西本願寺本三十六人集
西本願寺本三十六人集
彩牋墨書
三十六人家集
国宝
附 後奈良天皇宸翰女房奉書1幅
本願寺所蔵
- 本願寺本「三十六人家集」
- 西本願寺本「三十六人集」
Table of Contents |
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概要
- 藤原公任が選定したいわゆる三十六歌仙の歌を集めた歌集のなかで、もっとも古く貴重とされ、国宝に指定されている。
- 藤原時代宮中で製作され、一時は蓮華王院にも置かれていたが、天文18年(1549年)に後奈良天皇より本願寺証如に下賜され、その後は近衛前久と後西院の時に借り出された他は概ね西本願寺の外に出ることはなく、明治29年(1896年)まで眠っていた。
- 単なる歌集ではなく、彩色下絵、金銀の箔、雲母刷りの地紋、墨流し、破り継ぎなど、あらゆる料紙装飾技法が駆使されており、平安王朝期の美意識の結晶ともいわれるほど美術品としての評価が高い。
構成
- 三十六歌仙のうち、人麿集、貫之集、能宣集については上下2帖構成となっており、元は39帖構成であったとされる。
- このうち兼資集については下賜前の鎌倉時代に模写されたものであり、人麿集上下、業平集、小町集については下賜後の寛文年間に模写されたものとなっている。
- なお西本願寺には後で述べる昭和4年(1929年)分譲時の模写本2帖も現存するが、これは国宝指定の対象外となっている。
- 昭和4年の模写本を除く37帖と、付属文書として後奈良天皇宸翰女房奉書1幅が国宝に指定されている。
来歴
天皇家
- 元は天永3年(1112年)3月18日の白河法皇六十の賀に進上するものとして制作されたとされる。
- 高橋義雄は、元は藤原彰子の一条天皇の中宮入内を祝してのものだとし、西本願寺所蔵本はこれの古写本である説を紹介している。
太政大臣道長の息女彰子(上東門院)が一條天皇の中宮として入内する時、公任始め當時の名筆家が之を善盡し美盡した臺紙に認めて差上げた者と言ひ傳られて居る
彰子は、長保元年(999年)11月1日入内、同月7日に女御宣下、翌年2月25日、皇后に冊立され「中宮」を号している。
蓮華王院
- いわゆる「御所本三十六人集」宮内庁書陵部蔵(図書寮所蔵)の躬恒集の奥書により、建長4年(1252年)には一時蓮華王院に所蔵されていたことがわかっている。
蓮華王院宝蔵御本云々
建長4年(1252年)に躬恒集を転写したものがあり、それは宮内省図書寮へと伝えられた。
- 蓮華王院の宝蔵は鎌倉時代には散逸し、両統により個別に管理されていくことになり戦国時代を迎える。
本願寺
- 天文18年(1549年)に後奈良天皇より本願寺証如が拝領する。
天文十八年正月
二十日從禁裏以女房奉書三十六人家集令拝領、門跡経乗へ以御書被仰越候、僧上事來二日以前御申沙汰有之度由被仰候、
- この宸翰女房奉書は現存し国宝の付属指定がなされている。
- また一時近衛前久により借覧されていたことも記録に残る。※天正8年(1580年)石山合戦の講和時。
寛文模写
- 清水濱臣の「遊京漫録」に載る寛文10年(1670年)の飛鳥井雅章の奥書写しにより、寛文年間に後西天皇(新院)が本願寺光常(寂如)より取り寄せた上で模写が行なわれ、その際に人麿、業平、小町の各集について欠本があったためにそれぞれ人麿集は昭光院道晃法親王、業平集は日野前大納言弘資、小町集は烏丸前大納言資慶に命じて補わせた上で、本願寺に返却していることがわかる。
西本願寺に所蔵の三十六人集古抄本あり、奥書に云
此三十六人家集者、借本願寺光常家珍之本不違一字今書写校合訖、件集昔日雖爲官品有仔細下賜本願寺云々、誠世間無雙之正本也、新院御在位之時、被召上此本被遂書写之功之処、三十六人集之内、三冊不足之間、抑人丸集者昭光院道晃法親王、業平集者日野前大納言弘資卿、小野集者烏丸前大納言資慶卿、令書続之給、仍中下件官品補其欠、終全部仍功者也、深秘函底不可出家外、穴賢云々、
寛文第十暦仲春 花押(飛鳥井雅章)右三十六人家集者、飛鳥井一位雅章卿真跡之本、自左衛門督雅豊卿借請之、而全部染愚筆於燈下、連々今独校于玆、外題兵部卿幸仁親王真翰也、尤依爲秘本不可出閫外者乎
元禄五壬申歳林鐘中瀚
右大臣
花押(大炊御門隆光)
本願寺寂如
父は第13世良如。九条兼晴の猶子。母は近江国三井の人(揚徳院寂照)。浄土真宗本願寺派第14世宗主。西本願寺住職。諱は光常。院号は信解院。法印大僧正。
再発見
- その後、江戸時代中期以降になると本願寺でもこの三十六人集の所蔵については忘れ去られていった。
- しかし明治になって大口周魚氏が大谷光尊氏の依頼で本願寺の古書調査をしたところ、明治29年(1896年)8月に西本願寺本を再発見した。
大口周魚(おおぐち しゅうぎょ)
名古屋生まれの歌人、書家、古筆研究家、宮内省御歌所寄人。本名は鯛二(たいじ)、本名の「鯛」の字を分けて周魚と号した。
大谷光尊(おおたに こうそん)
西本願寺21世門主。父は西本願寺20世広如。伯爵。諱は光尊。法名は明如上人。明治36年(1903年)1月没。
- この経緯は、田中親美氏の「西本願寺本 三十六人集」により詳述される。
大谷光尊さんは歌が好きだった。宮中御歌所の大口さんとは歌を通じて交際があった。(略)光尊さんは古筆のよくわかる大口さんに、あるとき「夏休みなどを利用して、私のところに遊びにこないか。うちには、昔から伝わった書画のいいものがあるかもしれないから」と言った。「それはおもしろい。ぜひ見せて下さい」と大口さんは答え、夏休みに京都西本願寺をたずねた。(略)一週間ほど滞在し、いろいろなものを見せてもらったが、いっこうに感心しない。「仕方がない、もう帰ろう」と思った。
そう思って腰を落ちつかなくさせていると、「こんなものがあります」と見せられたのが、元暦校本万葉集の一片であった。これは珍しい古筆切だったので、「これはいい、これを見ただけでも、まあ一週間滞在した意味があった」と思い、また「このぶんでは、ひょっとすると、ほかにもまだいいものがあるかもしれない」と、なおも滞在する勇気が出た。(略)
やがて、ある寺内の坊さんが「こんなものがあります」と持って来た。見ると箱である。表に「三十六人寄合書」とある。徳川時代の公卿さんが寄り合って書いたものがよくあるが、大口さんは「ははあ、いずれそんなものだな」と思いながら蓋を取ってみた。出てきたのが三十六人集三十九帖だったのである。
- 当時寺内ではひどい扱いであったといい、次のように続く。
大体、箱を見てたかをくくるのも無理ないことで、箱が実にいい加減なものだった。中のものに比べてバカでかく、桐の箱ならまだしも、もみのあき箱で、いかにも間に合わせといった感じなのであった。
光尊さんは「何かいいものが見つかりましたか」と言う。「いや、えらいものを見た。大変なものです」と答えると、光尊さんは狐につつまれたような顔をしている。「これ、この通り」と見せると、どこがえらいのかと半信半疑だ。このとき、大口さんに野心でもあって(無論当人の言った言葉である)、一、二冊下さいと言ったら、すぐにも、気軽に承諾されたかもしれない──それほど光尊さんは「何が由緒あるものだ」といった顔付きだったそうだ。発見当時大口さんが寺内の老僧に聞いても、誰もそんなものがあったということを知らずにいたそうだから、これもやむを得ぬ事情だったらしい。
貸し出しと明治の田中親美による模写
- とにかく大口周魚氏はこの発見の功績として、大谷光尊氏よりこの三十六人集を借り受けることが許された。
- 全帖を借りた上で宮内庁の金庫に預け置き、そのうち二・三帖ずつ大口氏の自宅へ持ち帰り拝観することが許されたという。
- この時にこれを見た人物の中に田中親美氏(当時26歳)がおり、若かりし田中氏はこの模写を思い立つ。大口氏および所蔵者である本願寺の大谷光尊氏の許可を得た田中親美は、その後、六本木にあった大口氏の一室を借りてそこへ通って模写を続け、10年の歳月をかけて明治40年(1907年)に模本を完成させた。
- 模本制作の経緯については「田中親美」の項を参照
昭和4年の分断
- その後、浄土真宗本願寺派第22世法主であった大谷光瑞が宗教女子大学(現在の武蔵野大学)の建設資金にあてるため、この三十六人集のうち二帖の売却を考える。※武蔵野女子学院は大正13年(1924年)創立。
大正十四年頃かと覺ゆ、西本願寺法主攝理大谷尊由師は從來日本に良女學校なく偶ま之れあれば耶蘇宣教師等の經營する外國臭味多き者で眞成日本女流の薫陶に適せざれば我が佛教者の手を以て好く今日の國情に協ひ他年女子が参政權を得るに當り危險思想の緩和剤たる役目を盡すに堪ゆべき穏健なる淑女を養成する學校を設立したしとの希望を抱き(中略)余は高楠博士に向ひ今三百萬圓を得んと欲せば本願寺は先づ非常の決心を爲し宗祖親鸞が一衣一鉢の昔に返りて傳來の什寶をも賣却し少くも其半金だけを自辯すれば世間も其眞摯なる態度に感じて必ず他の半金を寄附するならんと語つた事があつた然るに西本願寺新法主は今度右計畫を實行せんとする者の如く其必要資金調達の爲め愈よ其重寶三十六人集中の二帖を賣却するに決したと云ふ扨て右二帖分譲に就ては大谷尊由師より益田孝男に諮る所あり益田男は現存三十五帖中ペーヂ數の最も多き伊勢集と貫之集下の二帖合計三百二十ペーヂを分割して毎十ペーヂを一口と爲し其一口を各二萬圓として抽籤を以て之を東京、名古屋、及び京阪の雅友に分配する方案を立て茲に維新後始めて日本に一品五十萬圓以上の美術品取引が行はるゝに至つた
大谷光瑞(おおたに こうずい)
日本の宗教家(僧)、探検家。浄土真宗本願寺派第22世法主、伯爵、国営競馬馬主。大谷探検隊によるシルクロード研究で知られる人物。
- 大谷氏は益田孝氏(鈍翁)に帖の選択と売立方法について相談し、鈍翁はさらに田中親美へと相談を持ちかけることになる。こうして、貫之集下と伊勢集の二帖、三百数十頁を32組に分け、これを一組約10枚二万円で分譲することになった。(「石山切」)
- 大谷光尊氏は原本二帖が失われるために、それを補うための模本を作ることにし、それを田中親美へと依頼することになる。これは昭和7年(1932年)に完成し、大谷家へと納められた。※この模本は西本願寺本国宝指定の対象外
国宝指定
- 昭和6年(1931年)旧国宝に指定。
典籍
彩牋墨書三十六人家集(内五帖補寫)
附紙本墨書後奈良天皇女房奉書 一幅
三十七帖
京都府京都市下京區本願寺門前町
伯爵 大谷光照
(昭和6年 文部省告示第九號)
- 昭和26年(1951年)6月9日、新国宝指定。
彩牋墨書三十六人家集(内五帖補写)
附紙本墨書後奈良天皇女房奉書
本願寺
京都府京都市下京区堀川通花屋町下ル
(昭和26年 文化財保護委員会告示第二号)
- 現存、西本願寺(浄土真宗本願寺派本願寺)所蔵
散逸
- 本願寺への下賜時点で38帖があったとされるが、その後一部が散逸している。
昭和初期の状況
- 高橋義雄が、田中親美より伝え聞いた散逸状況を書き残している。
今古筆鑑定の權威で自から此歌帖を複寫された田中親美氏の語る所に據れば彼の帖の西本願寺へ傳來以前に散逸した者の中順集の糟色紙と稱する二ペーヂは關戸守彦、池田斉彬兩氏所持、同集の岡寺切三ペーヂは古河虎之助、根津嘉一郎兩家及び學士會院所持、人丸集の室町切二ペーヂは近衛公、古河男所持、業平集の尾形切七ペーヂは益田孝男二ペーヂ三井高精、藤田平太郎兩男、原六郎、關戸守彦、安田善次郎三氏が各一ペーヂ所持にて小町集は今一ペーヂも見當らずとなり而して以上各切中今日まで最も高きは一ペーヂ二萬三千圓、最も安きも猶ほ一萬五千圓を下らなかつたと云ふ、聞く所に據れば從來大谷家所藏歌帖全部は二千七百四十四ペーヂあり其中より今度三百二十ペーヂを分譲せられたのであるから世間在來の同歌切は俄然非常の恐慌を來した譯だが、大谷家では今度の分譲契約中に將來決して分譲すべからずと云へる一項を加へられたさうだから今後同歌切の世上に出づる事なかるべく、猶ほ又今度の三百二十ペーヂも一部は纏まつて帖と爲り一處に保留せらるゝ事と爲るべければ、從前に比して其市價が非常に下落する恐れはなからうと思ふ。
- これを整理すると次のようになる。※()内は現所蔵との関連を示す
- 源順集
- 糟色紙:2ページ
関戸守彦、池田斉彬 - 岡寺切:3ページ
古河虎之助(→京博?)、根津嘉一郎(→根津美術館)、学士会院
- 人麿集
- 室町切:2ページ
近衛文麿(→陽明文庫)、古河虎之助(→京博)
- 業平集
- 尾形切:
7ページ:益田孝
2ページ:三井高精、藤田平太郎
1ページ:原六郎、関戸守彦、安田善次郎
源順集「岡寺切」
- 根津美術館
- 京都国立博物館
- 手鑑「藻塩草」 順集断簡(岡寺切)
人麿集「室町切」
- 手鑑「藻塩草」と手鑑「大手鑑」二葉のみ残る
- 手鑑「藻塩草」
- 国宝、京都国立博物館所蔵
- 古筆本家10代目の古筆了伴の目録が附く
- 京都国立博物館 収蔵品検索システム
- 手鑑「大手鑑」
- 国宝、陽明文庫所蔵
業平集「尾形切」
- 「尾形切」の名は、尾形光琳の祖父・尾形道柏、父・尾形宗謙などが所蔵したことにちなむ。
- 15葉ほど現存し、根津美術館、東京国立博物館、政秀寺などの所蔵
- 根津美術館
- 尾形切|根津美術館
- 東京国立博物館
- ColBase
- 九州国立博物館
- 髙木聖雨氏寄贈
九州国立博物館 | 収蔵品ギャラリー | 業平集断簡 尾形切「むさしのゝ」
ColBase
伊勢集と貫之集下「石山切」
- 昭和4年(1929年)の分断時に断簡とされたもの。両帖合わせて三百数十頁あるものを32組に分け、1組約10枚2万円で売却された
- 命名は益田孝(鈍翁)で、かつて拝領当時の本願寺が大坂石山の地にあったことにちなむ。
- 主な所蔵
- 五島美術館
- 五島美術館 ※伊勢集307~310番(311番の一部)
- 九州博物館
- MIHO MUSEUM
- 遠山記念館
- 湯木美術館
- 湯木美術館について|湯木美術館 伊勢集
- 梅澤記念館
- 梅澤記念館 伊勢集
- 個人蔵
- 石山切(伊勢集)「かりにくと」:個人蔵
- 石山切(伊勢集)「花すゝき」:個人蔵
- 石山切(伊勢集)「わかやとの」:個人蔵
- 石山切(貫之集下)「ゆくけふも」:個人蔵
- 石山切(貫之集下)「とほくゆく」:個人蔵
参考
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