小野篁
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小野篁(おののたかむら)
平安初期の漢学者で歌人
従三位・参議
野相公、野宰相、野狂
小倉百人一首では参議篁
生涯
- 小野妹子(遣隋使)の五代孫であり、参議小野岑守の子。
- 延暦21年(802年)の生まれ。
- 小野小町(六歌仙)や、小野好古(藤原純友の乱追捕使)・道風(三蹟)兄弟の祖父にあたるという。
藤原旅子 ├───淳和天皇 桓武天皇 ┌平城天皇 ├──┴嵯峨天皇 藤原乙牟漏 ├──仁明天皇 橘諸兄──橘奈良麻呂──橘清友──┬橘嘉智子 ├──文徳天皇 └橘安万子 │ 藤原冬嗣 │ │ ├──│─┬藤原順子 藤原真作─┬藤原美都子│ └藤原良房 │ │ └───藤原三守──┬娘(仁明女御) 小野妹子─┬毛人──毛野─┬老──┬小贄 └娘 └広人 └田守 ├竹良──┬滋野 │ │ └永見──┬野主 │ │ ├岑守──┬小野篁──┬良真──小野小町 └石根───石子 ├石雄 └千株 └葛絃─┬小野好古 ├沢守 └小野道風 └滝雄
- 弘仁2年(811年)に父小野岑守が陸奥守に任ぜられ、陸奥に赴き、弓馬を能くしたという。都へ帰った後も学問を疎かにしたため、嵯峨天皇が漢詩に優れ侍読を務めるほどであった岑守の子であるのになぜ弓馬の士になってしまったのかと嘆いたため、以後は学問を志し、弘仁13年(822年)には文章生試に及第する。
- 弘仁15年(824年)に巡察弾正に任ぜられたのを振り出しに、弾正少忠・大内記・蔵人を経て、天長9年(832年)に従五位下・大宰少弐に叙任される。
- 天長10年(833年)に仁明天皇が即位すると、皇太子・恒貞親王の東宮学士に任ぜられ、弾正少弼を兼ねる。
- 承和元年(834年)に遣唐副使に任命されたが、二度の難破の後に大使藤原常嗣と軋轢を起こし乗船を拒否、さらに遣唐使の事業を風刺する「西道謡」という漢詩を作ったために嵯峨上皇の怒りを買い隠岐に配流されてしまう。しかし、その才を惜しまれ二年後の承和7年(840年)には帰朝、特別に正五位下に復せられ刑部少輔に任ぜられる。
- 承和9年(842年)承和の変により道康親王(のち文徳天皇)が皇太子に立てられるとその東宮学士に任ぜられ、まもなく式部少輔も兼ねる。その後は蔵人頭、権左中弁、左中弁と要職を歴任し、承和14年(847年)には参議に任じられた。
- やがて体調を崩して官職を辞し、一旦は左大弁に復するが再び病を得て、仁寿2年(852年)には在宅のまま従三位に叙せられるが間もなく薨去した。享年51。
- 野相公、野宰相と称される。
百人一首
- 配流の際に詠んだ詩が、百人一首に選ばれている。
わたの原 八十島かけて 漕ぎ出ぬと 人には告げよ あまのつり船
(11番:参議篁)
子子子子子子子子子子子子
- 「ねこのここねこ、ししのここじし(猫の子子猫、獅子の子子獅子)」と読む。
- 「宇治拾遺物語」などに、嵯峨天皇の頃に内裏に「無悪善」と書いた立て札が立てられた。篁に読みを尋ねた所、「悪(さが=嵯峨天皇)無くば、善けん」と読んだ。立て札を立てたのは、これを読むことができた篁に違いないとして天皇が怒ると、篁は自分は何でも読めると抗弁した。
今は昔小野篁といふ人おはしけり
嵯峨の御門の御時に内裏に札をたてたりけるに無悪善と書きたりけり、御門篁に読めと仰せられたりければ読みは読み候ひなん、然れど畏れにて候へばえ申し候はじと奏しければ、ただ申せと度々仰せられければさがなくて善からんと申して候ふぞ、されば君を呪ひ参らせて候ふなりと申しければ、汝放ちては誰か書かんと仰せられければ、さればこそ申し候はじとは申して候ひつれと申すに御門さてなにも書きたらん物は読みてんやと仰せられければ、何にても読み候ひなんと申しければ、
- そこで嵯峨天皇は「子」の字を12個連ねたものを差し出し、「ならば、これが読めるか」と問うたところ、篁はたちどころに「ねこのここねこ、ししのここじし」と読んだため、天皇の怒りが解けたという。
片仮字のね文字を十二書かせ給ひて読めと仰せられければ、ねこのこの子ねこししのこの子じし、と読みたりければ御門微笑ませ給ひて事なくてやみにけり
閻魔大王
- 説話では、小野篁はこの世と地獄を自由に行き来し、閻魔大王の閻魔の庁の第二冥官を勤めたという。
- 地獄に行き来するのに井戸を使ったと言い、往路は六波羅蜜寺近くの六道珍皇寺の裏庭の井戸(死の六道)。復路は嵯峨野の福生寺の井戸(生の六道)であったといわれている。
このうち六道珍皇寺の井戸は現在も残るが、福生寺は明治期に廃寺となり現在は龍蟠山薬師寺(嵯峨薬師寺)に生の六道の石碑が残る。
- また篁は閻魔大王から「お精霊迎え」の法を授かったという。
- なお六道の辻とは、現在の六道珍皇寺の門前から西福寺の門前の辺りを指す。六道とは地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天上道を指し、葬送の場であった鳥辺野へ繋がる場所であったここが、この世とあの世との境であったという。
- 六道珍皇寺には、篁作と言われる閻魔大王の木造があるが、その横に並んで小野篁の木造がある。
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