長尾よね
長尾よね(ながおよね)
明治生まれの女性実業家
わかもと製薬長尾欽弥夫人
- 女傑として高名であるが、自らの生い立ちをあまり話しておらずその生涯は謎に包まれている。
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生涯
- ここでは「長尾よね」で通す
- 後藤芳之助の長女・志かの次女として、明治22年(1889年)8月26日に出生する。私生児として生まれたが、のち田中光顕の認知を受ける。
長尾欽弥 │ ┌──長尾よね │ ├───川田清實 │ 川田亦治郎 後藤芳之助─┬志か─┴はる └後藤八百吉
後年、よねの子供である川田清實(かわた きよみ)が戸籍謄本を取り寄せたところ、戸主は志かの弟で明治9年(1876年)生まれの後藤八百吉で、長尾よねの姉のはるも明治11年(1878年)生まれの私生児であったという。いずれも父の名は書かれていない。生母志かは安政2年(1855年)の生まれ。
また八百吉は浅草区浅草馬道町の生まれで、のち京都市上京区堺町通姉小路丸木材木町へ移ったという。
- 19歳のとき川田亦治郎と駆け落ちし、大正8年(1919年)2月11日31歳のとき長男の清實を生んでいる。
川田亦治郎は明治13年(1880年)彦三郎の長男として大阪に生まれる(祖父は住吉屋という両替商だという)。京大工科卒業。東京工務所経営。昭和4年(1929年)わかもと本舗創立と共に監査役。長男・川田清實は大正8年(1919年)生まれ。
- 大正15年(1926年)に家に出入りしていた中溝多摩吉の紹介で長尾欽弥と出会い、のち川田と長尾とよねの3人は、東京帝国大学農学部の沢村真博士の協力を得てビールの絞り粕に含まれる酵母菌を利用した栄養剤の開発を行う。
- 昭和4年(1929年)4月「合資会社 栄養と育児の会」を設立し、「
若素 」を発売する。同じ年の12月によねは川田と協議離婚している。
当初日本国内で販売開始、のち満州でも販売を行った。のち昭和6年(1931年)には国内向けは「わかもと」とひらがなにしている。
昭和初期においても国民の栄養状態は悪く生活環境条件も十分とはいえない状況であり、特にビタミンB1(チアミン)欠乏による脚気が国民病として蔓延していた。脚気は悪化すると脚気衝心(心臓脚気)を引き起こし数日で死に至るケースも有り、徳川家茂やその正室和宮もこの病であったとされる。大正末期には年間2万5千人もの死者を出し結核と並んで二大国民病となっており、昭和に入っても毎年死者1万~2万で推移していた。しかし当時ビタミンB1製剤は非常に高価でとても大衆の手の届くものではなかった。※大正9年に行われた第1回国勢調査では日本の人口は約5,600万人。
- 婦人倶楽部 10(7) - 国立国会図書館デジタルコレクション ※国立国会図書館内限定
脚氣・肺結核・胃腸病に大効ある酒母の話 / 澤村眞/p356~358 澤村名譽敎授を訪ふ / 記者/p360~361
- ドイツでビールの絞り粕を使って脚気改善を行ったということを耳にした長尾よねらは、「わかもと」の開発に乗り出す。「栄養と育児の会」という一見会社とはわかりづらい社名にしたこと、さらに当時大きな発行部数を誇っていた「婦人倶楽部」の昭和4年(1929年)7月号に沢村博士による効用説明を入れた広告を打ったことなどにより、「わかもと」は瞬く間に大ヒット薬品となった。
- 発売開始の翌年、昭和5年(1930年)によねは桜新町に邸宅の建造を開始している。この一帯には軍人の将校の邸宅が散在しており、当初そこの敷地500坪ほどの邸宅を買い、暫時買い入れを行っていき敷地面積は7800坪に達したという。
- よねは京都から数寄屋建築師の大江新太郎を呼び寄せ、その後10年余りをかけて邸宅と庭園を整備した。
大江新太郎は京都出身の日本の建築家。日光東照宮の修復や明治神宮の造営に関わった。
骨董蒐集
- よねは40歳ごろより骨董に傾注するようになる。
- 昭和7年(1932年)には本間順治の指南により遠江浜松藩主であった井上子爵家の売立で「太閤左文字」を落札する。さらに昭和9年(1934年)には「江雪左文字」を購入しており、これらは後に国宝に指定された。また記録はないが、恐らく昭和10年頃に「蜂須賀正恒」(現国宝)を購入している。
- 他にも、野々村仁清「色絵藤花文茶壺」(現国宝。にっかり青江の丸亀京極家伝来。MOA美術館所蔵)、仁杉家の雛道具、長沢蘆雪「月夜山水図」(重要美術品)などを蒐集し、昭和11年(1936年)には数多くの収蔵品の中から秀作を集めた豪華美術図書「
錦羅聚秀 」を作成し、関係者に配布している。 - また昭和8年(1933年)12月に長尾欽弥と再婚する。
- 昭和11年(1936年)春から秋までアメリカからヨーロッパに旅行し、原料の酵母を仕入れるルート開拓を行っている。通訳や医師、骨董商まで同行し、ドイツではヒトラーとも会って一緒に写真を撮っている。
- 昭和15年(1940年)には年間1千万本を販売したという。
- 昭和16年(1941年)末に大東亜戦争(マレー作戦および真珠湾攻撃)が勃発すると原料入手が行えなくなり、軍納工場となった。
- 昭和18年(1943年)「わかもと製薬株式会社」と改称。
- 昭和19年(1944年)には東京の空襲が激しくなり、芝公園の本社が焼亡している。美術品は鎌倉山の地下壕に入れ、また衣類のかなり多くは料亭桑名の女将の郷里である四日市市に疎開させた。
- 戦後、丸ビルに仮事務所を置いた後、木挽町に移っている。
- 戦後かけられるようになった財産税を避けるため、昭和21年(1947年)財団法人長尾美術館を設立し、美術品類はそこへ寄付し、扇湖山荘での展示が開始された。
転落
- しかし好調だったのはこの頃までで、こののちわかもと製薬は業績不振に陥り、株を主力銀行だった安田銀行へ預けて融資を引き出すが、それ以上の資金を必要とするようになり、底をついたという。
- 銀行側は担保価値を高めるために昭和23年(1948年)頃に店頭株公開を行い、昭和24年(1949年)には東京証券取引所に上場する。
- 長尾欽弥は昭和24年(1949年)に社長辞任に追い込まれ、日本銀行から来ていた人間に代わっている。
- こうして会社の資産はすべて取り上げられ、長尾夫妻に残されたのは、桜新町の本邸と、近江琵琶湖畔唐崎の別荘(隣松園)や、京都鷹ヶ峰の別荘、南禅寺の別荘、長尾美術館の美術品のみが残った。
- 昭和26年にナガ製薬を設立して駆虫剤「アスキス」を発売してヒットするも、翌年爆発事故が発生し倒産する。
- その後は凋落の一途をたどり、昭和30年(1955年)ごろから美術品の流出が始まる。
- 昭和42年(1967年)2月8日、長尾よね死去。79歳。法名は最勝院釋尼好美大姉。遺骨は、甥・桑山金三により京都五条大谷本廟の長尾家の墓に納められた。
- 最後に残った染織品はカネボウの所蔵品となった。
(昭和)四十二年七月には幸運にも、もっとも価値の高いコレクションを入手することができた。特に日本の各種衣装を網羅し、重要文化財を含む旧長尾美術館が所蔵した染色コレクションで、それらの大部分は戦争中に長尾よね夫人が集めたもので、その鑑識眼はさすがといわれたように優れたものであった。これらの収集品のあるものは戦後、一点、二点と骨董商に売られたりしていたが、コレクションを一括売却する話は青山の伸美堂塗師から社長宛紹介されたものである。
- 昭和55年(1980年)長尾欽弥死去。89歳。
- 平成19年(2007年)カネボウが倒産し、鐘紡繊維美術館も閉鎖される。長尾美術館所蔵品であった装束類は文化庁が購入している。
カネボウは、元「鐘紡株式会社(鐘淵紡績株式会社)」。平成13年(2001年)にカネボウ株式会社に社名変更。平成17年(2005年)に上場廃止。事業譲渡が行われ、最終的に2008年11月、トリニティ・インベストメント株式会社へ吸収合併され、法人格も消滅した。
関連会社として、株式会社カネボウ化粧品(花王株式会社の子会社)、クラシエホールディングス株式会社(ホーユー株式会社の子会社)、KBセーレン株式会社(繊維事業。セーレン株式会社の完全子会社)などがある。
鐘紡繊維美術館は鐘紡淀川工場跡地に昭和61年(1986年)開館、平成10年(1998年)に閉館。収蔵品の約6割が、京都国立博物館、国立能楽堂、女子美術大学に寄託された。のち同館の建物と残存コレクションを継承した都島工芸美術館(学校法人二本松学院京都伝統工芸大学校の付帯施設)が設立され、運営されている。
- 平成22年(2010年)、三菱東京UFJ銀行の所有となっていた扇湖山荘が鎌倉市に寄贈される。
逸話
美術品蒐集
- 当初増上寺の表門の左脇にある浄蓮院の庫裏を借りていたが、そこから北へ1キロほど行った愛宕下4丁目(現、港区新橋)に「東京美術倶楽部」があり、そこで頻繁に売立が行われていた。
- 売立があると長尾よねは夫婦でそろって下見に行き、気に入ったものがあると出入りの骨董商などに師事をして入札していたという。
- 宮本二天(武蔵)の「枯木鳴鵙図(こぼくめいげきず)」は、江戸時代には渡辺崋山が所蔵していたとされ、明治期には翻訳家の横瀬文彦が入手。のち売りに出たものを長尾よねが買うのだが、売立に出される前に吉川英治が見ていたという。
風呂敷を解かないうちに、何かね、と訊くと、宮本武蔵の画ですという。まず訊くだけで閉口した。その頃まだ、小説は起稿していなかったが、武蔵については、名人である、いや名人とは言えないなどと、直木三十五や菊池寛など、同人間でとかくよく話題になっていたし、武蔵の絵などが、そう風呂敷につつまれて、簡単に先から持って来てくれるわけのものでないくらいは自分も知っていたからである。
しかし、これは名幅です。どこやらに出品したこともありますし、それに箱書きは、渡辺崋山がいたしておりますので──とその店員がいうので猶さら、吹出してしまいたくなった。そして、風呂敷から解かれる間にも、一つ二つぐらい、減らず口をいったと思う。
ところが、この減らず口の罰があたってしまったことになった。というのは、折角、箱の蓋まで取って示すので、何気なく見ると、私も驚いた。ほんとに崋山が書いている。一見、真蹟である。例の崋山の力のある筆致で箱の裏に字句は忘れたがたしか短く二行ほどに書いてあったかと記憶する。勿論、印顆も明晰に捺してあった。
(略)
欲しいと思った。何度も拡げて、未練がましく見たものだったが、自分などの趣味に使う金ではとても届かない値だろうし、また、小向いでこんな物を取って、後で何ぞいざこざでもあったら嫌だし──などと思ったので、では倶楽部へ出るなら倶楽部で札を入れて貰うよ、とあっさり云って帰したものである。
(随筆 宮本武蔵)結局絵を買い逃した吉川英治氏は、昭和10年(1935年)の8月23日から朝日新聞で「小説宮本武蔵」の連載を開始する。皮肉にも吉川英治の小説が、宮本二天とこの「枯木鳴鵙図」の世間での評価を押し上げることになった。
宜雨荘(ぎうそう)
- 世田谷区深沢町四丁目の本宅。九千坪あった。近衛文麿が「宜雨荘」と名付けた。
- 現在の都立深沢高校の敷地に当たる。
- あまりに広大な邸宅のため、宜雨荘には電話の交換台もあり、長尾鉄也氏とよね氏が電話で会話することもあったという。
- 宜雨荘には、敷地北隅の「八霞亭」という四畳半の茶室と、敷地東側にあった池にせり出した三畳台目の「詠帰亭」、そして敷地西側の「宜春亭」の3つの茶室があった。これは松浦家の小石川蓬莱園から移築してきたという。
松浦家の蓬莱園は、寛永5年(1628年)屋敷地拝領。寛永19年(1642年)に神田にあった上屋敷が焼けたため移ってきた下屋敷だという。その後ここが上屋敷となり、大正12年(1923年)の関東大震災まで松浦家の本邸となっていた。庭園は寛永頃に松浦隆信(平戸藩3代)が小堀遠州や江月に作らせたものといい、のち松浦鎮信(重信。平戸藩4代)が元禄頃に改修したという。天保年間に国学者・橘守部が庭の各所に名前をつけ、天保5年(1834年)に「蓬莱園記」が出された。
- 昭和30年(1955年)に坂内ミノブ(千葉銀行レインボー事件)に総額六千万円で売却。のち昭和38年(1963年)には東京都が土地を取得し、都立深沢高校が設立された。
なお現在深沢高校に残されている茶室は宜雨荘の離れ(夫婦のプライベートな建屋)だった建物で、のち深沢高校の茶室「清明亭」として残された。なお深沢高校の校章はこの清明亭にちなみ、全体は菊の花、外形を茶室から採られている。また「高」の文字を石灯籠から採っており、また高の一部は茶釜の蓋を表すという。
・清明亭 | デジタルコレクション | 世田谷デジタルミュージアム
・制服・校章・校歌 | 東京都立深沢高等学校 | 東京都立学校
別荘:扇湖山荘(せんこさんそう)
- 鎌倉の鎌倉山の、この絵の別荘の隣に二十万坪の別荘があった。家屋は飛騨高山の豪農の建物を移築し、内部を改装したもの。
- 地下は美術品の陳列室になっていた。
- これも近衛により「扇湖山荘」と名付けられている。
- 収集していた美術品が膨大で、戦後財産税が創設されるやこの鎌倉山の別荘に財団法人長尾美術館を設立し、主要美術品はこの財団法人に寄贈した。それでも残った財産の財産税は1千数百万円に上ったという。
著名人との交流
- 長尾よねは女傑として知られ、文化人・政界などの著名人と交流した。
- 文化人では北大路魯山人、川喜多
半泥子 などと交流があり、後には北大路魯山人の後援をしている。
魯山人は陶芸家・料理家・美食家として高名。また半泥子は「東の魯山人、西の半泥子」あるいは「昭和の光悦」などと称される。
- 元総理大臣近衛文麿とも交流があり、昭和20年(1945年)12月にGHQから巣鴨拘置所への出頭命令を受けた近衛は、世田谷の深沢にあった長尾邸「
宜雨荘 」に側室・山本ぬい子と娘・斐子(綾子とも)を連れ宿泊している。そして出頭命令の最終期限日である翌16日の未明、荻窪の自邸「荻外荘 」で服毒自殺を遂げている。表がさわがしくなつて、門がしまり、入つて来た近衛とよね・欽彌が二言三言立ちばなしをする。近衛がうなづいて、たださへ猫背の長身の背を丸めながら、渡り廊下を”新館”の十二畳間へ入つて行く。後から「山本さん」と皆がとんでゐた近衛の側室が、そつとついて行く。「山本さん」は、背が高くて上品な、凄絶なまでに美しい四十代初めくらゐの婦人であつた。
近衛はその夜から十五日夕刻までの四日間を、長尾邸もすごす。「山本さん」は、人の出入りの多い日中は邸内のどこかに潜むやうにしてゐた。清實(川田清實。長尾よねと川田亦治郎の息子)は憶えてゐないが、近衛と「山本さん」の間の娘綾子、当時二十歳ぐらゐが、母親よりもさらにそつと、よねの化粧の間にこもつてゐた。女中の一人おやすこと村野晴子がさう記憶してゐる。
(略)
川田(川田清實)によれば、近衛は長尾邸をなかなか去らうとしなかつた。その上、ここを自分の最後の場処にしたいと、よねに告げた。
「お殿様、そりゃいけません。さういふ大事は御本邸でなさらなきや」
と、よねは声を励まして遮つた。一方近衛側近と長尾欽彌は、近衛が入院加療の必要があることを口実とする出頭の延期を策してゐた。なほ、大名の出ではない近衛をよねが「お殿様」とよんだといふことを怪しむ向きがあるが、そのあたりを自分の言葉で押し通すのが、よねの流儀ではあつた。
近衛文麿は、第34・38・39代の内閣総理大臣であり、東久邇宮内閣にも国務大臣として入閣していた。一説に長尾よねが青酸カリを提供したともいい、また当初長尾邸で死にたがった近衛を説得し、荻窪の自邸へ戻したという。
「山本さん」は山本ヌイ(縫子)。もと新橋の芸姑・駒子で、当時1500人もいたという新橋の芸姑の中で、鉄道大臣内田信也の側室・福原某、長谷川一夫の後妻になったりん彌(飯島繁)とともに美人三人組と称された。
- さらに、裏千家の内弟子上がりの鈴木宗保を茶頭として抱えていたほか、岩城造園の岩城亘太郎、写真家の川本綾夫、染色などに詳しい宮田祥治、刀剣研究家の本間順治、西洋美術史教授の矢崎美盛などが邸宅の近辺に住んで度々屋敷に呼ばれていたという。
鈴木(鈴木宗保。日々庵。裏千家流の茶人)と同様の関係で、近くに住んでゐた者には、昭和五十九年現在岩城造園会長の岩城亘太郎や当時支配人格の新橋旭、写真家の川本綾夫、染織や文房具に精しい宮田祥治、刀剣研究家で東京博物館の本間順治、東京大学西洋美術史の教授矢崎美盛などがある。また運転手は邸内の小住宅に住んでゐた。
近衛、東久邇(東久邇宮稔彦王)、永野(永野修身)のやうに、長尾邸に招かれて酒宴の饗応を受けた要人には、ほかに下記のやうな人々があつた。侯爵木戸幸一、公爵一条實孝、海軍大将山本英輔、同小林躋造、検事総長松坂廣政、元帥陸軍大将寺内壽一、同杉山元、貴族院議員で野村財閥の得庵野村徳七。
彼らは、世田谷の桜新町邸で酒宴にまねかれただけではない。鎌倉市笛田、俗にいふ鎌倉山の別荘にも招待された。ここは飛騨高山から移された桃山期の豪農の家を、建てなほして母屋にしてあつた。切り通しから道まで買つて、すべてで十三万坪、その高台から俯瞰すると、杉木立の間から海が扇形に見える。欽彌は扇湖山荘 と名づけた。
- 北大路魯山人が困っている時にパトロンになり、薬のおまけにこの魯山人のやきものを添え評判だったという。
相撲熱
- よねは、相撲にも熱を上げており、当時分裂していた相撲協会に一万円もの寄贈を行なったという。特に二所ノ関一門を後援し、神風正一(最高位は東関脇)を贔屓にしていた。
あつかふ茶屋は上州屋、前から四、五番目くらゐの一番見やすい枡を三つから五つくらゐは常時もつてゐた。場所の間よねは毎日中入あたりから打止めまでを見に行つた。よねの姿を見ると茶屋では主人、内儀ともとび出して来て、たつつけ袴の出方が米搗きバッタのやうにとりつき、桟敷へ案内する
桟敷ではたとへば招待してある相撲通の本間順治などを相手に、自分は酒をのみながら、妙な勝負の判定があると、「行司、こら、しつかりしろ!をかしいよねえ、本間さん」などと大声にいふ。本間は身分が文部省の官吏なので、思はず首をすくめねばならぬことが、一再ならずあつた。
よねの伝記には登場しないが、明治35年(1902年)生まれの伊勢寅彦氏(後に「山姥切国広」を所持した人物)が相撲協会にいた時期とかぶっている。おそらく交流はあったものと思われる。
- 若乃花幹士 (初代若乃花)の「人間、辛抱だ」にも登場する。
精神的に大きな支えになってもらった人に、元ワカモト製薬の社長夫人の長尾ヨネさんがいる。それは、それは女傑だった。
なにしろワシといっしょに芸者遊びをするくらいだから、いかに普通の奥さんと違うかわかる。
「横綱というものは、二日も同じ着物を着るようでは、甲斐性なしだ。私がつくってやりましょう」といって当時二十万くらいのツムギ、大島などをよく作ってもらったものだ。
奥さんの紹介で、ワシは横山大観先生、梅原龍三郎先生と知り合うことができた。
勝負師、芸術家、どこか共通の点があるようだ。一つのものに秀でるということは、並の努力ではできない。この点二人の先生から、「小さいからだで、横綱まで張ったあなたは、やはり努力の人だと思うナ」とほめられた。
横綱の化粧まわしに、絵を描いてもらった。いま花田家の家宝にしているくらいだ。
奥さんがなくなって、もう六、七年になるかな。
命日は二月八日で、毎年お墓参りは、欠かしたことがない。
奥さんの遺言に、「横綱をヒツギをかつぐ一人にいれてほしい」と書かれていたそうで、霊友会小谷会長のときと同様、ワシはそれを実行した。
亡くなったのは、鎌倉の別荘で、門が狭くて、玄関まで霊柩車が入らない。約十メートルだったが六人で運んだ。奥さん、いままで、ワシのようなものを、よく面倒みてくれたと、涙があふれ出たのを、いまでもはっきり思い出す。
奥さんがワシを応援してくれた動機は、奥さんは、昔、玉錦の後援会に入って、二所ノ関部屋を応援し、ワシの師匠である花籠親方の現役のときの大ノ海をひいきにしてくれた関係だった。いま生きていれば八十歳は超えている。
わかもと製薬
- わかもと製薬は、昭和4年(1929年)4月に長尾欽弥らが「合資会社 栄養と育児の会」を設立し、「
若素 」を発売したのに始まる。 - 主力製品は胃腸薬「強力わかもと」。
- 映画「ブレードランナー」(1982年)において、この「強力わかもと」の巨大看板が登場し、架空のCMムービーが流れる。
奥様券と銘仙
- 銘仙とは平織りした絣の絹織物である。
- わかもと製薬では、その年にわかもとをたくさん売り上げた薬店の奥様に対して、その好みに合う柄の銘仙の反物を贈っていた。このために薬店では競うようにわかもとを売っていたという。一時期、わかもと社の銘仙の在庫は三越を凌ぐほどとも言われたという。
- 戦後、奥多摩に銘仙を疎開させていたが、それが進駐軍に接収されてしまう。そのため、わかもと社の長谷川政夫氏がアメリカ第8軍に折衝してようやく接収が解除されたという。
- この時、同時に同じ場所に疎開されていた文部省保管の重要美術品の刀剣類も同時に解除になったのだが、文部省からは長谷川氏に対してなんの挨拶もなかったという。
美術刀剣としての保護
- 第二次世界大戦後に日本を占領したGHQは、日本刀を含んだ武器すべてを没収することを計画する。この計画を知った本間順治は、かねてより交流のあった長尾よねに相談し、内閣総理大臣東久邇宮稔彦王に訴え出るつてとして児島喜久雄を紹介される。
- 二人が東久邇宮および近衛文麿に相談したことでこの問題が認知され、日本刀を美術品としてGHQへの武器供出から免除することが決定されたという。
長尾欽弥(ながお きんや)
明治生まれの実業家
- 長尾欽弥(欽彌)は、明治25年(1892年)京都相良郡湯船村射場の生まれ。
- 幼いころ一家は離散し、欽弥は横浜の伯父の養子となっている。
- のちに伯父も倒産するが、欽弥は「点滅電気広告塔」で特許を取り、千円でこの権利を売っている。一説に、理髪店の自動回転看板を考案したとも言う。
- その後薬や中国人向けの化粧水を売るなどして上野寛永寺坂に「博仁房」という会社を開いていた。そしてにきびが取れて色白になるという謳い文句の「ベーリン」を開発し通信販売で売っていたが、直接販売を思い立ち、電柱に広告することを思いついた彼は電燈会社と交渉し許可を取ることに成功する。
- 広告の目新しさと謳い文句により報知新聞に取り上げられて評判となり、「ベーリン」は大成功する。
- さらに当時は輸入品しかなかったアスピリンを自社開発することに成功して儲けたものの、大正9年(1920年)に第一次世界大戦後の戦後恐慌が起こると倒産している。
- そして大正15年(1926年)頃に、川田家に出入りしていた中溝多摩吉の紹介でよねと出会うことになる。
- 経済マガジン 1(4) - 国立国会図書館デジタルコレクション 国立国会図書館内限定 私が今日の地位を築き上げるまで / 長尾欽彌/p150~156
関連項目
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