義元左文字

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義元左文字(よしもとさもんじ)  


義元左文字
無銘中心ニ「永禄三年五月十九日義元討捕刻彼所持刀織田尾張守信長」ト金象眼アリ
2尺2寸1分(69.0cm)
重要文化財
建勲神社所蔵(京都国立博物館寄託)

  • 享保名物帳所載(ヤケ)

    義元
    三好 左文字 磨上長二尺二寸一分半 無代 大坂御物
    宗三
    三好宗三所持、武田信虎へ遣さる、義元へ伝ふ、信長公の御手に入り彫付、表忠樋の内に「永禄三年五月十九日義元討捕刻彼所持刀」と裏平に「織田尾張守信長」と有之信長所持の時失る後ち秀頼公の御物となる家康公に遣はさる表裏樋有之

  • 表裏に棒樋、これは磨上後。鋩子は乱れこんで尖る。焼き直し後は鋩子は直ぐで小丸。中心目釘孔2個。
  • 差表に「永禄三年五月十九日 義元討捕刻彼所持刀」裏に「織田尾張守信長」と金象眼が入る。

左衛門尉安吉作  

  • 筑前隠岐の左衛門尉安吉の作という。
    義元佩用時に左文字の刀は2尺6寸あり、また今川家は足利将軍家の一族吉良氏の分家にあたる。将軍家から赦された輿を利用しての行軍であり、左文字も在銘刀であったとみて間違いない。
  • 左衛門尉安吉は、鎌倉時代から南北朝時代頃の刀工
  • 左文字源慶(さもんじ げんけい)。俗名は安吉で、通称を左衛門三郎、源慶は法名。父は実阿、祖父は西蓮国吉という。
  • 正宗に入門したと言われ正宗十哲の一人に数えられる。
  • 銘に「左」の一字を切るため「左文字」と呼ばれる。左文字派の祖となった。

由来  

  • 今川義元所持にちなむ。
  • なおその前に三好政長(隠居して半隠軒宗三と号す)が所持していたため、宗三左文字とも呼ばれる。
  • 別名「天下取りの刀」

来歴  

  • もとは三好政長が所有していたが、天文5年(1536年)7月武田晴信と三条氏の婚姻の時に引き出物として贈られ武田氏に。
    大永7年(1527年)2月、桂川原の戦いで細川晴元配下の三好政長は、管領細川高国の要請に応じて出兵していた若狭の武田元光を破っている。この時に味方しないよう信虎に贈ったものともされる。この後、堺公方府が誕生する。
  • 天文6年(1537年)2月、武田信虎の娘が今川義元に嫁した時に引き出物として送られ今川家に伝来。
  • 永禄3年(1560年)5月、今川義元が桶狭間で織田信長に急襲された時に帯びていたという。

    今度分捕に義元不断さゝれたる秘蔵之名誉の左文字の刀めし上られ何ヶ度もきらせられ信長不断さゝせられ(普段指させられ)候成
    (信長公記)

    義元の網代の輿を信長見て、敵の旗本疑なし、とて追たて/\戦れしかば、義元も返し合せて戦れしを、服部小平太鎗つけ、毛利新助其の首をとりたりけり。左文字の太刀松倉郷の刀を分捕にすといへり。
    (常山紀談)

    なおこの時同時に佩用していた郷は「松倉郷」と呼ばれる。「本阿弥光心押形集」には「越中国松倉郷」と銘を切っているのはこの1本だけであり、義元討死時の佩刀であろうとしている。幕末には加賀前田家に伝わっていたがその後不明。

  • 討ち取られた際に刀も分捕られ信長の手に渡る。信長は戦勝記念に2尺6寸あった刀身を2尺2寸1分まで4寸磨上げ、さらに金象嵌を入れ愛蔵した。

    永禄三年五月十九日 義元討捕刻彼所持刀 織田尾張守信長

    象嵌銘を入れた時期は不明。「尾張守」を称したのは永禄9年(1566年)頃とされる。

  • 本能寺の変の後、焼け跡から秀吉が見つけ所蔵。

    義元左文字 磨上無銘 但シ義元討捕、信長ノ所持銘アリ 二尺二寸三分(太閤刀絵図)

    枕席に侍っていた松尾社の神官の娘がこれを持って逃げ出し、父のもとに隠していたものを文禄になって秀吉に献上したともいう。

  • 秀頼に渡り、その後家康に贈っている。このことは、慶長六年(1601年)正月日付の「御太刀御腰物御脇指」に記載されている。

    よしもと左文字刀 大御所様被進(豊臣家御腰物帳

  • 徳川家では、世代が代わる際に継承の印としてこの太刀を引き継いでいったという。
  • 明暦3年(1657年)の振り袖火事(明暦の大火)で焼身となったが、越前康継に命じ再生させた。
  • 明治2年(1869年)、明治天皇が信長に建勲(たけいさお)の神号を贈り、東京と天童市に建勲神社が創建される。のち明治13年(1880年)9月に船岡山の地に東京から遷座した際、徳川宗家から信長ゆかりの「義元左文字」が建勲神社に奉納されたという。




信長以前の来歴について  

三条氏(三条の方、三条夫人)  

  • 武田晴信(後の信玄)の正室「三条の方」とは、転法輪三条家の三条公頼の娘である。
    転法輪三条家は、藤原北家の藤原師輔の十二男藤原公季の子孫三条実行を祖とする清華家(摂関家に次ぐ家柄)の一つで、極官は太政大臣。
  • 駿河国の今川氏の仲介で、天文5年(1536年)7月武田晴信に嫁す。
  • 「三条の方」の実妹が本願寺顕如の妻如春尼(六角定頼の猶子)、さらにこの姉妹にはもう一人姉がおり、細川晴元の正室となっている。信玄と顕如、管領細川晴元は義兄弟にあたる。
    顕如に嫁いだ妹だけがかなり齢が離れている。細川管領家、甲斐武田家、三条家を含め、この当時公家と守護大名間において幅広い交流があったものと思われる。
  • また三条公頼は天文5年(1536年)3月に信虎の嫡男晴信(信玄)の元服にあたり勅使として甲斐入りしており、この三条氏と細川氏武田氏の縁により左文字が贈られたと思われる。
    その後公頼は天文14年(1545年)には朝倉氏を頼って越前に下向するが3ヶ月で帰洛、天文20年(1551年)8月に周防の大内氏を頼るが、そこで陶晴賢の反乱(大寧寺の変)に巻き込まれ殺害されている。この時所持していた「鈴浪国綱」も行方が分からない。

細川晴元  

  • 細川晴元は、細川氏本家京兆家当主であり、実権を持っていた最後の管領とされる。
  • 宗三こと三好政長はこの細川晴元の側近で、本家である三好之長、さらにはその子の三好長慶との対立和睦を繰り返す。

年表  

  • 永正から元亀ごろまでで、これらの登場人物の関連する出来事を抜粋したもの。
年月できごと
1510年頃[永正7年]武田信虎、甲斐をほぼ統一する
1514年[永正11年]三条公頼、従三位権中納言に叙任
1517年[永正14年]三条公頼、正三位に叙せらる
1519年[永正16年]信虎、守護所を甲府に移す。後に躑躅ヶ崎館を築く
1521年[永正18年]足利義晴、将軍宣下を受け第11代将軍に
三条公頼、権大納言に任ぜらる
1525年[大永5年]実如の示寂(死)により、証如が本願寺第10世となる
1527年[大永7年3月]三好政長、堺に上陸し細川晴元を擁して堺公方府を誕生させる
1532年[享禄5年]細川晴元、本願寺証如に一向一揆の蜂起依頼
1533年[天文2年7月]本願寺の実力を恐れた晴元により山科本願寺が囲まれ、石山御坊を石山本願寺とし鎮座
1536年[天文5年]信虎、今川氏輝死後に発生した花倉の乱で善徳寺承芳(後の今川義元)を支援
1536年[天文5年3月]信虎嫡男晴信(信玄)の元服にあたり、三条公頼が勅使として甲斐入りする
1536年[天文5年7月]三条公頼の次女が武田信虎の嫡男晴信(信玄)の元へ輿入れする
1537年[天文6年2月]武田信虎の長女(定恵院、信玄の同母姉)が今川義元の正室となり、甲駿同盟成る
1537年[天文6年4月]細川晴元、三条公頼の娘を正室に迎える
1538年[天文7年]三条公頼、右近衛大将を兼ねる
1539年[天文8年]三条公頼、左近衛大将に転ず
1541年[天文10年6月]武田晴信による父信虎追放
三条公頼、内大臣に任ず
1543年[天文12年6月]武田信虎、上洛し京都南方、奈良、高野山を遊覧。8月15日駿河着
三条公頼、右大臣に任ず
1544年[天文13年5月]三好政長が隠居して宗三を号する ※天文11年頃とも
1546年[天文15年12月]足利義輝、元服し将軍宣下を受け第12代将軍に
三条公頼、左大臣に任ず
1547年[天文16年]三条公頼、従一位に昇叙
1549年[天文18年6月]三好政長が江口の戦いで討死
1550年[天文19年]今川義元室の定恵院が死去
1554年[天文23年]証如の示寂(死)により、顕如が本願寺第11世となる
1557年[弘治3年4月]如春尼、六角義賢の猶子、細川晴元の猶子となって14歳で顕如と結婚
1560年[永禄3年5月]織田信長が桶狭間にて今川義元を破る
1560年[永禄3年]武田信虎、菊亭晴季に末女を嫁がせる
1564年[永禄7年5月]三好長慶病死
1565年[永禄8年5月]松永弾正と三好三人衆、足利義輝を殺害
1567年[永禄10年]信長、美濃稲葉山城を攻略
1568年[永禄11年]武田氏による駿河今川両国への侵攻開始
1570年[元亀元年織田と本願寺との石山戦争始まる
1573年[元亀4年4月]信玄、西上作戦の途上で病没

宗三左文字と義元左文字  

  • この流れを見ると、三好政長が宗三を号する前に三条氏の娘が武田氏に嫁いでおり、さらに武田氏の娘が今川氏に嫁ぐのもそれより前となる。
  • 宗三左文字」の政長(宗三)-信虎-義元-信長という伝来が正しいとすれば、少なくとも今川家に伝わった頃までは単に「左文字」の刀と呼ばれていたのではないかと考えられる。
  • その後、織田信長が分捕った時にはすでに三好宗三が死んで10年経っており、今川家において「元々は宗三が持っていた左文字」だと呼ばれていたものが、その後信長の手に渡り銘を入れたことにより「義元左文字」と呼ばれるようになっていったのではないだろうか。