊撰集の『新撰朗詠集』にも採録されている。
- 藤原定方の娘を正室に迎えており、為頼、為長、為時の3男を儲けた。
父・為時
- 天暦3年(949年)頃の誕生と見られている。
- 父・為時は、30代に東宮の読書役を始めとして東宮が花山天皇になると蔵人、式部大丞と出世したが、花山天皇が出家すると散位となる(位禄はある)。
娘である紫式部の「式部」の呼称は、この時の為時の官職名に由来するとされる。
- 一条朝に入ると約10年に亘って散位の状況となるが、藤原道長が執政になると長徳2年(996年)に従五位下・越前守に叙任されて越前国へ下向する。娘・紫式部も同行させたため、紫式部は娘時代の約2年を父の任国で過ごした。
実際には、当初藤原為時は長徳2年(996年)正月25日の除目で淡路守に任ぜられていたが、3日後の28日に右大臣・藤原道長が参内して、俄に越前守に任ぜられたばかりの源国盛を停めて、藤原為時を淡路守から越前守に変更した(つまり除目のやり直しを行った)。下国である淡路国に比べ越前国は大国であり、国司としての収入には雲泥の差がある。
越前守を譲らされた源国盛の家では嘆き悲しみ、国盛は衝撃のあまり病気になってしまい、秋の除目で播磨守に任じられたが病は癒えずとうとう死んでしまったという。
- 寛弘6年(1009年)正五位下・左少弁に叙任されるが、2年後の寛弘8年(1011年)に越後守となり再び受領を務めた。息子の惟規も越後国に同行したが、惟規はまもなく現地で亡くなっている。また、長和3年(1014年)6月に任期を1年残しながら越後守を辞任し帰京したが、一説には直前に紫式部が亡くなったからではないかと言われている。
- 後一条朝初頭の長和5年(1016年)4月29日に三井寺にて出家。寛仁2年(1018年)には摂政・藤原頼通邸の屏風の料に詩を献じたが、その後の消息は不明である。
- 官歴
- 貞元2年(977年) 3月28日:東宮読書始尚復、見文章生
- 永観2年(984年) 12月8日:見六位蔵人式部丞
- 正暦2年(991年) 9月7日:大内記
- 時期不詳:従五位下
- 長徳2年(996年) 正月25日:淡路守。正月28日:越前守
- 寛弘6年(1009年) 3月4日:左少弁
- 寛弘7年(1010年) 日付不詳:見正五位下
- 寛弘8年(1011年) 2月1日:越後守
- 長和3年(1014年) 6月17日:辞越後守
- 長和5年(1016年) 4月29日:出家
弟・藤原惟規
- 藤原北家良門流、越後守・藤原為時の子。紫式部の同母兄もしくは同母弟。
- 一条朝に、文章生を経て長保6年(1004年)ごろから寛弘2年(1005年)ごろまで少内記を務める。その後、兵部丞・式部丞を歴任する傍らで六位蔵人を兼ね、一条朝末の寛弘8年(1011年)に従五位下に叙せられた。
- 叙爵後は散位となり、越後守に任じられた父・為時に従って越後国に赴くが現地で卒去。
- 勅撰歌人として、『後拾遺和歌集』(3首)以下の勅撰和歌集に和歌作品10首が採録されている。家集に『藤原惟規集』がある。
- 官歴
- 長保6年(1004年) 正月11日:見少内記
- 寛弘4年(1007年) 正月13日:六位蔵人、見兵部丞
- 時期不詳:式部丞
- 寛弘8年(1011年) 正月5日?:従五位下
- 日付不詳:卒去
夫・藤原宣孝
- 平安時代中期の貴族。藤原北家高藤流、権中納言・藤原為輔の子。官位は正五位下・右衛門権佐。
- 紫式部の夫。大弐三位の父。
- ※宣孝の曾祖父・定方の娘は紫式部の祖母であり、宣孝の父・為輔と、紫式部の父・藤原為時はいとこにあたる関係であり、宣孝と紫式部は「またいとこ」にあたる。
- 円融朝末に六位蔵人兼左衛門尉を務め、永観2年(984年)円融天皇が花山天皇に譲位すると、宣孝は院判官代に補せられる。しかし、まもなく今度は花山天皇の蔵人に転じた。
- 一条朝の正暦元年(990年)筑前守に任ぜられて筑紫に赴任すると、正暦3年(992年)ごろ大宰少弐も兼ねている。
- のち、右衛門権佐として京官に復し、長徳4年(998年)山城守を兼ねるが、この頃に紫式部と結婚している。
- 宣孝には既にこの頃には、長男・隆光(母は藤原顕猷の娘。筑前・越前・備中・備前の守、主殿頭・皇后宮大進、左京大夫)、次男・頼宣(母は平季明の娘。陸奥守従四位下)、三男・儀明(生母不明)、ともに母は藤原朝成の娘の四男・隆佐(大蔵卿従三位)および五男・明懐(權少僧都興福寺別当)らがいた(明懐で14・5歳とされる)。このことから中年男性であったと考えられている。
- また、任官時期は不明なるも弁官を務めたらしいが、蔵人・右衛門権佐(検非違使佐)と同時には兼帯せず、三事兼帯とはならなかったという。
- 宣孝には正妻がいたため、紫式部とは同居していなかったとされる。
- 長徳5年(999年)ごろには一子・藤原賢子(大弐三位)を儲けている。
- 疫病のために長保3年(1001年)4月25日卒去。『紫式部集』には、夫の藤原宣孝の死去に伴い詠んだ和歌「見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦」が収められている。
娘・大弐三位
平安時代中期の女流歌人
女房三十六歌仙
藤三位、越後弁、弁乳母とも
- 長保元年(999年)頃の誕生と見られている。長保3年(1001年)には父・藤原宣孝と死別。父・藤原宣孝と母・紫式部の結婚生活は3年あまりだった。
- 長和6年(1017年)18歳ごろ、母の後を継ぎ一条院の女院彰子(上東門院)に女房として出仕。
- この間、藤原頼宗、藤原定頼、源朝任らと交際があったことが知られている。
- その後、関白・藤原道兼の次男・兼隆と結婚、一女の源良宗室をもうけた。これは『栄花物語』「楚王の夢」に「大宮の紫式部が娘・越後の弁、左衛門督の子産みたる」の「左衛門督」を兼隆とする解釈である。
ただしこれを「兵衛督」の誤りとみて紫式部の配偶者を藤原公信とする説もある。これは『今鏡』に良宗の男子・知房が大弐三位の孫とあることによる。公信は娘の生まれた翌年の万寿3年に薨去している。配偶者が公信の場合、大弐三位は奇しくも母親と同じように未亡人となったということになる。
- 母である紫式部の没したと思われる少し前に彰子に出仕し、祖父為時の官名により越後の辨と呼ばれた。
- 万寿元年(1024年)左衛門督藤原兼隆の妻となって子(源良宗室)を生み、翌万寿2年(1025年)8月親仁親王(後冷泉天皇)の誕生に伴い、その乳母に任ぜられた。
- 長暦元年(1037年)までの間に東宮権大進・高階成章と再婚、同2年(1038年)高階為家と一女をもうけている。天喜2年(1054年)、後冷泉天皇の即位とともに従三位に昇叙、夫・成章も大宰大弐に就任した。
「大弐三位」という女房名は、この自らの位階(従三位)と夫の官名(大宰大弐)を組み合わせたものである。
- 大弐三位は、永保2年(1082年)に83歳前後で亡くなったとされる。
- 百人一首
有馬山 猪名(ゐな)の笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする
(58番:大弐三位)
- ※かつては「狭衣物語」(さごろもものがたり)の作者とされてきたが、現在では六条斎院宣旨・源頼国女を作者とする説が有力である。
関連項目
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