渡邊三郎
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渡邊三郎(わたなべさぶろう)
日本の実業家、愛刀家
日本特殊鋼創立者
1880年~1951年
生涯
- 明治13年(1880年)12月2日、群馬県松井田の生まれ。
- 父は大河原新七。大河原家は松井田において藩主から苗字帯刀を許された名家であり、塩物商い・回漕業を営む大河原屋を開いていた。
- のち叔母多満子の嫁いでいた渡邊福三郎の婿となる。
渡邊家は日本橋の豪商明石家の創業家で当主は代々渡邊治右衛門を名乗る。9代渡邊治右衛門は東京商社頭取、通商司北海道産物掛頭取、第二十七国立銀行頭取、東京商法会議所議員、東京商工会創立委員、水産伝習所参事員、東京湾汽船会社相談役、深川電灯評議委員、東京馬車鉄道取締役、磐城炭鉱取締役、浦賀船渠取締役、東京瓦斯監査役などを歴任した。二男源次郎が10代渡邊治右衛門を継ぐが、大正12年(1923年)の関東大震災により経営悪化、昭和2年(1927年)に東京渡辺銀行は破綻する。昭和5年(1930年)1月4日10代目の死去により、渡邊家は財産を放棄した。
渡邊三郎の大叔父にあたる大河原信明は、6代治右衛門の入婿となり8代目渡邊治右衛門を継ぐ。9代目渡邊治右衛門の弟渡邊福三郎は、父方の従兄弟大河原新七の三男である三郎を自らの五女那べの夫として迎え養子とした。なお福三郎の妻多満子は大河原新七の妹であり、三郎と那べはいとこ同士にあたる。初代治右衛門─(略)┬7代治右衛門福秀 └吟(6代治右衛門の娘) ├───┬9代治右衛門新太郎──10代治右衛門源次郎 ┌大河原信明 └福三郎 │ ├───那べ(苗) ─┴大河原知治─┬多満子 ├───秋子 │ 渡邊三郎 │ ├───誠一郎 │ 小林あい │ │ 侯爵中山輔親───福子 │ └大河原新七 ├──┬大河原豊太郎 野恵 ├大河原栄之助 └渡邊三郎
- 渡邊三郎は、明治41年(1908年)東京大学採鉱冶金科を卒業。古河鉱業所に4年務めた後、明治44年(1911年)にはドイツアーヘン大学に留学する。
- ドイツ留学ののち帰国し、大正4年(1915年)、大森で合資会社日本特殊鋼を設立する。東京帝国大学工学部講師。
- 大正9年(1920年)東京帝国大学より工学博士号授与。
- 大正15年(1926年)日本鉄鋼協会理事。
- 昭和12年(1937年)株式会社に改組。
特殊鋼とは、鉄にさまざまな元素を加える事で硬度、強度、粘り強さ、耐摩擦性、耐熱性、耐食性などを増加させた合金鋼のこと。「特殊鋼」と命名したのも渡邊三郎氏である。なお日本特殊鋼および特殊製鋼株式会社は、その後昭和51年(1976年)に合併し、大同特殊鋼株式会社に改称した。
- 昭和21年(1946年)貴族院勅撰議員。翌年貴族院廃止。
- 大森工業学校(現 大森学園高等学校)の校長、東京大学講師(1915-1930年)なども務めている。
- 特殊鋼という業務に親しいことから日本刀を生涯の趣味とし、第二次大戦後の混乱で海外流出する可能性が高かった名刀を多数蒐集した。
- これらは現在東京国立博物館所蔵となっている。
- 昭和26年(1951年)1月8日没。
刀剣
- 大正5年(1916年)の日本特殊鋼設立時には、すでに長持ち一杯の日本刀を所持していた。
- 大正7年(1918年)には当時83歳だった月山貞一に平造りの短刀製作を依頼している。これには「為渡邊三郎君護身」と彫られており、銀鎺の表裏に透かし彫りで生家である大河原家と渡邉家の家紋を入れており、拵にも両家の家紋を蒔絵で散らしたものであったという。
月山貞一は同年に亡くなっており、本短刀は最晩年の作ということになる。
- 昭和15年(1940年)春より、一高・東大の同級生である坂本修作や山田復之助と共に、本間順治(薫山)の刀剣講座を月に1・2回拝聴する「観和会」を設けていたという。
童子切
東京国立博物館寄贈品
- 「三日月宗近」
- 国宝
- 「亀甲貞宗」
- 国宝
- 太刀
- 銘 備中国住守次作 重要文化財
- 「福島兼光」
- 重要文化財
- 太刀
- 銘 定利 重要文化財
- 「切刃貞宗」
- 重要文化財
- 「蜂屋長光」
- 重要文化財
- 「鳴狐」
- 重要文化財
- 「一柳安吉」
- 重要文化財
- 「岩切藤四郎」
- (岩切長束藤四郎) 重要文化財
- 「大保昌」
- 重要文化財
- 短刀
- 銘 国光(新藤五国光) 重要文化財
- 短刀
- 銘 備中国住次直作 重要文化財
- 刀
- 無銘(傳志津)茎ニ霊刀不放身云々ト切付アリ。昭和16年(1941年)9月24日重要美術品認定。
- これ以外に日刀保指定刀剣を多数含む。
東京国立博物館への寄贈
- これらのコレクションは、渡邊三郎氏の死後、息子の渡邊誠一郎氏に引き継がれた。
- 誠一郎氏は、亡き母の五十回忌にあたる平成3年(1991年)、東京国立博物館に寄贈することを決意し、同年8月29日に寄贈された。11月末に東京国立博物館員が引き取りに来た際には、長唄「小鍛冶」を流し見送ったという。
渡邊誠一郎氏も父同様に東京帝国大学工学部冶金学科に入学し、昭和19年(1944年)に学徒動員で古河鉱業日光精錬所に赴任している。在学中の昭和20年(1945年)6月1日に中山福子と鶴岡八幡宮にて結婚、終戦後の昭和20年(1945年)9月に東京帝大を卒業する。昭和21年(1946年)4月に日本特殊鋼取締役に就任し、平行して昭和22年(1947年)9月まで大学院前期課程で勉強に励んでいる。三郎氏が死んだ際はまだ27歳で、取締役製鋼部長代理であった。平成13年(2001年)8月20日没。享年78。
- 参考文献「特殊鋼の父 渡邊三郎 その生涯と日本特殊鋼」矢島忠正(2005年)
関連項目
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