枯木鳴鵙図
枯木鳴鵙図(こぼくめいげきず)
紙本墨画枯木鳴鵙図〈宮本武蔵筆/〉
絵画
重要文化財
和泉市久保惣記念美術館所蔵
- 宮本武蔵は武芸を持って遍く知られるが、反面墨画も能くし、「二天」の号で知られている。この「枯木鳴鵙図」は、宮本二天の代表作とされ、重要文化財(旧国宝)指定を受けている。
- ※「枯木鳴鵙図」は熊本県の島田美術館にも武蔵による同名の水墨画『枯木鳴鵙図』が収蔵されているが、それではなく国の重要文化財作品について述べる。
鵙の向きなどが若干異なる。
- ※「枯木鳴鵙図」は熊本県の島田美術館にも武蔵による同名の水墨画『枯木鳴鵙図』が収蔵されているが、それではなく国の重要文化財作品について述べる。
- 武蔵の晩年(寛永~正保)に描かれたとされている。
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来歴
- 渡辺崋山の前はどこにあったのかがわかっていない。一説に出羽天童あたりにあったとされる。
一書にそう書いてあるだけで傍証もなにもないためここは掘り下げない。晩年の作ということで、結局武蔵没年の正保2年(1645年)から、江戸時代後期に崋山が発見する文政3年(1820年)まで200年弱の来歴が不明である。また崋山が見つけた時には江戸市中にあった。
須賀川家(渡辺崋山)
- 渡辺崋山が所有した(あるいは友人に買ってもらった)という話が有名で、崋山は箱書きもしている。
- ある日(四谷や麹町ではないかとされている)骨董屋をひやかしていた崋山が、たまたま見つけたという。しかし当時崋山は28歳で、使番方を勤める五人扶持だったため、とても買えるほどの財力はなかった。
田原藩渡辺家は上士で代々100石の禄だが、父も養子だったため15人扶持(27石)に削られており、なおかつ藩財政難で減俸され実際は12石足らずだった。なお当時崋山は家督前で、田原藩士・和田氏の娘・たかと結婚したのは文政6年(1823年)、父の病死により家督を継いだのは5年後の文政8年(1825年)、家老就任は天保3年(1832年)であった。
- そこで、同じ四谷に住む幕府与力で師匠・金子金陵門下である須賀川某という友人に頼んで購入してもらい、その代わりに箱書きをしている。
文政庚辰嘉平月四日 渡辺登審鑑謹書
渡辺登は崋山の通称。文政庚辰は文政3年。嘉平月は12月の異称。つまり文政3年(1820年)12月4日に購入したと思われる。
横瀬文彦
- 維新後の明治25年(1892年)2月27日、両国の井生村楼で行われた書画展覧会に出品され、横瀬文彦という人物が購入している。彼は添状を書いている。※この添状により崋山が友人に買ってもらったことが知れる。もちろんそれを示す傍証はないが、今となってはこの添状が非常に貴重な史料となってしまっている。ただし崋山の年齢は1年間違っている
此幅元係幕府四谷寄力須賀川某所蔵、
某曽与渡辺崋山共学絵事金子金陵友好、
崋山一日見此幅在于市、欲購之無資、
只恐他人攫取、因謀須賀川氏帰其有至今日、
崋山時年二十有九、明治二十五年二月二十七日
余得之両国井生邑楼書画展覧会 横瀬生
横瀬文彦はWikipediaにも項目がある人物。前名は向坂盛之助。弘化4年(1847年)6月14日生まれ、明治44年(1911年)6月15日没。実父は徳川家御家人で御賄方であった寺嶋静一郎。養父は同家御家人で小普請組の向坂曻太郎(実兄)。
大学中助教、名古屋藩立洋学校英語教師、翻訳者、新聞編集者(朝野新聞社)・論説員、兵庫県御用掛、神戸師範学校長、大蔵省参事官、古社寺保存会委員。「西洋 養生論」、「日耳曼史略(ゲルマン-)」、「百科全書 英国制度国資」などの訳書がある。
明治21年(1888年)大蔵省参事官、造幣局出張所長心得兼務。
井生村楼(いぶむらろう)は浅草にあった大集会用の会場。展示会から演芸舞台、政治演説会場など様々なイベントに用いられている。板垣退助の自由党は、明治14年10月29日この井生村楼で結党大会を行っている(中島信行が副総理、後藤象二郎・馬場辰猪・末広重恭・竹内綱が常議員)。明治29年(1896年)に明治病院となった。芥川龍之介の「芥川龍之介 本所両国」にも登場している。
- 明治25年(1892年)10月、秋季美術展覧会が上野公園桜ヶ丘日本美術協会列品館で行われ、横瀬文彦氏が「枯木鳴鵙図」を出展している。
横瀬文彦出品 (略)宮本武蔵筆枯木鳴鵙図
- 明治25年(1892年)12月15日付け寶物取調局の登録状。
東京京橋區山城町横瀬文彦
寶物取調局は、明治21年(1888年)9月に宮内省に設置された「臨時全国寶物取調局」のこと。明治30年(1897年)10月廃止。
全国的に古美術尊重の機運が高まり、まず畿内に限定して壬申検査が行われた。その後、さらに広範囲に古美術什器寶物の調査を行うことになり、明治21年(1888年)4月28日から4ヶ月に渡って京都、大阪、奈良、滋賀、和歌山などの二府三県下の古美術をフェノロサ、九鬼隆一、岡倉覚三(天心)、濱尾新らに調査を行わせている。この結果、設置されたのが寶物取調局である。九鬼隆一を局長とし、重野安繹、濱尾新、高峰秀夫、山高信離、黒川真頼、岡倉覚三らを委員及び取調掛に任じた。のち明治22年(1889年)4月には川崎千虎も古画調掛に任じられている。その後、古美術保存は明治30年(1897年)の「古社寺保存法」制定へと動いていく。古社寺保存法では、全国の古社寺を調査し、甲乙丙に区別されたものは古社寺保存会に諮問され内務大臣により指定が行われるが、この古社寺保存会にメンバーとして入るのが横瀬文彦である。
内田耕作・薫作
- 明治42年(1909年)5月8・9日に開催された京都帝国大学美術展覧会では内田耕作氏所蔵。
京都帝國大學美術展覧會
日本書畫之部
枯木鳴鵙図、宮本二天筆、東京内田耕作藏この内田耕作氏は、天保11年(1840年)9月20日高知生まれ。父は多八郎(太八郎とも)、母は溝渕氏。九十九商会に入り、のち改称した三菱商会の社員となる。汽船事業に関わり、日本郵船の理事長。のち日本銀行監事。明治生命保険及び東京倉庫株式会社。大正元年(1912年)12月5日病没、73歳。正六位。谷中墓地。妻の「すま」は嘉永2年(1849年)2月生まれ。子どもは長男・内田薫作、次男・内田耕二、三男・内田耕三。別の書では、次男耕二氏が抜け、耕四郎という子どもが記述されている。- 内田耕作氏は美術にも造詣が深く、中興名物「祖母懐弦」や「過去現在因果経」もこの人物が買っていたようだ。
- 大正元年(1912年)に耕作氏の死去後は、長男の内田薫作氏蔵。
内田薫作氏は明治10年(1877年)1月生まれ。父・内田耕作氏は73歳で病没なため、入手は明治42年より前なのだと思われるが情報がないため不明。
なお明治火災保険(現、東京海上日動火災保険)は明治24年(1891年)設立だが、その3年前、明治21年(1888年)10月に「火災保険會」を設立している。この時の会友61名(三菱関係者および福沢門下生)に内田耕作氏も横瀬文彦氏も入っている。そこでもなんらかの繋がりがあったのではないかと思われる。会友61名には、川田小一郎や吉川泰次郎、阿部泰造、九鬼隆一、岩崎弥之助なども入っている。
- 大正4年(1915年)、東京帝国大学卒業式に天皇陛下の行幸があり、そこで分科部選定の宮本二天の絵三点を天覧に供することになった。その一点がこの枯木鳴鵙図であり、「内田薫作氏蔵」となっている。文科教授文学博士・瀧精一(号 拙庵)が説明申し上げたという。
宮本武蔵筆の畫三種
去月十日、東京帝国大学の卒業式に際し、天覧に供し奉りし品々の内に、宮本武蔵の筆になる畫三種があつた、(略)その二は、内田薫作氏所蔵の枯木鳴鵙図で、もと渡辺崋山の珍蔵であつた
長尾欽弥
- 昭和のかなり早い時期に、売立に出たこの絵を、長尾よねが買っている。
長尾家で購入した年月は不明
- 昭和8年(1933年)7月25日重要美術品認定。
紙本墨跡枯木鳴鵙図宮本武蔵筆 一幅 世田谷區深澤町四丁目 長尾欽彌
(昭和8年文部省告示第二百七十四號)
- 偶然にも売立に出される前に作家・吉川英治が見ていたという。画商が風呂敷に包んで持ち込んできて、「欲しい」と思ったがまさか本物が向こうからやってくるとは信じられず、また値段も到底届かないだろうと思い断っている。随筆に詳しく残しており、それによれば落札額は580圓前後であったという。吉川は複数人を介して長尾家に入ったと書いているが、周辺状況を見る限りこの時に落札したのは長尾よねと見られている。
結局、今、武蔵の真筆に接するには、遺墨展か博物館に出陳される折に見るしかない。勿論、巷間に絶無とはいわないが、以上のように稀なのである。
その稀なものが、しかも武蔵野作品中、第一の傑作といわれる「枯木鳴鵙図」を、偶然にも、自分の宅へ持込んで来たはなしがある。これは今の所蔵者は、長尾鉄也氏とわかっていることだし、重要文化財に指定されて、その名幅たる位置も、厳然となっている今日なので、書いても決して、所蔵者をも画幅をも傷つけることにはなるまいと思われるので、閑話休題として、茶ばなしに語ってみる。
健忘症なので、もう十何年前になるか、八年ぐらい前か、よくは覚えていない。ただ、自分がまだ芝公園に住んでいた時代。そしてまだ朝日紙上に、小説宮本武蔵も書いていなかった頃である。──だから多分そのくらい前のことだったと思う。
時々、閑な時、近くの美術倶楽部をよく覗きに行ったので、よく札元になる画商の店員が何かおのぞみはなどとすすめに来た。或る時、その店員が、相当な大幅らしいのを風呂敷につつんで、こういう幅が出ましたがどうでしょうか。物が物なので、こちらなら真向きと思ってお目に懸けに持って出ましたがという。
風呂敷を解かないうちに、何かね、と訊くと、宮本武蔵の画ですという。まず訊くだけで閉口した。その頃まだ、小説は起稿していなかったが、武蔵については、名人である、いや名人とは言えないなどと、直木三十五や菊池寛など、同人間でとかくよく話題になっていたし、武蔵の絵などが、そう風呂敷につつまれて、簡単に先から持って来てくれるわけのものでないくらいは自分も知っていたからである。
しかし、これは名幅です。どこやらに出品したこともありますし、それに箱書きは、渡辺崋山がいたしておりますので──とその店員がいうので猶さら、吹出してしまいたくなった。そして、風呂敷から解かれる間にも、一つ二つぐらい、減らず口をいったと思う。
ところが、この減らず口の罰があたってしまったことになった。というのは、折角、箱の蓋まで取って示すので、何気なく見ると、私も驚いた。ほんとに崋山が書いている。一見、真蹟である。例の崋山の力のある筆致で箱の裏に字句は忘れたがたしか短く二行ほどに書いてあったかと記憶する。勿論、印顆も明晰に捺してあった。
(略)
わたしは、わたしのような一書生の貧屋に、こんな眩しい名幅を持込まれ、ちょっと返辞にも困り、また浅ましいことには、これは何かうるさい事情でもありはしないか、さもなくてこんな品を小向いに持って歩くわけもないなどと疑った。
で、どうして売りに出したのか、わけを聞くと、その店員の方は決して私みたいに、こんなものに驚いたりなどはしていない。殊に、宮本二天などはほとんど向く客がない。実は今度、倶楽部へ出す客の荷の中にあったのですが、お望みなら荷主にはなして先へお取りになっておけば、倶楽部でお取りになるよりはお安くもなりましょうし──というひどく簡単な挨拶だった。
欲しいと思った。何度も拡げて、未練がましく見たものだったが、自分などの趣味に使う金ではとても届かない値だろうし、また、小向いでこんな物を取って、後で何ぞいざこざでもあったら嫌だし──などと思ったので、では倶楽部へ出るなら倶楽部で札を入れて貰うよ、とあっさり云って帰したものである。
が、それもつい忘れて数日経たぬうちに、私は関西へ旅行に立ってしまった。帰宅してからふと思い出し、あれの出る倶楽部はいつ頃かと、なお一脈の未練をもって電話して問合せてみたところ、もうきのうとか一昨日とか開札は終わりました。へい、あの二天の画もさるお客がお取りになりまして──という返辞である。
まもなく郵便で開札の高値表が届いた。何気なく見てゆくと、宮本二天画、枯木鳴鵙図、五八〇円と落札値が出ている。謄写版のまちがいではないかと私は思っていた。で、その後その店員の顔を見た時、さっそく訊いてみると、やっぱり五八十何円とやらいった。
それでも、その店員も、また美術倶楽部の札元たちも、決してそれが安かったとは、誰もいっていなかったものである。それ程、わずか一七、八年前には、武蔵の画には、一般の鑑賞家もまた、美術商も無関心で、たまたま、望む客があっても、むしろ物好きに思われるほどだった。現在の所蔵主へ移るまでには、なおそれから幾人もの手を転々して、価格も数倍、数十倍に昂騰して行ったに違いなかろうが、さるにても国宝級のものが、つい一七、八年前までは、そんな境遇にあったということが、何かおもしろく思い出されるのである。
(随筆 宮本武蔵)長尾家で購入した年月が不明だが、吉川英治が上落合から芝公園十四号地(最勝院)に引っ越したのは昭和5年(1930年)12月。そして昭和10年(1935年)6月18日(六月十八日、吉川英治氏転居)に赤坂表町三丁目へと移るまでここで暮らしているので、その間の出来事ということになる。昭和8年(1933年)9月刊の「図説日本美術史」や7月25日の重要美術品認定では東京長尾欽彌氏藏となっているため、その時期なのはほぼ間違いないと思われる。
最勝院は宿坊だったので檀家はおらず、吉川は年に一度仏様を守ってくださっているということで二千疋をもらっている。「親鸞」はここで書いたといい、また「小説宮本武蔵」発表は赤坂表町転居後で、長男の吉川英明氏もそこで生まれている。
結局絵を買い逃した吉川英治氏は、昭和10年(1935年)の8月23日から朝日新聞で「小説宮本武蔵」の連載を開始する。連載は評判を呼び、ラジオ朗読から映画化も行われるほどのヒット作となり、現在でも吉川英治の代表作の一つとされる。皮肉にも買い逃した吉川英治の小説が、宮本二天とこの「枯木鳴鵙図」の世間での評価を押し上げることになった。
久保惣太郎
- その後、久保惣三代目の久保惣太郎氏の所蔵となる。
- 取り扱いは秦東美術の水谷仁三郎氏だったと記されている。
ちょうどその時、某氏の紹介で突然細見氏夫妻が来宅され、折りよく、買い入れたばかりの旧国宝「山王霊験記」弐巻をご覧に入れましたが、「高すぎる」とて折り合いがつかず、数日後再び夫妻で来られ、「久保様にお納めする故にともかくたのむ」とて、無理矢理お持ち帰りになりました。これが、久保様へ細見氏を通じて御納めする美術品移動のレールが敷設された最初でした。
依頼このレールの上の動きが活発となり、名宝が出たらまず細見さんへ、優品が手に入ればそれ細見さんへと御渡し申し、それが久保様の御蔵へまっしぐらに搬入されました。そしてこの品々が、御存じ大コレクションの根幹となった様に存じ、至上の名誉と存じおります。
このように有力な後援者を得て、一段と私の活動に馬力が加わりました。たとえば、
長尾家 国宝 平安時代歌仙歌合 壱巻
長尾家 重文 宮本武蔵鳴鵙図
長尾家 重文 敦煌十王経
原三溪家 重文 伊勢物語絵巻
原三溪家 重文 周徳布袋図
三条家 重文 駒競行幸絵詞
毘沙門堂 国宝 青磁鳳凰耳花生
宝積寺 重文 山崎架橋図
尚その他安田菘翁家、蓮華寺等各名家より引き出した重文、重美等の佳品を御納する事が出来ました。
細見氏とは、細見良(細見古香庵)、実業家・細見亮市(1901-1978)のこと。
この古香庵と、息子・細見實(1922-2006)、三代細見良行(1954-、現館長)の3代で収集された美術品は、京都市左京区岡崎にある細見美術館に収蔵されている。上記「山王霊験記」はここの所蔵。ただし水谷仁三郎氏は、細見氏への義理もあるため生前は久保惣太郎氏に直接会うことはなく、その一周忌後に初めてお会いしたと述べている。
- 買い入れの時期は不明だが、もっとも早く大阪府の文化財として登場するのが昭和37年(1962年)となっている。※一般に長尾美術館から美術品が流出し始めたのは昭和30年代だとされている。
茶道の表千家に師事した2代目は茶事に通じる東洋古美術を集めた。3代目は絵巻物を好み、確かな審美眼があった
主に茶器については先代の二代惣太郎(茂三、昭和3年襲名)氏が蒐集したもので、自ら茶室もつくっていた。また昭和42年(1967年)に亡くなった母も茶道を殊の外好きだったという。
- 三代目は、昭和25年(1950年)頃から自分の意志で茶器に限らない蒐集を志したという。なお絵巻が多い理由について次のように単純明快に語っている。
「自分の蒐集品の中に絵巻が多いのは、やはりそれだけの理由があるのだ。つまり絵巻に限っては、まずにせ物はないと言ってもよいだろう。自分は学者ではないし、またそれほど自分で勉強をしようと思っているわけではない、だからどうせ高い金を払うなら一番にせ物の少ない絵巻を集めようと思ったのだ」という意味のことを言われていた。
そしてさらに私が、それでは新画などはどのようにお考えなのですか、と聞いたとき、久保氏は目をギョロッとされて、「私はね、現代のものを買うのだったら水爆か人工衛星でも買いたいんですよ、私はなんでもその時代が到達した最高の技術の総合された創造作品がほしいのです。絵巻なんかある意味ではそういえるでしょう」と言われた。
それともう一つ、「こう不景気になってくると、また古美術品の大きな移動があるのじゃないでしょうか」と私が聞いたとき、久保氏はそれを否定して、「いや大きな移動はないでしょう。たとえば戦前の昭和十年頃には一つの工場が五十万円あれば建てることができた。そして当時それぐらいの金ならば骨董品をいくつかまとめて売ればできたでしょう。しかし、たとえば私はあの国宝の「歌仙歌合」など合せて五十万円ほどで買いました。いま売ってもそれよりは高いとしても何億円とはいかないでしょう。とても古美術品を売って現代企業を立てなおすとか、現代的工場を建てるとかはできないのです」と言われていた。
(美術品移動史 : 近代日本のコレクターたち)なお文章に若干の緊張感があるのは、インタビュアーである著者の田中日佐夫氏が美術史学者(専門は日本美術史。成城大学名誉教授)ということも関係しているのかも知れない。久保氏は、実業家だけあって非常にドライに現実的に古美術品を捉えている。特に「その時代が到達した最高の技術の総合された創造作品」という一文には深く頷ける。当時高価どころか入手するのすら困難な材料を使って極度の集中力と緊張感を持って創作された作品には、時代を超えて人々を魅了するものがある。また後段の美術品移動に関してはその通りだろうという他ないし、実際問題大半の古美術品は博物館・美術館に収まっており、今後大きな変動が起きることは考えにくい。もちろんそれらが破産する可能性はゼロではないが、その場合でも個人に譲渡するのではなく同様の博物館・美術館へと譲渡されていくだろうと思われる。それは久保氏が指摘する金銭的価値の相対的な変化(かつては美術品が事業再生できるほどの価値があったが、現代の事業規模では難しい)の他に、文化財保護行政なども関連している。現代では保存施設や管理体制まで揃えないと重要文化財を所有することもままならない。寄託というのはもちろんありえるが、寄託前提で所有する人は決して多くはない。
- 1977年(昭和52年)に久保惣廃業を契機として和泉市に寄贈された。※ただし一度に全部寄贈ではなく、2022年の時点で合計六回に渡って寄贈されたとある。
- それらを展示する施設として久保家旧本宅跡地に昭和57年(1982年)10月26日に和泉市久保惣記念美術館が開館した。
まず久保氏の寄贈提案を受けるが、それでも当時和泉市は二次のオイルショックを受けて14億円もの赤字を抱えており、財政上この申し出を受けることが出来なかった。そこで三億円の基金と三年分の運営費も出すと久保氏側が提案してようやく話がまとまったという。
- 館蔵品とする美術品の選択は昭和56年(1981年)9月7日の地鎮祭のあとにも行われていたようで、寄託していた奈良国立博物館に枯木鳴鵙図のほか、駒競絵巻など22点について当時の担当者が確認に訪れている。
また指定美術品の多くは、奈良国立博物館に寄託預けしている。これも引き取らねばならない。大阪市立美術館学芸員の方と奈良国立博物館へ。指定美術品を初めてこの眼で見ることができた。宮本武蔵筆の枯木鳴鵙図、駒競絵巻など二十二点。
- 現在、大阪府の和泉市久保惣記念美術館所蔵。
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