六波羅館


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 六波羅館(ろくはらやかた)

  • 六波羅館(ろくはらやかた)は、京都の東山山麓にかつて存在した邸宅群の総称である。はじめ伊勢平氏の居館として築かれ、伊勢平氏が滅亡した後には鎌倉幕府の六波羅探題(六波羅政庁)があった。
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 概要

  • 六波羅館は、清盛の祖父にあたる平正盛が阿弥陀堂(現在の建仁寺常光院)を六道珍皇寺の傍に建立したのに始まる。※これにより、伊勢平氏の平正盛後裔を「六波羅流」とも呼ぶ。
                 【伊勢平氏】         【六波羅流】
    平国香(良望)──平貞盛──平維衡──平正度──平正衡──平正盛──平忠盛──平清盛
    
    
    
            ┌崇徳天皇
            ├近衛天皇
            │ 藤原成子 ┌式子内親王
            │  ├───┴以仁王              ┌順徳天皇──仲恭天皇
       鳥羽天皇─┴後白河天皇──二条天皇─六条天皇 ┌後鳥羽天皇─┴土御門天皇─後嵯峨天皇
               ├────高倉天皇──────┴守貞親王───後堀河天皇─四条天皇
         平時信─┬平滋子    ├───安徳天皇
    【桓武平氏高棟流】├平時忠  ┌平徳子建礼門院
             └平時子  ├平宗盛─┬平清宗
               │   ├平知盛 └平能宗
    【伊勢平氏】     ├───┴平重衡
    平正盛─┬平忠盛─┬平清盛
        │  │ │ ├───┬平重盛─┬平維盛──六代平高清
        │  │ │高階基章娘└平基盛 ├平資盛
        │  │ │          ├平清経
        │  │ │          └平有盛
        │  │ ├平経盛──平敦盛
        │  │ ├平教盛─┬平通盛
        │  │ │    └平教経
        │  │ └平忠度
        │  │  
        │  ├─┬平家盛
        │ 池禅尼└平頼盛─┬平保盛
        │         └平為盛
        │
        ├平忠正──平長盛
        │
        └─娘
    藤原有綱娘 ├──源経国、義高、忠宗、義清、義雄
     ├───源義忠
    源義家【清和源氏】
    
    そもそも「六波羅」の名前は、天暦5年(951年)に空也が西光寺を創建し、のち貞元2年(977年)に比叡山の僧中信がこの寺を六波羅蜜寺と改名したことからこの一帯が「六波羅」と呼ばれるようになったという。
     「六波羅」の由来は仏教用語の六波羅蜜(ろくはらみつ、ろっぱらみつ)にある。「波羅蜜」とは仏教において迷いの世界から悟りの世界へ至ること、および、そのために菩薩が行う修行のことをいい、波羅密多ともいう。
     六波羅蜜と十波羅蜜があり、大乗仏教では実践を「布施」「持戒」「忍辱」「精進」「禅定」「般若」の六波羅蜜にまとめている。この六波羅蜜の般若波羅蜜より派生した4つの波羅蜜「方便」「願」「力」「智」を加えたものが、十波羅蜜(じっぱらみつ)である。
    ※由来は諸説あり、六原・轆轤原(ろくろがはら)に由来するともいう。現在の京都市東山区の地名でも轆轤町となっている。轆轤は髑髏原(どくろはら)の転じたものだという説もある。
  • その後、伊勢平氏の京都での根拠地となる。清盛の父・平忠盛はこの六波羅邸の生まれとも言う。

    法皇、丹後守平正盛の六波羅堂に御方違あらせらる、

    丹後守平正盛堂宇ヲ建立シ之ヲ供養ス

  • 最盛期には北側が平安京の五条大路を東に延長した通り(現在の松原通)、東側が車大路、南側が平安京の六条大路を東に延長した通りであったと考えられている。南北およそ500メートル、東西およそ600メートルの規模を誇った。

    六波羅とてののしり所は、故刑部卿忠盛の世にいでし吉所也。南は六はらが末、賀茂河一町を隔てつ、もとは方一町なりしを此相国の時造作にあり、これも家数百七十余宇に及べり。是のみならず、北の鞍馬口よりはじめて、東の大道をへだてて、辰巳の角小松殿まで廿余町に及ぶ迄、造作したりし一族親類の殿原の室、郎等眷属住所細かにかぞふれば、五千二百余の家々

  • 周囲は塀を巡らせ、内部には伊勢平氏の惣領家の邸宅「泉殿(いずみどの)」を中心として池殿、小松殿(平重盛)、門脇殿(平教盛)など「屋敷三千二百余宇」が立ち並び、伊勢平氏の一族郎党が起居していたとされる。
    門脇:此平宰相(教盛)と申は、太政入道のさいあいの弟にて、片時も身も放ち給はず、さすれば六波羅の惣門の内小屋を立すへられたりければ、人異名に門脇宰相と申けり。

 泉殿(いずみどの)

  • 惣領家の邸宅を「泉殿」と呼んだ。
  • 泉殿の由来は、寝殿東の郭に泉が湧いていたためという。
  • 泉殿には、阿弥陀堂と安芸宮島から勧請した伊津伎島明神を祀る鎮守社があった(厳島神社の項を参照)。
  • 泉殿は氏長者の邸宅と位置づけられており、前年に出家していた平清盛が仁安4年(1169年)福原に移ると、この邸宅は後継者の平重盛に譲られている。
    この時に清盛が福原に整備した別荘は雪見御所と呼ばれ、ここを拠点として日宋貿易により巨万の富を手にしたことから平氏の栄華は頂点に達する。この平氏の横暴に対して治承元年(1177年)に後白河法皇ら院勢力らが起こしたのが鹿ヶ谷の陰謀であり、これを鎮圧して安徳帝を践祚させるも、治承4年(1180年)の以仁王の令旨が出されると、福原行幸へとつながっていく。
  • 現京都市東山区三盛町

 池殿(いけどの)

  • 泉殿の南側に池殿(いけどの)があった。
    平家相伝の太刀抜丸」は、平忠盛がこの池殿にて昼寝をしていた際の逸話から名付けられた。
  • 池殿は、仁平3年(1153年)の忠盛の死後、その正室であった藤原宗子が暮らす。このため宗子は「池の禅尼」と呼ばれた。池の禅尼は、待賢門院近臣家の出身で美福門院ともつながりがあったため、「夫ノ忠盛ヲモモタヘタル者」とも呼ばれたという。
    藤原宗子(池の禅尼)の父は藤原宗兼。藤原北家、関白・藤原道隆(弟が道長)を祖とする中関白家の流れ。平忠盛と結婚し、忠盛との間に家盛、頼盛を産んでいる。頼朝の助命嘆願は、家盛の幼い頃に姿が似ていたためという(平治物語)。
  • 平治元年(1159年)の平治の乱では、池の禅尼は敗れた源義朝の嫡男であった13歳の源頼朝の助命嘆願をしている(上西門院だともいう)。頼朝はこの時の恩を忘れず、池の禅尼の子である平頼盛とその一族を優遇し、平姓池氏は鎌倉時代においても朝廷堂上人および幕府御家人として存続した。
  • 禅尼の死後、池殿はその子である平頼盛が住居とし、このため頼盛は「池殿」または「池大納言」と呼ばれた。
  • 後に高倉天皇の中宮となった建礼門院平徳子も、この館で言仁親王(安徳天皇)を出産している。
  • 現京都市東山区池殿町

 小松殿(こまつどの)

  • 六波羅の東南、小松谷へ抜ける場所に館(小松第)を構えたのが清盛の嫡男の平重盛で、地名から小松殿、小松内大臣と呼ばれた。また邸内に48もの灯籠(灯篭)を建てていたことから、灯籠大臣とも称された。
  • 現京都市東山区上馬町あたりか

 都落ち

  • 寿永2年(1183年)、安徳天皇を奉じて都を落ちる時に、平家一門は自ら六波羅館に火をかけたため、これらの邸宅は灰燼に帰すこととなった。

 京都守護

  • 初代の京都守護として上京した北条時政は、この六波羅に宿所を求めたという。
  • のち一条氏らを経て、平賀朝雅、中原季時などが京都守護としてこの六波羅に入ったようである。
  • しかし6代目とされる伊賀光季は、承久の乱で鳥羽上皇軍に敗れて討ち死にし、この京都守護の洛中警護および裁判、鎌倉との連絡などの役目は六波羅探題が負うことになった。

 六波羅探題(六波羅政庁)

  • 平氏が壇ノ浦で滅亡し、さらに承久3年(1221年)の承久の乱ののち、これまで鎌倉幕府の支配が及ばなかった西国にも地頭を設置することとなった。その頃、後白河法王の求めに応じて頼朝は上洛の意思を固めた。
  • そこで鎌倉幕府はこの京都守護のあった六波羅の地を押さえ、主に朝廷方の動きを常に監視し統御することを目的とし、屋敷を改築して役所とした。

    頼朝入京して六波羅の新第に入る、法皇、其儀衛を覧給ふ、

  • 承久3年(1221年)6月、北条泰時・北条時房の二人が六波羅の北と南に駐留し、西国の御家人を組織し直して京の警備・朝廷の監視・軍事行動などを行わせた。これが六波羅探題(六波羅政庁)の始まりである。

    時房、泰時、六波羅館に駐在して事を行ふ、是日、官軍の将佐々木経高自殺す、

  • 六波羅探題の詳細は不明だが、北方(北殿)と南方(南殿)に分かれ、北殿は頼朝の宿所を中心として五条から六条坊門の間、南殿は六条坊門から六条の間であったとされる。
  • 探題は執権・連署に次ぐ重職とされ、伝統的に北条氏から北方・南方の各一名が選ばれて政務に当たった。探題には北条氏一族でも将来有望な若い人材が選ばれる事が多く、鎌倉に帰還後には執権・連署にまで昇進する者が多くいた。北方は初代泰時から仲時まで16代、南方は初代時房から時益まで13代を数える。

 その後

  • 元弘3年/正慶2年(1333年)後醍醐天皇の討幕運動から元弘の乱が起こると、令旨に応じた足利尊氏(当時は高氏)や佐々木道誉、赤松則村(円心)、石井末忠らが京を攻めた。これによって当時の探題であった北条仲時らは京を追われ、六波羅探題は崩壊した。

    南方左近将監時益ハ、行幸ノ御前ヲ仕テ打ケルガ、馬ニ乍乗北方越後守ノ中間マデ打寄セテ、「主上早寮ノ御馬ニ被召テ候ニ、ナドヤ長々敷打立セ給ハヌゾ」ト云捨テ打出ケレバ、仲時無力鎧ノ袖ニ取着タル北ノ方少キ人ヲ引放シテ、緣ヨリ馬ニ打乗リ、北ノ門ヲ東ヘ打出給ヘバ、被捨置人々、泣々左右ヘ別テ、東ノ門ヨリ迷出給フ。行々泣悲ム声遥ニ耳ニ留テ、離レモヤラヌ悲サニ、落行前ノ路暮テ、馬ニ任セ歩セ行。是ヲ限ノ別トハ互ニ知ヌゾ哀ナル。十四五町打延テ跡ヲ顧レバ、早兩六波羅ノ館ニ火懸テ、一片ノ煙ト焼揚タリ。

    時益:北条時益、最後の六波羅探題南方。左近将監。仲時:北条仲時、最後の六波羅探題北方。越後守。
     元弘3年/正慶2年(1333年)に後醍醐天皇の綸旨を受けて挙兵に応じた足利尊氏(高氏)や赤松則村らに六波羅を攻められて落とされると、5月7日に六波羅探題南方の北条時益とともに六波羅の役所を脱出した。しかし途中時益は近江で野伏に襲われて討死、仲時も近江の番場峠で佐々木道誉が差し向けたとされる野伏に行く手を阻まれ、番場の蓮華寺の本堂前で自刃した。この時連れ去られていた光厳天皇・後伏見上皇・花園上皇は、佐々木道誉により京都へ戻された。

  • これにより時代は後醍醐新政から室町時代へと移り変わり、六波羅の地は寺院を残して田圃となり、いつしか六波羅野と呼ばれるようになっていった。

 関連項目


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