鳥取池田家の江戸藩邸


 鳥取藩池田家の江戸藩邸

  • 鳥取藩池田家の江戸屋敷の成り立ちと贈答品のまとめ。
Table of Contents

 概要

  • 鳥取藩は池田恒興の三男・長吉(池田輝政の弟)が6万石で入封し立藩。その跡を継いだ子の長幸は元和元年(1615年)に備中松山藩へ転封し、代わって池田宗家の光政(輝政の子・利隆の嫡男)が幼少を理由に播磨姫路42万石から因幡・伯耆32万石に国替となった。光政は在封16年の間に鳥取城下町の基盤を整備した。
  • 寛永9年(1632年)、備前岡山藩主池田忠雄(光政の叔父)が死去すると、家督を継いだ嫡男・池田光仲の幼少を理由に鳥取の池田光政と封地を取り替え、池田宗家の池田光政が備前31万5,000石、分家筋の池田光仲が因幡・伯耆32万5,000石を治めることとなった。いわゆる岡山との「お国替え」である。
    • 下記でも「お国替え当初より」という言葉が頻出する。
  • 以降の鳥取藩池田家は分家筋ではあるが、輝政と徳川家康の二女督姫の間に生まれた池田忠雄の家系であるため、宗家の岡山藩池田家から独立した国持大名とされ、松平姓を称する上、外様大名ながら葵紋を下賜されて親藩に準ずる家格を与えられた。※江戸城中での伺候席も、加賀前田家などと同じ「大廊下-下」であった。
  • また、通常ならば大名が江戸城に登城する際は刀を玄関前で家来に預けなくてはならなかったが、鳥取池田家は玄関の式台まで刀を持ち込むことが許された。これは鳥取池田家の他には御連枝や会津松平家、越前松平家の一門といった徳川一門の親藩と加賀前田家のみに許された特権であった。
  • 幕末の12代藩主慶徳は15代将軍となる徳川慶喜の同年の兄であったため、敬幕・尊王という微妙な立場をとった。文久4年(1864年)の禁門の変で親しい関係にあった長州藩が敗戦し朝敵となると、これと距離を置くようになるが明治元年(1868年)の鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争では新政府方につき、志願農兵隊山国隊などを率いて転戦した。
  • 国替え当初より、下記の藩邸を与えられていた。
  1. 上屋敷:鍛冶橋内
  2. 中屋敷:八丁堀
  3. 下屋敷:芝金杉
  4. 御抱屋敷:青山穏田
  5. 町並屋敷:芝金杉
    町並屋敷(町並地)とは、土地(年貢)支配は代官所等に置いたまま、人の支配を町奉行に移管した両属的な場所。
  • また天明3年(1783年)時点では次のような概要となっていた。※八丁堀中屋敷は正徳3年(1713年)に譲渡
  1. 上屋敷:鍛冶橋内 九千四百七拾九坪余
  2. 下屋敷:芝金杉 壱萬四千六百四拾九坪
  3. 下屋敷:品川領戸越村 壱万坪
  4. 御抱屋敷:青山穏田 四千参百壱拾弐坪
  5. 町屋敷:芝金杉 弐百五拾七坪余
  • 文政2年(1819年)時点。
  1. 上屋敷:鍛冶橋内 壱萬九百七拾九坪
  2. 下屋敷:芝金杉 壱萬五千壱百四拾九坪
  3. 下屋敷:品川領戸越村 九千五百坪
  4. 町並屋敷:芝金杉 弐百五拾五坪
  5. 永御預地:芝金杉下屋敷北地続 八百三十坪余
  6. 町屋敷:芝金杉裏壱丁目 弐百拾九坪余
  7. 抱屋敷:渋谷村上豊沢村 二万二千七百六十九坪
  8. 町並屋敷:一万三千二百二十四坪
  9. 町並屋敷:二万二千八百十八坪余
  • 慶応3年(1867年)末時点。

    文化以後拝領屋敷、並に御抱屋敷ともに、変動多く上屋敷及御添屋敷は坪数増加し、新たに浜町中屋敷の加わる有りしも、御縁故深き芝金杉下屋敷は、海岸防御の為め幕府に返納せられ、一時大崎に下屋敷有りしも、是又返納となれり。文化・文政の頃、洲崎及渋谷に宏大なる御抱屋敷有りしも、他に譲渡せられしか、青山に於て御抱屋敷出来し、慶應三年末に於ける御屋敷は、実に左の如し。

  1. 八代洲河岸上屋敷:一万三千五百七十六坪余
  2. 八代洲河岸添屋敷:二千百二十七坪余
  3. 浜町中屋敷:五千三百二十四坪余
  4. 青山抱屋敷:二万三千三百十五坪

 歴代藩主

          細川忠興──細川忠利【肥後熊本藩】
                  ├──細川光尚
                ┌千代姫
          小笠原秀政 ├小笠原忠真【豊前小倉藩】
             ├──┴万姫
     ┌松平信康──登久姫  ├──┬蜂須賀忠英【阿波徳島藩】
     │        蜂須賀至鎮 └三保姫
徳川家康─┴──督姫            ├───池田光仲【因州鳥取藩】
         ├──┬─池田忠継━━池田忠雄   ├───┬池田綱清
         │  ├─池田忠雄         │   └池田仲澄──池田吉泰
         │  └─振姫     徳川頼宣─┬茶々姫
池田恒興     │     │     【紀州家】└徳川光貞─┬綱教
  ├───┬─池田輝政  伊達忠宗              └徳川吉宗
 善応院  │  │
      │  ├────池田利隆──池田光政【備前岡山藩、池田宗家】
      │ 福正院    本多忠刻  ├──池田綱政──池田継政
      │          ├──勝姫         ├───池田宗政
      │    徳川秀忠─千姫      伊達吉村─心定院和子   ├───池田治政
      │                              │
      └─池田長吉──池田長幸           黒田継高──宝源院藤子
         【備中松山藩】

  1. 池田光仲
  2. 池田綱清
  3. 池田吉泰
  4. 池田宗泰
  5. 池田重寛
  6. 池田治道
  7. 池田斉邦
  8. 池田斉稷
  9. 池田斉訓
  10. 池田慶行
  11. 池田慶栄
  12. 池田慶徳

 鍛冶橋上屋敷(八代洲河岸上屋敷)

鍛冶橋内
一万九百七十九坪

  • 国替え当初に拝領していた屋敷地。

    上屋敷鍛冶橋之内 一万九百七十九坪
      内
    五百坪は、宝暦六年十二月松平伊勢守殿、林百助殿と、芝金杉下屋敷三方切坪相対替、代地上屋敷続に付、一所に囲置候。
    一千五百坪は居屋敷手狭に付、大名小路松平伯耆守様御上屋敷、三千六百四十七坪余之内、千五百坪為添地、文化十年三月被下置候。

  • 当初は「鍛冶橋内上屋敷」とされていたが、のち「八代州(八代洲)河岸上屋敷」と呼ばれるようになった。
  • 相当変動があり、周囲を取り込むことで最終的に明治期に献邸する際に13576坪となっていた。

    八代州河岸御上屋敷及向屋敷、鍛冶橋内に在るを以て、鍛冶橋内御上屋敷とも云えるも、普通八代州河岸御上屋敷の名を以て知らる。天保以降一構となりしも、初めは隣家合壁有り。元福島正則屋敷なりしを、元和七年三月忠雄公拝領せられ、愛宕下より御移有りしと云う。其頃西には町家あり、背後には織田丹後守・杉原伯耆守の屋敷有りて、未た独立せる一区画をなさず。
    明暦大火の後、西方の町家は取払われ、合壁の諸侯にも変動あり、天和三年頃には細川宗仙・織田左門・青山和泉守の三家を同構内に見る。然るに其後細川屋敷は、水野と云える旗本と交替せしものと見え、正徳三年八丁堀御用屋敷を、水野源左衛門に与え、跡屋敷を合併せらる。当時織田屋敷は火消与力屋敷となり居たり。外に五百坪程御旗本屋敷・火消屋敷に続き居たりしか如し。左れは西北隣の火消屋敷と、旗本屋敷及東北の一区、青山屋敷とを残し、他は悉く御上屋敷となれり。

    • 元は福島正則の屋敷地。元和7年(1621年)3月に池田忠雄が拝領。愛宕下から移ったという。その頃は西に町家があり、背後には織田丹後守・杉原伯耆守の屋敷があったという。
    • 明暦の大火の後に西方の町家が取り払われた。また天和3年(1683年)頃には細川宗仙(医師・細川元隆)・織田左門(有楽斎の子・織田頼長?)・青山和泉守の三家が屋敷を構えていたという。細川屋敷は水野という旗本に代わり、その水野の屋敷地を、八丁堀屋敷と交換して上屋敷地を拡大した。また織田左門屋敷は火消与力屋敷となったが、後に西北隣の火消屋敷と、旗本屋敷及東北の一区、青山屋敷を残して悉く上屋敷になったのだという。

宝暦六年十二月芝金杉下屋敷の内、五百坪を松平三治に、松平三治の久保町屋敷の内、五百坪を林百助に与え、林百助の居たる火消屋敷続きの五百坪を合併せらる。青山家はその後松平大隅守宮津城主と交替し、文政元年斉衆組御養子之際、松平伯耆守屋敷上地と成り、其内千五百坪を御添地として、御上屋敷に加えられ、他は堀内内蔵頭屋敷となれり。泰姫君御入輿の為め天保五年堀内内蔵頭二千百四十七坪余並火消与力屋敷二千五百坪御添地となり、此処に全く独立の一構となりき。同時に向屋敷千五百坪拝領添となり、品川戸越の御下屋敷は、上地となれり。三千五百坪
(略)
此くの如く、上屋敷は数度の拡張有り、宝暦六年前の坪数八千九百七十九坪なりしか、一構となりて、坪数一万三千五百七十六坪となれり。明治の代となりて、兵部省御用として御借上となりしか、同三年六月十二日更に献邸の出願有り。翌日太政官より献納を許可せらる。

  • 宝暦6年(1756年)12月、芝金杉下屋敷のうち、五百坪を(芝金杉下屋敷の五百坪と)三方相対替で上屋敷に組み入れた。
  • 青山家は「松平大隅守」(※宮津藩2代藩主松平資尹?、あるいは4代藩主松平宗允?)と屋敷地交換していたが、文化14年(1817年)に池田斉衆(家斉の十三男)が養子入りした際に「松平伯耆守」屋敷が上地となり、そのうち1500坪を添地として上屋敷に加えられた。
    ※ただし池田斉衆は早世したため前9代藩主・斉稷の次男・斉訓が9代藩主となった。「松平伯耆守」は宮津藩5代藩主の松平宗発?あるいは6代宗秀あるいは7代宗武
  • さらに家斉の二十七女・泰姫(泰明院。12代家慶の異母妹)が、天保2年(1831年)9月に池田誠之進(後の9代斉訓)と縁組し(輿入れは天保11年12月)した際、天保5年(1834年)に堀内内蔵頭屋敷地2147坪余と火消与力屋敷2500坪が添地として加えられた。
  • 整理
  1. 元和7年(1621年)3月に池田忠雄が拝領 ※元は福島正則の屋敷地
  2. 正徳3年(1713年)、上屋敷を拡張するため八丁堀の中屋敷は水野源左衛門と交換した。※元は細川宗仙屋敷
  • ↑ここまでで8979坪(「宝暦六年前の坪数八千九百七十九坪」)
  1. 宝暦6年(1756年)12月、500坪を松平伊勢守及び林百助と芝金杉下屋敷三方切坪相対替で入手。
  2. 文政元年(1818年)斉衆が養子となる際に、宮津藩松平伯耆守の大名小路屋敷が上地となり、うち1500坪添地 ※もとは青山和泉守
  • ↑ここまでで10979坪(うち添地1500)。※上記でのこの表記はこの文政元年(1818年)までの屋敷地面積ということになる。
  1. 天保2年(1831年)泰姫入輿の際にその上地(松平伯耆守)となった残りの2147坪+火消屋敷2500坪が添地
  • ここまでで15626坪(うち添地6147=1500+2147+2500)。ただし慶応3年(1867年)時点という「一構となりて、坪数一万三千五百七十六坪となれり」(13576)と比べると2050坪多く、数が合わない。
    • この変動は、まず安政2年(1855年)12月28日に上大崎下屋敷を御台場陣地として上地の際に、添屋敷に隣地3702坪余を加えられ合計5202坪余となった。※この時点で添地が1500坪しかなかった話になっている。
    • しかし文久元年(1861年)10月21日に2065坪余(※芝金杉下屋敷が海岸線防御のため上地となったのを再拝領分)、さらに文久2年(1862年)3月24日1000坪(※ただし代償として関口目白台に千坪拝領)を上地したため、残坪数は2137坪余となったためであるとする。しかしこれでも計算が合わない。
  • 明治後に兵部省御用地となるが、明治3年(1870年)6月12日に献邸を申し出て、翌日献納許可。
    • ※結局、献邸時点では13576坪だと思われる。
  • 明治3年(1870年)閏10月15日、官邸造営のため出願せられ、隣接地和歌山藩邸2198坪+徳大寺大納言邸の内466坪を合わせて計4801坪余に拡張して官邸を造営した。
  • 明治4年(1871年)廃藩置県後に上地返納となった。
    鳥取藩最後の藩主である池田慶徳は、徳川斉昭の五男・五郎麿(庶子)として生まれた。徳川慶喜は同年生まれの異母弟、備前岡山藩主池田茂政は同母弟にあたる。
     嘉永3年10月29日(1850年12月2日)、鳥取藩主池田慶栄が嗣子なくして急死したことから、幕命によりその養子となる。開国を迫る幕府に対して攘夷論者として活動するも、八月十八日の政変後に薩摩の島津久光や越前の松平春嶽ら開明派諸侯が再び上洛に動き出すと、これに対抗しえないと見た慶徳ら在洛諸侯は相次いで帰国し、その後中央政界に戻ることはなかった。
     維新後の新政府で議定に就任し、従二位権中納言に叙位され、麝香間祗候となる。版籍奉還により鳥取藩知事に就任するも、財政難などもあり、知藩事の立場にありながら廃藩置県を自ら明治政府に提案。廃藩置県により知藩事を免職となり、隠居して次男の輝知に家督を譲った。
  • 現在の帝劇ビルあたり

 洲崎御屋敷

  • 洲崎弁財天の続き、東の海手にあった。平井新田の内だという。
  • 文化12年(1815年)9月8日深川平井新田・鯉屋利兵衛よりお買い上げが13224坪。
  • 文政2年(1819年)閏4月5日、成瀬隼人正より譲渡されたものが22818坪余。
  • 合わせて、36042坪あったという。
  • 鴨堀が多く猟を行ったという。
  • 利兵衛お買い上げ分は、文政11年(1828年)2月3日に6000坪、天保2年(1831年)4月26日に残余を、林肥後守(上総請西藩の林忠英?)へ譲渡した。
    ※林忠英は、家斉の寵臣で若年寄まで進み上総貝淵藩の初代藩主となった。
  • また成瀬隼人正譲渡分は、文久元年(1861年)11月11日に久世大和守に2700両で譲渡。

 八丁堀中屋敷

  • 詳細不明とする。
  • 江戸御定中宝永二年九月に「八丁堀御屋敷辻番云々」と記載があるため、存在したのは確かだという。
  • 正徳3年(1713年)上屋敷拡張の際に旗本水野源左衛門に譲渡となった。

 浜町中屋敷

五千三百二十四坪余

  • 天保10年(1839年)12月28日、浜町新大橋際、水野壱岐守上地1824坪を拝領。
  • 天保13年(1842年)5月9日中屋敷とする。
  • 出火の際に、泰姫立避けの地となったという。
  • 安政4年(1857年)1月19日、隣接地3500坪を酒井修理太夫より借受立にて内金3500両にて買い上げ。
  • 慶応3年(1867年)7月、屋敷相対替の許可があり、差し加えとなり、5324坪となった。
  • 明治3年(1870年)10月10日届け出で私邸とした。
  • 宝隆院(因幡鹿奴藩8代池田仲律の次女・聡姫。宗家・池田慶栄室)が一時居住したという。

 芝金杉下屋敷

芝金杉
一万五千百四十九坪

  • これも国替え当初に拝領していた屋敷地。

    拝領 下屋敷 芝金杉 一万五千百四十九坪
      内
    五百坪は、文化六年十月松平但馬守殿と、品川領戸越村下屋敷、切坪相対替、代地芝金杉下屋敷地続に付一所に囲置候。

  • 池田光仲の代に海地を拝領して埋め立てたという。当時は、三面を海に面していたという。
  • 藩公隠居後や部屋住み時代の住居で、大夫人、公子女がここで暮らした。
  • 宝暦6年(1756年)12月にうち500坪を松平三治に譲渡。
  • 文化4年(1807年)2月金杉川端寄洲830坪が永御預地となる。
  • 文化6年(1809年)10月、先に譲渡されていた500坪を復旧。
  • 天保11年(1840年)8月、永御預地830坪と海手寄洲459坪とを差し加えされ1289坪が増加。
  • 付属町並屋敷などを加えると17500坪となった。
  • 嘉永6年(1853年)8月28日に海岸防禦筋御用として献納させられ、代地として大崎村松平出羽守下屋敷14982坪余を拝領する。もとは松平不昧の別業だという。
    嘉永6年(1853年)6月3日、鳥取藩「江戸御留守居日記」には、「北アメリカ舩四艘浦賀表へ渡来の由」としてペリー艦隊の来航を記している。幕府は6月6日、芝から品川方面に屋敷を拝領している大名に対して、屋敷の警備を行うよう通達している。鳥取藩では同年6月5日に出兵命令を察知したため、芝金杉下屋敷に派兵を行った。江戸留守居役の岡部善右衛門と賀美隼人を隔日交替とし、番頭以下301名、大砲5門、銃60挺を配備した。しかし12日にペリー艦隊が江戸湾を退去したため14日付けで下屋敷の臨時警備は解除された。8月28日に上地され、その後は第二台場を警戒する会津藩の陣屋となった。
  • 文久元年(1861年)8月27日に大崎下屋敷は御用上地となり、12月引き渡し完了。
  • 同年10月21日に芝金杉下屋敷代地も合わせて拝領。
  • 文久3年(1863年)11月4日に海岸線防騎手当困難のため返納。

 芝金杉町並屋敷

芝金杉三丁目
町奉行所支配

  • これも国替え当初に取得していた屋敷地。

    町並屋敷
    芝金杉三丁目。町御奉行所。大貫次右衛門様御代官所。表間口二十四間二尺五寸。裏行南側にて十間二尺。北側にて九間五尺二寸。惣坪数弐百五拾五坪坪

 大崎下屋敷

  • 嘉永6年(1853年)8月28日に海岸防御筋御用として、芝金杉下屋敷を献納させられた際に、代地として大崎村松平出羽守下屋敷14982坪余を拝領した。
  • 安政元年(1854年)12月から品川御殿山下台場の陣屋となるが、その後文久元年(1861年)8月27日に大崎下屋敷は御用上地となり、12月引き渡し完了。

 品川戸越下屋敷

拝領 下屋敷 品川戸越村 九千五百坪

  • 安永2年(1773年)12月15日、品川戸越村曽根隼之助の上地、壱万坪を拝領。
  • 文化6年(1809年)10月9日500坪を松平但馬守に譲渡。
  • 文政10年(1827年)閏6月20日御用により上地となるも、内3500坪は当分預かりとなり同年9月6日下屋敷に拝領。
  • 天保5年(1834年)8月6日八代洲河岸上屋敷添地拝領の際に上地となった。

 渋谷村屋敷

  • 位置や坪数不明。
  • 文政2年(1819年)幕府の屋敷改の書上に記載があるという。
  • 文化4年(1807年)4月22日、池田将監より譲渡。22700余坪の広大な敷地だったという。
  • 竹木繁茂し、ところどころ鴨堀があり、藩公がたびたび鷹狩をしたという。
  • 文政4年(1821年)12月23日旗本冨安九八郎へ譲渡。

 青山穏田屋敷(渋谷屋敷)

  • もとは紀州家の屋敷で、芳心院(不明。家光側室・琴か)が拝領したもので、当時は結構な御殿があったという。
  • 延宝3年(1675年)5月池田光仲の時にこの屋敷に入ったという記述があるという。
  • 敷坪4312坪。
  • 文化5年(1808年)に朽木兵庫助へ譲渡。

 青山抱屋敷

  • 敷坪23315坪。
  • 文久2年(1862年)3月12日亀井隠岐守より900両にて譲り受け。
  • うち原宿村17112坪は抱屋敷にてお役人足賃金付あり。他の6203坪はお抱地。

 関口目白台添屋敷

  • 文久2年(1862年)3月24日八代洲河岸屋敷添屋敷のうち千坪生愛知の代地として拝領。
  • 慶応3年(1867年)7月29日浜町中屋敷相対替の際に、松平大蔵少輔に譲渡となる。

 その他

 大坂蔵屋敷

  • 鳥取藩の大坂蔵屋敷は、土佐堀と堂島川の間、筑前橋と田蓑橋の間の、中之島宗是町(そうぜちょう。早川宗是が住んでいたためという)にあったという。

    宗是町もこゝに早川宗是と云ふ富豪がゐたと伝へられる。後これが鳥取藩の蔵屋敷となり古い時代には米子町と云つて居つた。後宗是町と云つたのは早川宗是の名に因んでであつた。その家は田蓑橋橋詰の大体中央辺りであつて由緒ある家でその一部は明治以後も残り、大富豪平瀬家とも親類続きであつたと云あれる。有名な崇禅寺馬場の仇討の生田伝八郎の子孫とも云はれてゐる。とにかく早川氏の名を取つた位であるから、相当この土地に由緒の深かつた人と思ふ。この宗是町は大体町家も多かつたのであるが後には松平伯耆守、鳥取藩の蔵屋敷となつたのである。大ビルの敷地はこれに当る。鳥取藩蔵屋敷の名代としては倉橋屋庄兵衛の名が見えてゐる。町家はなかつた模様で一町一屋敷があつた事が明である。

    早川宗是は、大坂指折りの豪商である両替商千草屋(平瀬氏)の縁者ともいう。
    現在の大阪市北区中之島3丁目。関電ビルディングから中之島香雪美術館までの範囲ということになる。
  • 鳥取藩からだと大坂へは、陸路は51里、海路だと下関を回るため270里にもなるが、この海路を使って運ばれたという。雲州 三保関、雲津、加賀浦、鷺浦、宇龍浦。石州 湯津、浜田。長州 江崎、須佐浦、腰ケ浜、仙崎、肥中、下ノ関。防州 上の関。芸州 御手洗。備後 鞆津、小豆島、坂手浦。播州 室津。
階級役名
諸奉行留守居役
諸役人御目附
御蔵奉行
御積役
御徒御積助役
御留守居書紀下目附
御切手書御買使
御弓徒諸積所手伝
苗字付御道具作廻
無苗御水主番人
中仕頭
影見小中仕
  • 大阪留守居役は、各藩留守居との交渉、金主及び商人との折衝のような経済的外交のほか、蔵屋敷を管理した。格式は諸奉行で、役料百石を給せられこれを大坂料と呼んだ。通常1人だったが、文久年間になると京都留守居と大坂留守居を兼帯し、2人となったことがあった。

 伏見京都屋敷

  • 藩主が参勤交代の際に必ず伏見京都屋敷に立ち寄り着座した。
  • 屋敷の起源はよくわからないが、御国替よりも前から存在したという。初めは町並屋敷だったが、のち元禄6年(1693年)7月には諸役御免で拝領屋敷同様となった。
  • 御殿は、かつて良正院(督姫)の京都屋敷を移築したものだという。

 京都屋敷

  • 京都屋敷は中立売小路にある。これも伏見屋敷同様に起源はわからないが、藩主は伏見屋敷にのみ入り、京都屋敷には諸役人のみがいたという。
  • 文久以後には状況が一変し、池田慶徳が度々上京した。しかし文久2年(1862年)10月・12月、文久3年(1863年)正月・3月の入洛には北野天満社の梅松院に宿泊し、文久3年(1863年)6月には本国寺を本陣としたという。
  • 明治元年(1868年)8月に入京した際に、初めて油小路京都屋敷に入ったという。
  • 明治元年(1868年)11月、百々御所(宝鏡寺)を拝借し、普請の上で11月に移ったという。比丘尼御所の1つであったが明治2年(1869年)3月に明治天皇が東京に御幸した際に池田慶徳も供奉したため百々御所は返却したという。

 その他事項

 屋敷内長屋など

  • 家老長屋
  • 用人長屋
  • 番頭長屋:間数七間
  • 物頭長屋:間数五間
  • 勤役長屋:間数は定府八間、在番五間
  • 奏者長屋:間数四間半
  • 横目長屋:間数四間半
  • 留守居長屋:間数拾弐間
  • 吟味役長屋:間数三間
  • 馬持給人長屋:間数三間

 江戸詰

  • 江戸藩邸に勤仕するものを江戸詰という。
    • 江戸詰には無期限のものと有期限のものとがあり、無期限の者を定詰といい、有期の者を江戸詰という。
    • 定詰は定府ともいい、常に江戸に居住し、国を見ず終えるものも居た。なお事情により帰国を命じられる場合があるが、kろえを御国勝手と呼んだ。
    • 普通、江戸詰は1年で一期とするが、御徒以下には三年詰があった。新たに御徒に上がったものは必ず三年詰を経て諸役に登用された。詰一期以上にわたる者を詰延、あるいは詰越しと呼んだ。
  • 藩主が上府する際には、多数の藩士が扈従するが、これが1年以上になっても御供詰と呼び分ける。なお藩主が在府中の江戸藩邸諸役は、定詰、江戸詰、御供詰をもって組織され、それは御国御城の組織と同様である。ただし人数が足りないため兼務が多くなるという。

 江戸留守居

  • 池田光仲が幼年の頃、江戸留守居は必要なかった。しかし慶安元年(1648年)に参勤交代が始まった時に、この役が生じたという。
  • 承応元年(1652年)より寛文3年(1663年)まで、江戸留守居役は証人上および譜代番頭をもって交代勤務した。
  • 寛文4年(1664年)より天和3年(1683年)までは、着座中より務めた。
  • 貞享元年(1684年)より元禄3年(1690年)までは、証人上が交代勤務となった。
  • 元禄5年(1692年)以後、譜代番頭・香河内膳、十年間定詰留守居。
  • 宝永元年(1704年)より正徳4年(1714年)まで着座の内から選定。
  • 正徳4年(1714年)より享保7年(1722年)まで太田・山岡の両番頭が交替で務めた。
  • 享保8年(1723年)以後、着座中、留守居を務めることとなった。務めるものを江戸御留守家老とも呼び、番頭より務めるものを単に御留守と呼んだ。
  • のち、「御聞役」を御留守居と呼ぶに至って、他は御留守詰と称して区別したという。
階級役名
物頭御聞役
御留守居
諸奉行御留守居定加役
諸役人御城使
御徒御留守居書紀(御城使)
御弓徒諸作廻
御供役
苗字付諸作廻
下座見
無苗下奉行
諸作廻
  • 御留守居は本当は(藩内では)「御聞役」と呼んだという。寛文4年(1664年)8月に初出。
  • 留守居は失敗が許されないため定詰を採用することが多く、定詰留守居が御聞役を兼務することが多くあった。そのため御留守居とも御聞役とも呼んでいたが、定詰留守居を御用人と呼んだことから、を御留守居と呼ぶようになったのだという。
  • 宝暦前後より、「御留守居」といえば、御聞役を指すようになったという。
  • 延宝5年(1677年)以来、藩主が登城する際には御聞役は先に登城して御待請をしたといい、これは加賀藩と鳥取藩だけだという。
  • 諸侯の留守居間には組合(留守居組合。「留守居役」の項参照)があり、時に会合・交際をなした。

 大広間組合分裂

  • 安永4年(1775年)4月に島津公より席順につき主人(藩主)の官職順にすべきと提案があり、賛否両派に分かれた。
    1. 賛同:松平陸奥守、細川越中守、有馬中務大輔、松平大膳太夫、松平相模守
    2. 反対:伊達遠江守、佐竹右京太夫、松平土佐守、松平阿波守、藤堂和泉守、立花左近将監
    3. 在国で未返答:宗対馬守、松平筑前守
    4. 未決定で返答なし:上杉弾正大弼
    5. 在国で返答なし:松平肥前守
    6. 返答なし:松平越後守
  • のち上杉弾正大弼と松平越後守は、島津より同意があったと札が回ったという。
  • ※3以降の違いがよくわからないが、要するにどちらにも着かないということだろう。

 諸藩の大坂蔵屋敷

  • 江戸時代延享4年(1747年)には、89の諸藩の蔵屋敷があったが、うち36が中之島に置かれた。残りは堂島、天満、土佐堀、江戸堀にあった。
  • ※明治以後
  • 浜田藩蔵屋敷:通商司、中央公会堂西寄りの地
  • 長州藩 上田三郎兵衛屋敷:憲兵屯所、府立図書館の西部、豊国神社の東部
  • 宇和島藩蔵屋敷:大阪朝日新聞社
  • 福岡藩蔵屋敷:大阪倉庫株式会社(三井物産大阪支店、東神倉庫三井倉庫)
    • 明治16年(1883年)鴻池一族により大阪倉庫株式会社を設立。
  • 秋月藩蔵屋敷:大阪共立銀行、新大阪ホテル
  • 鳥取藩蔵屋敷:浪華倉庫、大阪ビルヂング(現、大ビル。ダイビル株式会社)
    • 元々は大阪商船が本社社屋新築のため、浪華倉庫の敷地2800坪を購入。
    • その後、大正12年(1923年)に大阪商船株式会社が主導役となり、宇治川電気株式会社(現、関西電力)と日本電力株式会社が共同出資して株式会社大阪ビルヂングが創立された。
    • 社屋・大坂ビルヂング(現、大ビル本館)は大正14年(1925年)に完成し営業を開始した。
  • 広島藩蔵屋敷:大阪医学校、大阪大学医学部
    • 明治2年(1869年)2月大阪久宝寺町の大福寺に文部省直轄の仮病院を開設。院長は緒方惟準。蘭医ボードウィン。
    • 明治3年(1870年)仮病院を大阪府に移管。府立病院および医学所となった。
    • 明治4年(1871年)文部省が再び大阪府立病院・大阪医学校を直轄とする。院長は高橋正純。蘭医はエルメレンス。
    • 明治5年(1872年)10月学制改革で大阪医学校および病院が廃止となってしまう。
    • 府下の有志が大阪府に請願して西本願寺掛所で仮病院の開設に着手。明治6年(1873年)2月に大阪府病院が開設。教授局を付設。
    • 明治12年(1879年)3月に大阪府病院は常安町に新築・移転となり、教授局も置かれた。※旧広島藩・今治藩の蔵屋敷跡
      この「常安町」は淀屋常安に由来するという。「闕所」の項を参照。
  • 明治13年(1880年)に教授局が府立大阪医学校と改称。明治21年(1888年)1月に大阪医学校と改められた。明治36年(1903年)19月に大阪府立高等医学校と改称。大正4年(1915年)10月府立大阪医科大学となった。
  • 正和6年(1317年)5月大阪帝国大学が設立され、大阪医科大学は医学部となり、理学部が創設された。
  • 昭和8年(1933年)3月大阪工業大学が加わり、大阪帝国大学工学部となった。
  • 大阪大学医学部の北側に「亀の松」と呼ばれる巨木があったが、その形がタコ(蛸)にニていたため「蛸の松」とも呼ばれた。これは慶長年間に広島藩主の福島正則が植えたものと伝えられ、浅野氏に代わった頃、毎年扶持米十石をあてて維持したという。明治期には大阪市が市費で維持していたが、明治44年(1911年)9月に枯折したという。これを薪として払い下げたが、二十八圓七十六銭であったという。
  • 久留米藩蔵屋敷:大阪師範学校(堂島小学校、大倉商業学校、大阪大学本部外)
  • 高松藩蔵屋敷:大阪高等工業学校、堂島米穀取引所正米部
  • 姫路藩蔵屋敷:大阪府収税部、大阪税務監督局、中之島税務署
  • 柳川藩蔵屋敷:住友倉庫、柳川倉庫
  • 丸亀藩蔵屋敷:第二盈進高等小学校、福島紡績株式会社
  • 熊本藩蔵屋敷:蓬莱社、大阪紙砂糖製造会社
    • 真島製紙所、下郷製紙所、中之島製紙株式会社
    • 明治8年(1875年)に蓬莱社(本来は商事会社)が製紙製糖工場を設立。これは明治6年(1873年)に蓬莱社が平野屋(百武)安兵衛より引き継いだ機械を元にした工場。その後転々としてこの機械は樺太へと移された。
      蓬莱社は、明治6年(1873年)2月に征韓論で下野した後藤象二郎を忠臣に、士族、島田組や鴻池組など関西商人、上杉・蜂須賀ら旧大名により設立された会社。金融・為替業および高島炭鉱経営の他、海運業、洋紙製紙業、近代的機械精糖業、神岡鉱山経営などと幅広く業務を手がけた。しかし経営不振により明治9年(1876年)で倒産した。
  • 真島襄一郎が蓬萊社の大阪中之島工場の製紙・製糖業の一切を譲り受け、大阪紙砂糖製造所として経営するも、製糖業は失敗し、製紙業もやがて不振となり明治15年(1882年)以後経営者が変遷し紆余曲折を経て樺太工業に吸収され、昭和7年(1932年)に樺太工業も王子製紙 (初代)に吸収合併された。

 関連項目


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