和歌山正宗
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和歌山正宗(わかやままさむね)
- 「鷺森正宗」とも。
- 相州正宗極め
- 享保名物帳所載
和歌山正宗 朱銘長九寸四分 不知代 松平安芸守殿
表裏刀樋并影樋、朱銘判有之、浅野但馬守殿紀州和歌山在城の時分、和歌山に鷺森甚右衛門と申者あり、其者所持、但馬殿より上ると見えたり、利常卿へ清泰院様御入輿の節拝領、御刀は知らす、利光卿よりは五月雨郷と八幡正宗を上る、松平紀伊守殿へ利常卿より自昌院殿御入輿の刻遣はされ、寛永九年但馬殿より来り代付吟味有り岡本、夫馬見合せ同様の了簡にて三百枚代付くなり岡本より格別に優りたる道具なり、岡本は元禄年中五百枚なり、夫馬も元禄の末代付吟味七百貫と御申遣外の上り故右の通にて被差置銘ありと申計にて不出来の道具なり
- 表裏に刀樋と添え樋。
由来
- 鷺森甚右衛門所持。
- 和歌山市の西本願寺別院は別名鷺ノ森別院と呼び、この付近を鷺ノ森と呼ばれた。
- 鷺森甚右衛門はここの名家で、正宗の短刀を所持したという。
- 異称の「鷺森正宗」は鷺森甚右衛門所持にちなむ。
来歴
- 慶長5年(1600年)、若山城主となった浅野
幸長 が慶長18年に死ぬと弟の但馬守浅野長晟が後を継ぐ。
浅野幸長は関ヶ原ののち紀伊和歌山37万6千石に封じられる。慶長18年(1613年)和歌山で死去。次弟の長晟が家督を継いだ
- 浅野長晟は鷺森甚右衛門からこの正宗を召し上げている。
浅野長晟は関ヶ原の戦い以後は家康に従い、秀忠の小姓になる。慶長15年(1610年)に備中足守に2万4,000石を与えられる。慶長18年(1613年)に長兄が病死したため、家督を相続し紀伊和歌山藩2代藩主となる。元和5年(1619年)に福島正則が改易されると、その後を受けて安芸広島42万石に加増移封された。寛永9年(1632年)広島で死去。召し上げは長晟が和歌山にいた1613~1619年の間となる。
- 寛永9年(1632年)に長晟から本阿弥家に鑑定に出され、「岡本正宗」や「夫馬正宗」と比較し、同格の金三百枚の折紙をつけた。
- 同年に長晟が死ぬと、嗣子の光晟が父の遺物として11月1日にこの「和歌山正宗」を将軍家に献上している。
十一月朔日月次拜賀例の如し。松平安藝守光晟。淺野内匠頭長直。南部山城守重直襲封を謝し。光晟は父但馬守長晟遺物正宗の脇差。玉堂の茶入。
恐らく生前の長晟が財産を整理するために本阿弥家に鑑定に出されたものと思われる。
- 寛永10年(1633年)12月5日、3代将軍家光は養女の阿智姫(水戸頼房の娘)を前田光高に嫁がせており、同日に御礼言上で登城して謁見した際にこの「和歌山正宗」を光高の父前田利常に贈っている。
御座所に召て各御盃賜はり。光高に正宗の御刀。吉光の御脇差賜はり。利常卿へ正宗の御脇ざし賜はり。返盃して又五月雨郷の刀。正宗の脇差を獻ず。淡路守利次に來國光の御脇差下され。宮松丸利治にも行光の御脇差下され。
- 寛永12年(1635年)に前田利常の三女満姫が、家光の猶子として安芸広島藩2代藩主浅野
光晟 に嫁ぐ時に、利常はこれを婿引出として光晟に贈っている。つまり遺物として光晟が献上した正宗が将軍家・前田家を経由して3年後に再び浅野家に戻ったことになる。
満姫(まんひめ)は三男三女を儲けた。広島藩3代藩主綱晟、戸沢正誠室の市姫、仙石忠俊室の亀姫、三次藩2代藩主の長照、小笠原忠雄室の久姫などがいる。
満姫の母珠姫は、秀忠の次女で姉に千姫、妹には松平忠直室の勝姫、京極忠高室の初姫、3代将軍家光、松平忠長、東福門院徳川和子(後水尾天皇中宮、第109代明正天皇の母)がいる。
- 享保名物帳編纂時には浅野家にあったが、その後の消息は不明。
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