稲葉志津


※当サイトのスクリーンショットを取った上で、まとめサイト、ブログ、TwitterなどのSNSに上げる方がおられますが、ご遠慮ください。

 稲葉志津(いなばしづ)

短刀
朱銘 志津 光徳(花押)
長25.3cm
重要文化財
個人蔵

  • 享保名物帳所載

    稲葉志津 長八寸三分半 代三千貫 松平筑前守殿
    稲葉蔵人所持、忠表に志津、裏に光徳朱判、元和元年の究め、家康公へ上る、浅野紀伊守殿拝領、又上る、黒田筑前守拝領。

  • 平造、三ッ棟、先僅かに内反り。
  • なかごは生ぶ、側肉付き、先は栗尻、鑢目不明、目釘孔1個。
  • 銘は鏨痕と思われるがつまびらかではなく、本阿弥光徳による志津の極みと名判が書かれている。朱銘は現状ほとんど剥落している。
Table of Contents

 由来

  • 美濃清水城主稲葉一鉄の孫、稲葉蔵人道通の所用にちなむ。

 来歴

 稲葉家

  • 稲葉蔵人道通は、稲葉一鉄の長男である稲葉重通の四男。父の稲葉重通は春日局の養父。
    お福(春日局)の最初の婿である稲葉正成は、稲葉重通の娘を娶り養子となったが先立たれたために重通の姪(一鉄の娘が斎藤利三に嫁ぎ、その娘が福)であるお福と再婚した。

 家康

  • 稲葉家から家康に献上される。

 浅野幸長・将軍家

  • その後、初代紀伊藩主の浅野幸長(よしなが)に下賜される。
  • 幸長の死後、慶長18年(1613年)に再び将軍家に献上されるというが、時期が不明。遺物献上は藤四郎吉光の短刀。

    (慶長18年8月)廿五日紀伊國領主淺野紀伊守幸長卒す。歳三十八。

    (慶長18年10月)十八日此日淺野但馬守長晟をめして。兄紀伊守幸長が遺領紀伊國を一圓に給ふ。これ幸長家つぐべき男子なきがゆへなり。(徳川実紀)

    (慶長18年12月)八日黄昏に及びて淺野紀伊守幸長が遺物玉堂肩衝の茶入。古銅の花瓶。吉光の脇差を獻ず。

    浅野幸長が没したのは慶長18年8月25日。本阿弥家の留帳によれば、浅野家から献上されたのは慶長18年であるとする。それによれば「癸丑(慶長18年)十二月廿五日 浅野紀伊守遺物ニ上ル」と記録されているという。ただし実紀を見る限り、12月25日前後に浅野長晟は拝謁していない。

 黒田家

  • この後、筑前福岡藩黒田家に移るが、「黒田御家御重宝故実」によれば二説あるという。

    稲葉志津 八寸三歩代金五十枚
      此御脇指両説あり
     一説に在京三木大文字屋両家申伝、則重御腰物、志津御脇指ハ慶長五年六月六日大坂ニ而、長政公 家康公御養女保科弾正忠直卿息女大涼院之御事家康公御姪也 御婚礼西御丸ヨリ御輿を被出、此時御祝儀として両腰御拝領なり、右の節三木了清(三木権太夫)、大文字屋養清両人京都万事之御用相勤、両人江被仰付候ハ今渡御祝儀として家康ヨリ御拝領被成候、則重御腰物、志津御脇指、御注文之通早々袋を織セ可申候、文字ハ本阿弥ニ書セ候而織可申由被仰越仕立上候由、養清子宗清記置候由なり、今ニ有之志津袋いかにも其頃之織物と相見文字も本阿弥と見へ候、此説を用い同本ヨリ別之条々可記之
     又一説、元和元年三月大坂陣之時、忠之公十四歳筑前ヨリ人数を卒シて上り給ふ、御下知ニ依て兵庫に御待合セ、大坂已ニ落城す、人数ハ同所ヨリ筑前江御返し大坂江御上り也、此時家康秀忠公御上洛、二条之御城ニおハシまシたる、この御在京中、忠之公御幼年ながら馬をよく乗り給ふ由聞召れ、上覧有へき由ニて、青毛之御馬を出さる、馬上之容儀正ク、進退迅速自由に乗りすまし給ひたるを、兩御所甚御感あり、家康公忠之公を近つけ手を御取、不料御称美有之、御手つから御脇指を被遣候、右之御馬をも被遣候、志津ニ而候様承候由、斎藤宗徳申レ、右両説いつれにても御拝領之儀ハ無礼
    (黒田御家御重宝故実)

  • つまり、「稲葉志津」の伝来時期は次の二説になる。
  1. 【慶長5年(1600年)】:京都の蔵元大文字屋養清の子宗清
  2. 【元和元年(1615年)】:斎藤宗徳
  • 【慶長5年(1600年)】説
    • 慶長5年(1600年)6月に黒田長政が家康養女栄姫と縁組の際に、この志津と則重の刀を引き出物として下賜される。喜んだ長政は、京都の御用商人三木了清と大文字屋養清の両名に命じて刀袋を織らせている。この「稲葉志津」の文字は本阿弥光徳に書かせたものという。この事は京都の蔵元大文字屋養清の子宗清が覚えていたという。
    • 寛政重脩諸家譜でも、こちらの説となっている。

      五年六月六日東照宮の御養女を長政に嫁せしめらる。このとき則重の御刀稲葉志津の御小脇指をたまふ。
      (寛政重脩諸家譜 長政項)

      長政が刀袋を織らせたという京都の豪商・三木了清の父・三木孫右衛門清閑は黒田孝高の妹・香山妙春を娶っており義兄弟の間柄である。また三木了清の子が三木権太夫で、「烏丸藤四郎」、「北野肩衝」、「吉備大臣入唐絵巻」などの名物を所持した。

  • 【元和元年(1615年)】説
    • 大坂夏の陣の元和元年(1615年)3月、黒田忠之は14歳ながら筑前福岡から国許の兵を率いて兵庫に陣を張るが、大坂城攻めには間に合わなかった。
    • 戦後兵を国許へ返し、家康・秀忠がいる京都へ移動する。家康秀忠両人の前で乗馬を台覧に供するという栄誉に浴し、その際に見事な手綱さばきを披露した褒美として青毛の馬と「御脇指」を拝領したという。これが本刀稲葉志津であるという。
    • 寛政重脩諸家譜では、この時は則国を拝領となっている。

      元和元年の役にも從ひたてまつる。このとし京師にをいて兩御所馬場乗を台覧ありて馬をたまひ、かつ東照宮の御前近くめされ、則國の御脇指を賞賜せらる。
      (寛政重脩諸家譜 忠之項)

  • 浅野家より献上の時期を考慮すると、稲葉志津が黒田家に来たのは後者の説ということになる。つまり、長政ではなく忠之の代である慶長19年(1614年)~20年(1615年)に黒田家に伝来したというのが正しいと思われる。
    あるいは、2代忠之の正室に久松松平家松平忠良の娘久姫(ひさひめ)が2代将軍徳川秀忠の養女として嫁いでいる。この時に引き出物として贈られた可能性もある。久姫は慶長11年(1606年)生まれ、寛永5年(1628年)没。

 黒田家代々

  • その後は黒田家で代々伝来した。
  • 元和7年(1621年)調べの将軍家腰物帳には「志津百枚 小 黒田筑前被下」とある。
  • 天和元年(1681年)3月黒田家が再度鑑定に出したのに対して、三千貫の折紙を出している。
  • 昭和9年(1934年)に重要美術品認定

    短刀 朱銘志津(名物稲葉志津) 本阿花押 侯爵黒田長成
    (文部省告示第三百五號)

  • 昭和14年(1939年)5月27日に旧国宝の指定を受ける。現在重要文化財指定。

    短刀 朱銘志津 光徳(花押)
    東京府東京市侯爵黒田長成

  • その後、売りに出された。
  • 昭和36年(1961年)の時点では岡島千代氏藏。「正宗とその一門」日本美術刀剣保存協会


 栄姫(えいひめ)

  • 信濃国高遠城主保科正直の娘として誕生。母は久松俊勝の娘・多劫姫で、多劫姫の母は家康の実母・於大の方であるため、栄姫は家康の姪にあたる。
                               織田長益娘
          松平忠正(櫻井松平)             ├──┬松平忠重【掛川藩初代藩主】
           ├───松平家広【初代武州松山藩主】━━松平忠頼 └松平忠勝(徳川頼宣家臣)
           │
           │松平忠吉 ┌松平忠頼(→櫻井松平養子)
           │ ├───┴松平信吉【土浦藩主】
           │ │                      ┌亀子姫(池田輝興正室)
           │ │ 保科正直──保科正光━━保科正之     ├徳姫(榊原忠次正室)
    久松俊勝   │ │  ├───┬保科正貞【上総飯野藩主】   ├黒田高政(東蓮寺藩藩祖)
      ├───多劫姫(長元院)  ├北条氏重【遠江掛川藩主】   ├黒田長興(秋月藩藩祖)
    於大の方            ├大涼院栄姫(黒田長政継室)──┴黒田忠之(福岡藩2代藩主)
      ├───徳川家康      ├清元院(安部信盛室)
    松平広忠            ├貞松院(小出吉英室)──────小出吉重、保科正英
                    └高運院(加藤明成室)
    
  • 慶長5年(1600年)6月6日、伯父である徳川家康の養女として黒田長政に嫁いだ。
    このため長政は、最初の正室である蜂須賀正勝の娘糸姫を関ヶ原の戦いの直前に離縁している。結果、江戸時代中期までの黒田家と蜂須賀家の127年に渡る「不通大名」のきっかけとなった。
  • 関ヶ原の戦いの前、西軍による東軍妻女人質計画があった際に、黒田家家臣栗山利安・母里太兵衛・宮崎助太夫が働きを見せ、大坂天満の黒田屋敷から脱して長政の領国である豊前国中津まで船で逃れている。
    関ヶ原に向け、家康が秀頼の命を受けた形で大坂城から上杉征伐に出陣したのは6月16日。毛利輝元の大坂城入城が7月17日、この後に東軍妻女を人質に取っている。まさに天下分け目の戦いの直前に婚儀を行ったことがわかる。
  • 長政との間には嫡子忠之(福岡藩2代藩主)・長興(秋月藩藩祖)・高政(東蓮寺藩藩祖)・徳姫(榊原忠次正室)・亀子姫(池田輝興正室)の三男二女を儲けた。
    栄姫の生母多劫姫も子に恵まれ、初め桜井松平家松平忠正に嫁ぎ、家広を産み、天正5年(1577年)に夫が死去したため、弟忠吉に再嫁して二子(松平信吉、松平忠頼)を儲ける。天正10年(1582年)に夫忠吉が死去した後、天正12年(1584年)には甲斐武田氏の家臣で先方衆の保科正直に再々嫁する。正直との間に保科正貞(上総飯野藩主)、北条氏重(遠江掛川藩主など。大岡越前忠相の外祖父)、大涼院栄姫(黒田長政継室)、清元院(安部信盛室)、貞松院(小出吉英室)、高運院(加藤明成室)の二男四女を儲けた。
  • 栄姫は養父家康を祀る日光東照宮に大名の正室としては唯一、燈籠一対『栄姫灯篭』を奉納。上神庫の前にある。
  • 異母兄の保科正光は、下総多胡藩主から信濃高遠藩の初代藩主となる。養子とした保科正之(秀忠実子。生母は浄光院静)は陸奥会津藩初代藩主となった

 関連項目


Amazonプライム会員無料体験