川田小一郎
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川田小一郎(かわだこいちろう)
日本の実業家、政治家
第3代日銀総裁
男爵
生涯
- 天保7年(1836年)8月24日土佐の旭村で、土佐藩士川田家に生まれる。
- 藩の会計方に登用され、大坂西長堀にあった土佐開成館大坂商会に勤務。この時の上司が岩崎弥太郎であった。
- 明治維新の際には難題であった伊予松山藩所有の別子銅山接収を平和裡に収拾している。
- 明治3年(1870年)、土佐開成館大坂商会が弥太郎に払い下げられ九十九商会(後の三菱商会、郵船、三菱財閥)として民営化したのに伴い、高級幹部(管事)として石川七財と共に社主の岩崎弥太郎を補佐した。
- 明治18年(1885年)の弥太郎死後は、新たに三菱を率いた岩崎弥之助を助け、鉱山業、造船業など基幹産業への集中投資を推進するなど、今日に至る繁栄の礎を築いた。
- 明治22年(1889年)9月3日54歳のとき、松方正義の推薦で第3代日本銀行総裁に就任。川田の日銀総裁としての権勢は絶大で、「日銀の法王」と呼ばれた。株主総会の日以外は出勤せず、行員ばかりか、当時大蔵大臣であった渡辺国武さえも牛込の私邸に呼びつけたという。
- 帝国議会成立に際しては貴族院勅選議員を兼任し、また明治28年(1895年)10月31日、長年にわたる政財界の発展に貢献した功により男爵に叙せられた。
- 日銀総裁在任中の明治29年(1896年)11月、京都別邸である高瀬川二条苑にて急死した。享年61。
岩崎弥之助が第4代日銀総裁となった。岩崎の次の第5代総裁が山本達雄である。
高瀬川二条苑は、豪商角倉了以の別邸跡。江戸時代初期に小堀遠州により作られた茶庭が現存する。明治には山県有朋が別邸を建設し、その後、川田、阿部信行(第36代内閣総理大臣)らが別邸を構えた。現在は「がんこ高瀬川二条苑」。
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刀剣
- 日銀総裁就任後に刀剣に興味を持ち始め、今村長賀を指南役として刀剣を蒐集した。
- 太刀
- 銘「国俊」 太刀銘二字国俊で、磨上のため底銘になっている。寛文六年の代金二十六枚の光温折紙が附く。
- 太刀
- 銘「来源国俊作/元応三年正月日」長69.8cm、反り2.5cm。東京国立博物館所蔵 C0055583 太刀 - 東京国立博物館 画像検索
- 太刀
- 銘「安綱」
- 太刀
- 銘「高綱」古備前。僅かに磨上、二字銘。今村押形所載。
- 太刀
- 銘「景安」古備前。生ぶ中心在銘、今村押形所載。
- 太刀
- 銘「守家造」初代。三字銘。今村押形所載
- 太刀
- 銘「備前国長船住兼光□□/
南無大悲観世音菩薩 」 僅かに磨上、在銘。 - 太刀
- 銘「備州長船政光/嘉慶三年二月日」僅かに磨上。今村押形所載。
- 短刀
- 銘「備州長船長義/応安二二年十二月日」
- 短刀
- 銘「備州長船住長義/正平十七年十月日」※南朝年号
- 短刀
- 銘「備州長船住長守/正平廿一年六月日」今村押形所載。
- 短刀
- 銘「則重」伝大岡越前守拝領。
- 刀
- 銘「出羽大掾藤原国路(花押)」
- 太刀
- 左安吉。大磨上金象嵌銘。元禄年紀代金十七枚の本阿弥光常折紙が附く。
- 太刀
- 銘「安綱」伯耆安綱。僅かに磨上。二字銘。
- 短刀
- 銘「備前長船住景」景光。正中年紀銘
- 刀
- 越後守包貞
- 刀
- 出羽大掾藤原国路
- これらのコレクションは、その死後の昭和3年(1928年)6月、息子の川田龍吉氏から東京国立博物館に寄贈された。
系譜
- 息子の川田龍吉は、実業家。
- 安政3年(1856年)生まれ。慶応義塾大学を卒業後に、造船技術を学ぶためにイギリスへ留学。グラスゴー大学で機械工学を学ぶ。
- 7年間の留学ののち帰国し、三菱製鉄所、日本郵船を経て、明治26年(1893年)に横浜船渠会社(横浜ドック)取締役となり、明治30年(1897年)には社長に就任する。
- 33歳の時に、同郷で当時高知小町とうたわれた楠瀬春猪(楠瀬斎民の長女) と結婚し、5男2女を設ける。明治29年(1896年)、41歳の時に父小一郎が急死したため襲爵し男爵となる。
- 明治39年(1906年)、函館船渠会社専務取締役として北海道へ渡る。明治41年(1908年)、米国のバーバンク種苗会社より輸入した「アイリッシュ・コブラー」という品種の馬鈴薯を自営の農場に導入し普及を図る。この品種は後に川田男爵が育てたジャガイモということで「男爵いも」の名で知られるようになった。
イギリス留学時代にジェニー・イーディという女性に想いを寄せ、90通ものラブレターが今も残る。ジャガイモは、龍吉がかつてジェニーと一緒に食べた味であったという。
- 明治44年(1911年)に函館船渠を退社。余生を北海道農業近代化のためにささげることを決意し、渡島当別(現、北海道北斗市)に山林農地1200町歩の払い下げを受け農場を開拓した。
- また龍吉はロコモービル社製蒸気自動車を輸入して自ら運転した。このため、日本人最初のオーナードライバーであるとされる。現在この車体は男爵資料館(北海道北斗市当別)に保存されている。※男爵資料館は、2014年3月以後、無期限の休業となっている。
- 昭和26年(1951年)、95歳で没。
関連項目
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