抜丸
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抜丸(ぬけまる)
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- 伯耆の刀工大原真守の作。真守は童子切で高名な大原安綱の子という。
- 作は、伯耆大原実守、伯耆武保、古備前助包(抜き打ち丸との混同か)など諸説ある。
日乗作に「抜丸」があり、こちらは刃長二尺七寸。銘は佩表の目釘孔の上に棟によって切ってあったという。
由来
- 刑部卿平忠盛(平清盛の父)が、六波羅館の池殿(池の禅尼の館)にて昼寝をしていた時、池から大蛇が上って来て平忠盛を飲み込まんとしたという。
- すると、枕辺に建て掛けたるこの太刀(木枯)が自らするりと抜けて、大蛇に切り掛かったため蛇は恐れて池に沈み、太刀は元の鞘に収まった。また蛇が出て来て飲み込まんとするが、抜け出した太刀がまた大蛇を追って行き、池のほとりに立ったという。
- 忠盛がこの様子を見ていて、「抜丸」と名付けたという。
此太刀を抜丸と申ゆへは、故刑部卿忠盛、池殿にて晝寝をせられたりけるに、池より大蛇あがりて、忠盛をのまんとす。此太刀を枕の上に立られけるが、するりとぬけいでゝ、蛇にかゝりければ、太刀におそれて蛇は池にしつむ。又あがりて飲とすれば、又太刀ぬけて大蛇の首を斬、かへつてさやにおさまりぬ。忠盛是を見給て、さてこそ抜丸とはなづけられけれ。たうふくのあひしによつて頼盛是を相傳し給ふ故に清盛とはふくわいなりけるとそ聞えしはうきの國大原實守か作と云々
来歴
- もとは伊勢の鈴鹿山に暮らす猟師が授かった刀であるという。
平忠盛
- ある逸事からその刀を「木枯」と名付けたという話を刑部卿平忠盛(平清盛の父)が聞きつけ、年貢三千石にて替て代えて召し上げた。「木枯(こがらす)」の由来は、木枯を参照のこと。
忠盛一日池殿にて昼寝せしに大蛇出で呑まんとす、この木枯の太刀自ら抜出たれば大蛇畏れて水に入るこれより抜丸と云ふとあり、忠盛伊勢守にてこの国にあり、木枯の事を聞きて件の猟師を召し所望し年貢三千石の所領を興へてこの太刀を求む
伊勢守であった刑部卿平忠盛がこの噂を聞きつけ、男から買い取ったという。
平頼盛
- 平忠盛の五男で、藤原宗子(池の禅尼)の子である三河守平頼盛が譲り受ける。
抜丸も此家に傳うへかりしを當腹のさいあひなる故に頼盛の家に傳る是兄弟の中不快とかや
平頼盛は平清盛の異母弟で、六波羅館の池殿 を生母から引き継いだため、池殿または池大納言と呼ばれた。清盛の男兄弟の中で壇ノ浦の戦い後も唯一生き残った人物である。
- 平治の乱において平頼盛はこの「抜丸」を振るって活躍したと言う。乱後、頼盛は尾張守に叙されている。
- 平頼盛は清盛の15歳年下の異母弟にあたるが、逆に重用されずに警戒されることが多かった。その為か、都落ちをする平宗盛(清盛の子)らとは別行動を取ったという。その一因に、この「抜丸」の相伝をめぐっての宗盛との確執があったとする説もある。
一説に「抜丸」は平重盛に譲られたともいう。
- その後、平頼盛は鎌倉の源頼朝に接近し、一時鎌倉に亡命をしている。寿永3年(1184年)になると木曽義仲が滅ぼされ、一ノ谷の戦いで平氏も屋島に撤退したことにより京都は源頼朝の勢力下となる。頼朝の運動もあり、頼盛は権大納言に還任している。
- 翌元暦2年(1185年)3月、壇ノ浦の戦いで平氏一門が滅亡すると、平頼盛はその二ヵ月後に東大寺で出家し、法名重蓮と号した。
- 文治2年(1186年)6月54歳で没。
- 「抜丸」の行方は不明だが、おそらく鎌倉に伝わったと思われる。
足利将軍家
- 「抜丸」はのち足利将軍家の重宝となっている。
- 永享4年(1432年)5月7日、御会所の塗籠のうちにおいていたものが紛失していることが判明した。京都中の土倉(質屋)を探させたところ、9日に発見されたという。
- その後、本刀「抜丸」は行方不明となった。
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