上杉神社
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上杉神社(うえすぎじんじゃ)
概要
謙信死後
- 天正6年(1578年)に謙信が急死すると、遺骸は城内の不識院に仏式にて祭られた。
- 上杉景勝が、会津を経て慶長6年(1601年)に米沢へ移封されたのに合わせ、謙信の祠堂も会津から米沢に遷された。
- 米沢城内の本丸東南隅に盛土をして御堂を建立し、中央正面に謙信霊柩、堂内の壇に歴代藩主の位牌を安置した。また供養のために、城内二の丸に春日山から移した法音寺を主席とした十一ヶ寺が交代で祭祀を執り行った。
明治
- 明治に入ると神仏分離令、廃城令などにより、謙信の遺骸が城内から上杉家廟所に移され、その守護のために法音寺も廟所前に移転した。この時、併せて米沢藩中興の名君である上杉鷹山を合祀し、山形県社「上杉神社」となった。
- 宝暦13年(1763年)に上杉大明神の神号を拝領していることから藩士藩民による請願が行われ、明治5年(1872年)10月に謙信および鷹山に上杉神社の神号が認可され、同年11月に山形県社に列せられた。
- 明治9年(1876年)5月21日、現在の旧米沢城奥御殿跡に新社殿が竣工し、遷座された。
- 明治35年(1902年)4月26日には別格官幣社に列せられる。
上杉神社 山形縣羽前國米澤市南堀端町鎮座
祭神 上杉謙信
右神社ヲ別格官幣社ニ列セラルゝ旨本年四月二十六日 仰出サル
明治三十五年四月二十九日 内務大臣 男爵内海忠勝
(内務省告示第二十九號)
- この時鷹山は新たに設けた摂社「松岬神社」に遷され、上杉神社は再び謙信のみを祀ることとなった。
- 大正8年(1919年)の米沢大火により焼けてしまうが、のち大正12年(1923年)に再建されている。
殊に南堀端町の上杉神社に延焼した際の如きは宮司以下数百名の氏子が消防隊と共に必死となって防火に努めたが遂に焼失し次で中央松ヶ岬公園に火勢を煽り上杉神社の摂社たる松ヶ岬神社を初め旧藩主たる上杉伯爵邸迄焼失したので米沢市民は非常に恐怖し一昨年の同月同時の大火と結合せて是謙信公、鷹山公の祟りであると噂して居た
(神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫・報知新聞 1919.5.21 (大正8))米沢大火は大正6年(1917年)と大正8年(1919年)の2回起こっている。この2回目の大火では、上杉神社のほか上杉伯爵邸(現:上杉記念館)も焼けた。
- 宝物殿「
稽照殿 」には、刀剣・甲冑・絵画など300点が収蔵展示されている。
重要文化財
- 太刀
- 伝 倫光作 表に備前国(以下不明)裏に興国三年云々の銘あり。銘が一部朽ちて判読出来ないが、山内家以来、倫光と伝えられる。重要文化財。上杉神社蔵。
- 剣
- 無銘 梵字及び七星の金銀象嵌あり 十二支蒔絵鞘付。伝 上杉謙信 所用(禡祭剣)
- 太刀
- 無銘 伝 元重。無銘ながら山内家以来、元重と伝えられる。重要文化財。上杉神社蔵。
- 長巻
- 無銘 伝 則包 黒漆長巻拵え付
- 長巻
- 無銘 伝備前助包 黒漆長巻拵え付。山内家以来、福岡一文字助包と伝えられる。重要文化財。上杉神社蔵。
- 長巻
- 無銘 伝 片山一文字 黒漆長巻拵え付。山内家以来、片山一文字と伝えられる。重要文化財。上杉神社蔵。
- 長巻
- 無銘 伝 片山一文字 拵付。※無銘片山一文字は2本伝わる
- 鑓
- 銘城州埋忠作 文禄二年十二月日。黒漆赤銅金銀金具拵え付。豊臣秀吉から景勝が拝領した20本のうち10本(上杉神社蔵)は重要文化財。駐留した米兵が槍投げ遊びに使った為、一部損傷がある。他の10本(重要美術品)は戦後行方不明。
- 太刀
- 銘 助宗 拵革柄革包太刀 上杉景勝所用。摂社松岬神社所有、上杉神社保管(謙信助宗)
その他の刀剣
松岬神社(まつがさきじんじゃ)
山形県米沢市に鎮座する神社
上杉神社の摂社
- 社号は米沢城の別名「松岬城」に因む。
- 米沢城址の松が岬公園に位置し、上杉鷹山、上杉景勝、直江兼続、細井平洲、竹俣当綱、莅戸善政を祀る。
概要
- 米沢藩中興の藩主上杉鷹山は、上杉神社に合祀されていた。
- 明治35年(1902年)、上杉神社が別格官幣社に列せられるに際し、上杉鷹山は米沢城二の丸世子御殿跡に設けた摂社「松岬神社」へ遷されることとなった。
- のち大正12年(1923年)には2代藩主の上杉景勝が松岬神社に合祀され、さらに後、米沢市制施行50周年にあたる昭和13年(1938年)には、直江兼続や、鷹山の師・細井平洲、鷹山の下で活躍した竹俣当綱・莅戸善政を合祀している。
重要文化財
関連項目
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