村雲当麻
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村雲当麻(むらくもたいま)
短刀
7寸8分5厘
- 享保名物帳所載
村雲当麻 在銘長七寸八分半 代金七十枚 尾張殿
- 平造り、差表に素剣に添え樋。裏に素剣。鋩子小丸でわずかに返る。中心うぶ、無銘、目釘孔1個。
由来
- 村雲御所(瑞龍寺)よりでたために名付けられたという。
瑞龍寺は日蓮宗の門跡寺院。創建時は京都嵯峨、現在は滋賀県近江八幡市。
来歴
瑞龍院日秀
- もとは豊臣秀次の母とも(瑞龍院日秀、秀吉の姉)の守刀。
- 文禄5年(1596年)秀次が切腹を命じられると、秀次の妻子は三条河原で処刑され、夫の三好吉房も讃岐に流刑となる。ともは、秀次らの菩提を弔うために村雲御所(瑞龍寺)を建立して出家、「日秀尼」と呼ばれるようになる。
この時、嵯峨村雲の地と、瑞龍寺の寺号、寺領1000石を与えたのが後陽成天皇である。これにより日蓮宗唯一の門跡寺院となり、「村雲御所」と称され代々皇女や公家の娘を貫首として迎え格式高い寺院となった。江戸時代に西陣に移転し、昭和36年(1961年)に京都今出川堀川から秀次ゆかりの地である滋賀県八幡山城址に移転した。上京区堀川通今出川下る西側(西陣織会館前)には石碑が残る。
秀吉
- 本刀「村雲当麻」は、のち秀吉に献上される。
堀秀治
- 秀吉が所持していたが、慶長3年(1598年)秀吉の死後、遺物として堀秀治(堀秀政の長男。越後春日山城主、越後侍従)に形見分けされた。
- 慶長11年(1606年)に堀秀治が死ぬと、嗣子堀忠俊が家督を相続する。家老堀直政の尽力により、本多忠政の娘国姫を徳川家康の養女として娶り、また将軍秀忠から偏諱と松平姓を授かるなど、急速に徳川将軍家への接近を図った。
- しかし慶長13年(1608年)に家老の直政が死ぬと、家老である堀直清と堀直寄との争乱を発端とする御家騒動が勃発し、慶長15年(1610年)閏2月2日に責を問われ改易となる。
以後、堀直政(奥田直政)の家系のうち、越後村松藩3万石および越後椎谷藩1万石の2家が存続して明治維新を迎えた。
本多正純
将軍家
- 寛永14年(1627年)極月14日、本阿弥光温が金具製作を命じられ、埋忠明甫が製作している。
- 寛永17年(1630年)本阿弥で金七十枚の折紙を付ける。
- 正保4年(1647年)9月8日、尾張徳川家徳川義直が病後はじめて登城すると、将軍家光はこれを義直に贈っている。
- 明暦2年(1656年)4月8日、尾張中納言徳川光友から将軍家綱の疱瘡全快を祝して献上される。
この御賀に。 左馬頭綱重卿より新藤五國光の刀。 右罵頭綱吉卿より國綱の刀。 紀伊大納書頼宣卿より左文字の刀。 水戸中納言頼房卿より來國光の刀。尾張中納言光友卿より村雲當麻の刀。 井伊掃部頭直孝は包永。 保科肥後守正之は貞宗。酒井讃岐守忠勝は來國俊。 酒井雅樂頭忠清は長光。 松平伊豆守信綱は助眞。 阿部豐後守忠秋は吉平の刀を獻ず。
- 翌年(1657年)、明暦の大火で江戸城炎上の際に消失した。
村雲久国(むらくもひさくに)
- 粟田口藤次郎久国の作
来歴
- ほぼおなじ逸話を持つ「村雲久国」という太刀がある。こちらも秀次の母瑞龍院日秀の守刀。
村雲
- 文禄2年(1593年)12月29日に、秀次が大和中納言秀保に与えた「村雲」という短刀が登場する。
大和郡山の羽柴秀保、聚樂亭に秀次に謁す、秀次、之に村雲の刀を與ふ、
(大日本史料)
- 駒井日記にも同様の記述がある。
十二月二十九日 一御参内之事來七日八日比可被成由民部法印方江申遣候、就御諚早道遣○一大和中納言左馬聚楽へ被成御参、従関白様村雲御脇指被進
- 史籍集覧25所収の駒井日記ではこれだけだが、原文には注記があり、「諸国鍛冶系図」「諸国鍛冶名寄」には載っていないと記す。
(按)秀次ノ秀保ニ贈ル所ノ村雲刀、諸国鍛冶系図及ヒ諸国鍛冶名寄ニ載セス、村雲蓋人名ニアラス、還タ其名クル所以ヲ詳カニセス、尚ホ考ヲ竢ツ
- 駒井日記で「脇指」と書いているため、おそらく「村雲当麻」の同物ではないかと思われる。
- 文禄2年(1593年)12月29日に豊臣秀次から実弟の豊臣秀保に送られ、豊臣秀保が文禄4年(1595年)4月16日に急死すると、遺物として母の「とも」(瑞龍院日秀)へと伝わったのではないかと思われる。
- さらに文禄4年(1595年)7月15日に秀次が切腹に追い込まれ、ともは菩提を弔うために出家し瑞龍院日秀と呼ばれるようになる。
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