田中親美
田中親美(たなか しんび)
古筆研究家
1875-1975
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生涯
- 明治8年(1875年)4月9日、大和絵師で宮廷画家の田中有美、いとの間に京都で生まれる。本名・茂太郎。
- 明治17年(1884年)、父が縁のあった三条実美の斡旋で東京に呼び寄せられ、一家をあげて上京する。
- 明治20年(1887年)、12歳で多田親愛に入門し書を学ぶ。師の勧めにより古筆の模写を始める。「親美」の号は、師の親愛と父の有美からとったものである。
- 明治35年(1902年)、大口周魚にも知遇を得、周魚によって発見された「西本願寺本三十六人家集」の料紙の美しさに惹かれ、その複製(模本)制作を決意する。
西本願寺本(以下、西本と略称す)三十六人集をはじめて見たのは、私が二十六歳のころ、今から約六十年ほども昔のことであった。所は宮中御歌所の寄人(よりうど)大口鯛二氏(大正九年十月没)の自宅であった。大口氏は、この家集の発見者である。発見者の功により、所蔵者である京都西本願寺の大谷家から全帖を借りて、宮内省の金庫に預け置き、そのうち二・三集ずつ自宅へ持参し拝観する自由が許されていた。
私が、はじめて大口氏に見せられたのは、伊勢集だった。私はこれを見て驚いた。驚きはやがて喜びに変わり、胸の底から何か熱いものがこみあげて来て、体中が得体の知れぬ感覚で包まれてしまうのであった。
もう、いいとか美しいとかいう言葉は追いつかない。得もいわれぬ品のよさ、高雅脱俗の気韻とはこんなことをいうのであろう。私は、ただただ藤原貴族芸術の美的世界に魅入られるばかりであった。
(略)
私は家に帰ったが、大変なものを見てしまったという感動で、胸がおさまらず、落ち着くこともできなかった。そこで、私は思った。「こういう立派なものを見た以上は、なんとか、それを十分に味わいたいものだ。そしてまた、こんな立派なもののあることを多くの人にも知らせたい」と。つまり、そこで私は、この三十六人集三十五帖すべてをうつし、模本を作ることを思い立ったのである。
思い立つとさっそく、大口氏をたずねて、私の願いを伝えた。私は当時若かったから、この仕事は私のライフ・ワークであり、後世に残すべき命がけの大事業だと気負っていた。
大口氏は、私より十二歳年上だったが、私の強い気負いをくじくかのように、「ああ、いいよ、写してごらんなさい」と、いとも簡単に言った。こちらがまじめに何年かかってもやりぬこうという決意でいるのに、その答え方はなんということか。私は、内心はなはだおもしろくないものがあった。
あとから聞くと無理もない。三越衣裳部の者が、私の言い出す以前、大口氏を訪ね「着物の柄に使いたいから、三十六人集の文様の模写をさせて欲しい」と申し出た。承諾すると、一週間ほど大口氏宅に通ったが、その後再び来ることがなかったという。とてもできないと投げ出したのである。それほどのものだから、二十半ばを少し出た位の私にできるはずはないと大口氏はたかをくくったわけなのだ。だが、この仕事は、私が若かったからこそ、その若さの情熱でできたようだ。
(「西本願寺本三十六人集」 田中親美)
- 大口氏および所蔵者である本願寺の大谷光尊氏の許可を得た田中親美は、その後、六本木にあった大口氏の一室を借りてそこへ通って模写を続け、10年の歳月をかけて明治40年(1907年)に模本を完成させた。
- この後も多くの模本制作を始めとして、数多くの業績を残した。
- 模写は書にとどまらず絵画にも及び、「紫式部日記絵巻」、「源氏物語絵巻」、「佐竹本三十六歌仙絵巻」、「西本願寺本三十六人家集」、「元永本古今和歌集」、「平家納経」、「久能寺経」など、平安朝美術を中心に文化財の摸本複製を成した。
- 大正8年(1919年)の「佐竹本三十六歌仙絵巻」絵巻分割では、相談役として深く関与している。
一種独特の奇智ある京都の土橋嘉兵衛老が服部老と協議の結果、茲に分割処分案を立てて其の斡旋本部を益田孝男方に持込んだ、是に於て益田男は余(高橋義雄)と野崎廣太、田中親美、森川勘一郎諸氏を世話方とし、右歌仙絵を一枚づつに分割して、之れに夫れぞれの等差を立て、旧持主山本唯三郎氏に対しては記念として其中の一枚を寄贈し、又其分割に関する諸雑費を込めて各一枚の評価を定め、抽籤を以て之を希望者に頒つ事となったが(略)早速定員以上に達したれば、申込順に依って抽籤者を定め、益田孝男の品川御殿山碧雲台応挙館に於て其抽籤会を執行した
処で茲に之を分断するに就ては、歌仙中に人気者と不人気者とがあり、完全なる者と汚損したる者とがあり、住吉明神の如く、唯住吉の景色と、其歌のみを書いたものがあり、貫之の如く、狩野探幽が其詞書を書添へた者があり、或は躬恒の如く、歌仙も詞書も、共に探幽の補筆に係る者があり、其評価は至難中の至難であつたが、田中、森川等が厳密なる格付比較会議を開いて、三十六歌仙を横綱、三役、幕内、二段目、三段目と分類し、四万円を最高、三千円を最低として、其平準価格たる一万円以上が九枚と為り、夫れより以下は九千円、八千円と、千円づゝ下つて、三千円を最低価と定めたのである。
- 昭和25年(1950年)文化財専門審議会委員に就任。
- 昭和30年(1955年)紫綬褒章受賞。
- 昭和35年(1960年)日本芸術院恩賜賞受賞。
- 昭和39年(1964年)勲四等旭日小綬章受章。
- 昭和50年(1975年)11月24日、老衰により死去。享年100歳。
評価
- 100年の生涯で模写した古画・古筆の作品は3000点以上と言われ、その内容は絵巻・荘厳経・古筆を主とし、仏画・琳派にまで及ぶ。
- 神業とも呼ばれた自在な筆致(料紙製作は分業したが書は全て自ら書いたと言われる)と平安朝の料紙製作技術の復元、形や色は勿論のこと剥落や滲みや擦れや筆の勢いまで再現する卓越した画力、そして多くの国宝級文化財の原本を借り出して手元に置くなどして、保護が優先される現在では想像できないほど身近に長く接し神髄に触れた体験に基づく知見と博識により、明治以来の古筆鑑定の先覚者、第一人者と仰がれた。
主な模本
- 明治27年(1894年):秋元子爵家本「紫式部日記絵巻」、「寝覚物語絵巻」
- 明治31年(1898年):蜂須賀本「紫式部日記絵巻」
- 明治34年(1901年):蜂須賀家本(益田本)「源氏物語絵巻」
- 明治39年(1906年):三井本「元永本古今和歌集」
- 明治40年(1907年):「西本願寺本三十六人集」
- 明治43年(1910年):原富太郎所蔵「藍紙本万葉集」
- 大正初期:益田本・「久能寺経」
- 大正11年(1922年):「佐竹本三十六歌仙絵」
- 大正14年(1925年):厳島神社蔵「平家納経」
- 昭和3年(1928年):伝紀貫之筆「桂宮本万葉集」 ※佐佐木信綱共編
- 昭和6年(1931年):徳川家本「源氏物語絵巻」
- 昭和7年(1932年):「西本願寺本三十六人集」のうち「貫之集下」「伊勢集」の副本
- 昭和14年(1939年):関戸本「病草子絵巻」
- 昭和30年(1955年):鉄舟寺蔵「久能寺経」(譬喩品、提婆品、勧持品、厳王品)
- 昭和30年(1955年):武藤本「久能寺経」(薬草喩品、涌出品、随喜功徳品、勧発品)
- 昭和35年(1960年):四天王寺「法華経」(料紙作成)
- 昭和39年(1964年):慈光寺「法華経補写巻」(料紙作成)
交友関係
- 模写と研究を通じて多くの交友を持ち、特に師匠であった多田親愛、友人であり支援者でもあった益田孝(鈍翁)、原富太郎(三溪)の三人への敬愛は深く、枕元には亡くなるまで三人の写真が飾られていたといわれる。
- 一家に京都からの上京を促し支援者となった三条実美をはじめ、松方正義、田中光顕、森林太郎(鷗外、旧帝室博物館総長)、小林一三(逸翁)、団琢磨、大倉喜八郎、根津嘉一郎、藤原銀次郎、松永安左エ門(耳庵)、畠山一清(即翁)、高橋義雄(箒庵)、徳川義親、五島慶太、吉川英治、横山大観らとの交友記録が残る。
父・田中有美
- 田中親美の父・田中有美は、明治から昭和初期にかけて活躍した日本画家。山城国相楽郡加茂町で代々庄屋を務めた旧家の生まれ。
- 国学を大国隆正に、漢籍と書道を貫名海屋に習う。母方の従兄弟に冷泉為恭がいた関係で御所の絵所に通う内に後の明治天皇の遊び相手になったという。さらに冷泉為恭の庇護者であった三条実万、その子・三条実美との繋がりを持つ。
貫名海屋については、「芦葉江#貫名海屋」を参照。
- 絵師としての半面、幕末期には実万や実美の密使として三条家の活動を助け国事に奔走している。
- 維新後も京都に残り、正倉院宝物の臨模、兵庫県の画工教師、京都府画学校(現在の京都市立芸術大学)の校員などとして働いている。
- 明治17年(1884年)三条実美の斡旋で東京に呼び寄せられ、宮内省から大作制作の御用を受けている。
- 公共の場に作品を出展することが稀で、現在では主に田中親美の父として知られる。
- 明治35年(1902年)従六位。昭和8年(1933年)95歳で死去。
- 代表作に、「小鍛治錬刀図・耕作図」、「贈太政大臣岩倉公画伝草稿」、「金地百花百虫図屏風」、「三条実美公事蹟絵巻」、「三条実万公事蹟絵巻」、「明治天皇大喪儀絵巻」、「明治天皇御誕生之図」など。
関連項目
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