松平光長
松平光長
江戸時代前期の大名
幼名仙千代。光長。
松平越後守、越後三位中将
越後高田藩主
結城秀康の孫、徳川秀忠の外孫
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生涯
- 元和元年(1615年)の生まれ。幼名は仙千代。
- 母は天崇院勝姫(徳川秀忠女)。光長は家康の曾孫、秀忠の外孫にあたる。
- 57年余り越後高田藩主であった。
父・松平忠直
- 元和7年(1621年)、父・松平忠直が病を理由に江戸への参勤を怠り、代わりに9月仙千代(光長)が参覲している。10月江戸。※この時出羽守直政が品川まで出迎えている。
- 父の忠直が配流されると、幼少の光長は元和9年(1623年)3月に北ノ庄へと迎え入れられた。しかし閏8月には母子(光長妹も)は江戸へ呼び戻される。江戸城に入ったという。
幕府、越前北庄城主松平仙千代「光長」の幼齢を恤み、特に江戸に召致す、
配置替
- 翌寛永元年(1624年)4月(3月15日とも)、江戸城に越前松平家支流諸家を集めた場にて、幕府の指示により、忠直の次弟で当時越後高田藩主であった松平忠昌を忠直の後の北ノ荘50万石の藩主とすることが申し渡された。光長は代わって(忠昌の旧領である)高田25万石の藩主となっている。
幕府、越後高田城主松平忠昌を越前北庄城に移して、五十万石を知行せしめ、北庄城主松平仙千代「光長」を高田城に移して、知行を二十五万石に減ず、
北之庄75万石は忠直の弟に分けられた。すなわち福井50万石が忠昌(福井藩)、直政(のち信州松本を経て出雲藩)に大野5万石、直基(のち山形、姫路。前橋松平家の祖)に木本2万石、余り8万石と若狭・信濃の内6万石を幕府領とした。
- 6月15日、国替えにより、越後及び越前に検使派遣。
越後高田藩主
- 寛永6年(1629年)11月7日、元服し「越後守光長」と称す。15歳。11日御礼?※福井藩記録では12月11日
幕府、越後高田城主松平仙千代に、首服を加へ、偏諱を与へ、光長と称せしむ、是日、又、左近衛権少将に任じ、従四位下に叙す、
七日松平仙千代首服加へられ。従四位下左近衛権少将に叙任し。御名の一字たまはり越後守光長と稱す。中川郷の御刀を給ひ。 大御所よりも観世正宗の御刀を給ふ。
八日松平越後守光長西城に国光の刀。銀三百枚献ず。
- 寛永7年(1630年)妹・亀姫が、秀忠養女として高松宮好仁親王と婚儀のため、11月に江戸城を発す。
- 寛永8年(1631年)正月元旦。
松平越後守光長。前田千勝利次。前田宮松利治西城にのぼり拜賀す。御齒固の御祝儀舊規におなじ。
- 寛永8年(1631年)2月12日。
松平越後守光長。松平千勝利次。宮松利治へ雁を給ふ。又鷹を進らせらる。
- 寛永8年(1631年)4月12日。帰国の暇。
十二日松平越後守光長はじめ。暇給はるもの七人。
- 寛永8年(1631年)7月9日、毛利秀就の娘・土佐子と婚姻。
元和3年(1617年)生まれ。寛永8年(1631年)7月9日に麹町邸に入輿。世子・綱賢および二女を生む。延宝5年(1677年)死去。
- 寛永9年(1632年)2月7日秀忠遺物。
又 大御所遺命とて。本城へ金卅十万枚進らぜらる。又諸大名へ賜はる御遺物は。松平越後守光長へ銀卅枚
二月廿六日台徳院公御遺物トシテ、宗瑞正宗ノ小脇差及び白銀三千枚ヲ賜、小判金一万両・白銀一万枚ヲ太夫人ニ賜フ、
- 寛永9年(1632年)妹・鶴子、家光養女として九条道房と婚姻。11月3日江戸城を発す。
- 寛永10年(1633年)3月11日、嫡子・徳千代(綱賢)麹町藩邸で誕生。母は毛利氏。
- 寛永11年(1634年)2月帰国の暇。※これが初入部という。勝姫も同行したと思われる。3月に江戸を発し、越後へ。6月4日高田を発し、京都へ。7月18日将軍参内。閏7月、家光大坂へ。8月朔日将軍参内。8月5日将軍京都を発つ。20日江戸着付。光長も供奉。
松平越後守光長初て就封のいとま下され。兼光の御刀たまはる。(略)又光長は御上洛のとき。中山道より御供し奉るべしとて。一文字の御刀下され。堀単語の神直寄。佐久間三五郎勝長。真田伊豆守信之。水野隼人正忠清。仙石越前守政俊。溝口出雲守宣直。牧野右馬允忠成の七人は。光長に屬せしめらる。
- 寛永12年(1635年)正月12日茶会。
けふも御茶事あり。(略)夕は松平越後守光長。松平筑前守光高。松平出羽守直政。井伊掃部頭直孝。松掃部頭直孝。松平下總守忠明召されて登る。
- 寛永13年(1636年)12月3日、長女・国子誕生。母は毛利氏。
- 寛永15年(1638年)12月6日家光の茶会に相伴。
家光、越前福井城主松平忠昌・越後高田城主松平光長・出羽米沢城主上杉定勝・陸奥会津若松城主加藤明成・越前大野城主松平直基を、江戸城二ノ丸に召して、茶会を与ふ、
- 寛永16年(1639年)12月26日、次女・稲子誕生。母は毛利氏。
- 寛永17年(1640年)4月、家光の日光参詣に随従する。慶安元年(1648年)にも随従。
松平光長・前田光高・松平頼重に日光の随従を命す、
- 寛永17年(1640年)5月、帰国の暇。6月領内巡見。魚沼に至った時に母・高田様(勝姫)病気に月、出府するよう老中奉書。急いで江戸へ。
松平越後守光長就封により。吉平の御刀并鷹二据たまふ。
- 寛永17年(1640年)9月16日茶会
十六日品川の御殿にて。毛利甲斐守秀元御茶奉る。林中の御茶室にて尾水両卿。松平越後守光長。松平筑前守光高。加藤式部少輔明成御床版し。御茶はてゝ保科肥後守正之。松平下総守忠明。酒井讃岐守忠勝。堀田加賀守正盛。松平伊豆守信綱。阿部對馬守重次。内藤伊賀守忠重。安藤右京進重長。松平出雲守勝隆には御酒を給ふ。
- 寛永19年(1642年)4月日光参詣に供奉。5月帰国の暇。
- 寛永20年(1643年)3月高田を発ち、4月7日に江戸着付。
- 正保元年(1644年)5月帰国の暇。
- 正保2年(1645年)2月高田を発ち、江戸へ。
- 正保2年(1645年)8月1日、福井藩松平忠昌卒去。10月、子の光通が10歳で跡を継ぐ。
父の遺言に従い、庶兄・仙菊(のちの松平昌勝)に5万石を分与して松岡藩を、庶弟・辰之助(のちの松平昌親)に2万5000石を分与して吉江藩をそれぞれ立藩させている。
- 正保3年(1646年)7月帰国の暇。
- 正保4年(1647年)3月高田を発ち、江戸へ。
- 慶安元年(1648年)東照宮33回忌。日光参詣に供奉
- 同年10月、帰国の暇。
- 慶安2年(1649年)3月、高田を発ち江戸へ。
- 慶安3年(1650年)9月10日、父・松平忠直、豊後にて薨去。23日、家臣に豊後津守に行き葬儀を執り行うことを命じる。
- 慶安3年(1650年)3月、豊後で生まれた三子を高田へ引き取る。27日松千代(長頼、22歳)、熊千代(20歳)、勘子(16歳)その他侍女ら豊後を発し、4月21日高田着。
- 慶安3年(1650年)4月20日家光薨去。6月18日遺物として茶壺・金子を賜う。金五千両、葉茶壺を高田様勝姫に賜う。
- 承応元年(1652年)6月帰国の暇、承応2年(1653年)3月高田を発し、江戸へ。
- 承応2年(1653年)5月、故高松宮好仁親王の室・亀姫(妹)、二宮を高田へ移住せしめる旨の命を受け、老臣を京都に派遣しており、冬に高田到着。
- 承応3年(1654年)5月高田へ。
- 承応3年(1654年)3月高田を発ち江戸へ。
- 同年、娘・国子と福井藩主松平光通との婚約がなり、4月13日光通の霊岸島屋敷に入輿する。
- 明暦2年(1656年)閏4月高田へ。
- 明暦3年(1657年)正月2日麹町藩邸焼失。19日に麹町七丁目より出火し、再び焼失。6月、高田を発ち江戸へ。7月10日領内銀山より初めて銀を掘り出し、十貫目を幕府に献上。
- 万治元年(1658年)、子・稲子が伊達遠江守宗利と婚約、4月27日に宗利の屋敷に入輿。
- 万治元年(1658年)5月高田へ。万治2年(1659年)3月高田を発ち、江戸へ。
- ※その後も毎年参覲
- 寛文5年(1665年)12月26日、高田城下に一丈五尺の大雪。27日大地震、城の本丸総崩れとなる。家中死人、男女120人、町家過半崩れ、死人人数を知らずという。正月、この事故を受け帰国の暇。
- 寛文6年(1666年)3月13日震災により金五萬両を借用。また勝姫に米三千俵を賜る。
幕府、高田城主松平光長の封地、震災に罹りしを以て、金五萬両を貸し、其母徳川氏に米三千苞を贈る、
- 寛文7年(1667年)3月高田を発ち江戸へ。
- 寛文8年(1668年)2月2日居宅類焼。3月高田へ。4月16日、勝姫へ作事料として金五千両を賜う。
- ※この後も毎年参覲
- 寛文12年(1672年)2月21日、母・勝姫、牛込川田ヶ窪の屋敷で逝去。24日老中稲葉美濃守正則を以て香奠、白銀千枚。
- 同年5月高田へ。
- 延宝元年(1673年)4月高田を発ち江戸へ。
- 延宝2年(1674年)1月29日、嫡子・綱賢が高田で卒。
高田城主松平光長の嫡子綱賢、卒す、
越後騒動
- 同年5月高田へ。10月弟の東市正長頼の子・万徳丸を養子とすることを請い、許可される。これに不満を抱く者がおり、跡目相続から越後騒動へと発展する。
- 延宝3年(1675年)3月高田を発ち、4月江戸へ。
- 延宝4年(1676年)3月晦日、高田城下大火。家中屋敷240軒、町家37町焼失。4月高田へ。7月11日、翌年の参覲免除。
- 延宝5年(1677年)、夫人の病気により参府。6月2日江戸着。しかし8月22日夫人・毛利氏江戸藩邸で卒。9月高田へ。
- 延宝7年(1679年)将軍家綱薨去。8月23日綱吉即位。9月高田へ。12月3日老中より家中騒動の始末を報告するよう命じられる。※岡島壱岐は松平綱廣へ、本多七左衛門を松平直明にお預け。
- 天和元年(1681年)3月、高田を発ち江戸へ。4月老臣小栗大六以下数人は諸家にお預け。24日等銃より家中騒動に関して、国中の守護として目付けを高田に派遣。5月11日高田着。
直裁、配流
- 天和元年(1681年)6月21日、将軍綱吉の親裁により高田藩は改易、光長は伊予松山藩へお預けとなった。
- 同月23日、屋敷を出て伊達宗利の麻布邸に移る。25日世子・綱国も天徳寺に入った。
- 26日、伊達宗利、光長を伴って大老・井伊直該邸に着。領地没収、松平壱岐守定直にお預け、世子も水野美作守勝種にお預けとなる。
- 29日に光長、書を高田の老臣に出し、高田城及び糸魚川城を明け渡すべき旨を命じる。7月25日榊原式部太夫・松平大倉大輔・牧野駿河守で高田城請取、28日堀左京亮が糸魚川城請取。
- 7月1日井伊邸を発ち、松平壱岐守の領国伊予松山に出発。道中京極備中守高豊同道。家臣は佐久間主計以下18人、足軽10人、中元21人。2日世子綱国も江戸を発ち水野美作守の領国備後福山へ。黒田甲斐守長重が同道。
- 7月20日大坂に着。京極備中守の蔵屋敷へ入った。24日乗船、8月1日伊予松山着。
天和2年(1682年)、公伊予国松山ニ在リ
天和3年(1683年)
貞享元年(1684年)
貞享2年(1685年)
貞享3年(1686年)
公伊予国松山ニ在リ
赦免、隠居
- のち貞享4年(1687年)に赦免され江戸に戻る。10月24日松平出羽守などを召してお預けを赦免し、江戸に戻し、3万俵を給ふ旨あり。老中より赦免の命を壱岐守に伝え、11月朔日松山に達す。25日松山を発ち、12月15日江戸に着。
- 25日大和守に、翌日光長を同伴して登城の命あり。24日登城、将軍に謁す。27日世子綱国赦免の命あり。
- 元禄元年(1688年)2月14日世子江戸邸に至る。
- 元禄6年(1693年)に松平直矩の子・源之助(のち長矩、松平宣富)を養子として願い出、18日に許可が降りる。
松平直矩は、結城秀康の五男で越前大野藩主松平直基の長男。
秀康─松平直基─松平直矩─松平長矩(宣富)
- 元禄10年(1697年)4月25日に隠居の願い出、5月6日に許可される。
- 15日に隠居の御礼で使者をもって来国俊刀(代金60枚)と木曽壺を献上した。
- 元禄11年(1698年)正月14日、に松平長矩は美作10万石を与えられ津山藩が立藩した。
- 同年9月6日勅願火事により柳原藩邸類焼により、一時高田邸に移る。 ※高松殿二宮邸。
- ※元禄11年(1698年)9月に鍛冶橋屋敷地を拝領し、柳原藩邸は上地。
- 元禄15年(1702年)正月18日、88歳の賀で使者にて米札二箱、二荷三種、三条義家の短刀を献上する。上使松前直広をもって二荷三種、小袖20を賜う。
- 宝永元年(1704年)正月18日、90歳の賀で使者にて祝餅一飾、三種二荷、青江吉次の刀を献上する。上使松前直広をもって三種二荷、小袖30を賜う。
- 光長はその後も江戸で暮らし、宝永4年(1707年)11月17日、高田邸において93歳で薨去。20日上使をもって香奠白銀五百枚を賜う。22日に西窪天徳寺へ葬る。追号 恵照院。
- 夫人毛利氏(土佐子)は宝永5年(1708年)8月22日に病死。享年62。貝塚青松寺に葬る。追号 広国院。
系譜
- 正室は毛利秀就の娘、土佐。
幕府、長門萩城主毛利秀就の女と越後高田城主松平光長、(略)の嫁娶を許す、
妹・亀姫
- 妹・亀姫は外祖父・徳川秀忠の養女となり、高松宮(有栖川宮)初代である好仁親王妃となった。明子女王(後西天皇女御)・女二宮の二女をもうけた。
- 明子女王(後西天皇女御)および女二宮については「勝姫」の項を参照
妹・鶴姫
- 妹・鶴姫の婚姻。
家光、越後高田城主松平光長の妹鶴姫を養女と為し、権大納言右近衛大将九条道房に嫁さしむ、是日、鶴姫、江戸を発す、
- 道房との間には五人の娘が生まれ、長女愛姫は浅野綱晟の正室、次女令姫は本願寺常如光晴の室、三女梅姫は松平綱賢の正室、四女待姫は婿養子九条兼晴の正室、五女八代姫は綱晟の継室となった。
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