瀬戸保太郎
瀬戸保太郎(せとやすたろう)
昭和初期の事業家
大阪の広告王
人物
- 前半生についてはよく知られていない。
私にもよくわかりませんが、満州や支那方面で、たいそう活躍しておられた方のように、きいておりますね。
(薫山刀話)
- 「薫山刀話」によれば、昭和35年(1960年)72歳で死んだと書かれており、逆算すると明治21年(1888年)の生まれとなる。
- 生まれは徳島だという。徳島の生まれで、小学校を出てすぐに満州へ渡ったという。
「日本刀価値考」では”兵庫県武庫”の生まれであるとする。
- (逆算では明治35年頃)13・4歳で単身奉天に渡った。日露戦争直後で、後藤新平が初代の満鉄総裁として鉄道網建設に着手したばかりであったという。
後藤新平が満鉄初代総裁になったのは明治39年(1906年)。
- この頃弘報(広報)手段として「盛京時報」を発行し、その印刷所の植字見習工として入社した。当時「盛京時報」には染谷保蔵が編集に関わっており、その染谷に可愛がられたという。
- のち大陸から引き上げてきた瀬戸は、「盛京時報」の大阪支局長、東京支局長として広告業に専念した。まだ名の売れていなかった寿屋(現、サントリー)の鳥井信治郎氏を訪れてその広報活動を助けたという。のち、瀬戸氏が新大阪新聞を旗揚げする際には、その鳥井氏が出資したという。さらに「わかもと」の広告も取り扱っていたことから、当時瀬戸氏は飛ぶ鳥を落とす勢いだったという。
- 内田良平と知己であり、いわゆる大陸浪人となりやがて新聞関係で頭角を現す。
内田良平は、旧福岡藩士の内田良五郎の三男。黒龍会主幹、大日本生産党総裁。昭和7年(1932年)の血盟団事件・昭和8年(1933年)の神兵隊事件などの黒幕と呼ばれた。昭和12年(1937年)死去。
- 旧日本陸軍の関東軍がメディア関係の統制を強め「康徳新聞社」を設立すると、瀬戸はその東京および大阪支局長となっている。
康徳とは、昭和9年(1934年)に建国された満州帝国の最初の元号。
- のち毎日新聞社の顧問となった他、多数の広告顧問となっている。昭和13年(1938年)刊の「転換期に於ける新聞広告の仕方 : 附・瀬戸保太郎論」には、瀬戸保太郎の事業として次のように書かれている。
一、大毎廣告部客員 ※大阪毎日新聞。毎日新聞大阪本社の前身
二、わかもと本舗顧問(事實上の廣告部長) ※わかもと(長尾よねの項参照
三、壽屋顧問(事實上の廣告部長) ※サントリーの前身
四、藤澤商店顧問
五、野村外吉商店顧問 ※金鶴石鹸製造元
六、盛京時報大阪市局長 ※康徳新聞の前身社のひとつ
七、他人名義となつてゐる約二十の地方紙支局長
八、満州國通信社顧問
九、代理業經営(たゞし、表面には何故か看板を掲げず)
十、有力新聞約十紙の顧問
の如く多種、多方面にわたつてゐる。單に筆者の脳裏泛んだものだけあげてもこれだけあるのだから、詳細に身邊を調査したら、何種類あるか見當すらつかない。右のうちその一つをとつても、優に中流以上の生活を支へ得るだけの収入を有してゐるといふのだから、如何に彼が豪奢な生活をしてゐるかゞ解るだらう。
- 「わかもと」とのつながりについては、「薫山刀話」にも書かれている。
「わかもと」なども、満州で瀬戸さんに非常にお世話になっているようですよ。「わかもと」の主人長尾欽弥夫妻は、この大人にはどうしても頭が上がらなかったですわ。「わかもと」という薬は、満州で最初に売り出した薬らしいです。なにも胃腸の薬というので満州で当たり、それから内地にきて、胃腸薬になってまた大当たりしたんですよ。前に話した終戦のときの、進駐軍との刀談判のかげ役者の、長尾のばあさんとは、むかしから深い知り合いですよ。
- 戦後、GHQにより用紙統制が行われ既存紙より新興紙が優遇されている昭和21年(1946年)には、新大阪新聞社を設立しタブロイド紙「新大阪」を発行している。これは毎日新聞社のダミー会社であり、「毎日新聞」夕刊の代わりに創刊したものであったという。
- しかしわかもと製薬も没落し、瀬戸氏も晩年には失意のどん底であったという。
- 昭和35年(1960年)、肝臓がんにかかり72歳で没。
刀剣
逸話
- 偽物をいける話。
この瀬戸さんという人は、はじめから目利き者にみてもらって、刀を買うことは絶対しないんです。みんな自分の目で買ってしまう。それからあとで、目利き者にみてもらうんだが、そこでこれは偽物であるといわれても少しも驚かない。自分がかった偽物がまた世間に出ると、今度求めた人が迷惑するといけないというので、偽物といわれたものは、自分の家の裏山を掘っていけてしまうのです。そうしてその上に蘇鉄を植えるんです。蘇鉄は鉄が好きですからね、そうやっていけているうちに、蘇鉄の森林ができたなんて悪口を、あの当時の週刊誌か何かに書かれたりしていましたよ、そういう人でした。
(薫山刀話)
- GHQ刀狩の話
そうそう終戦のときですよ、進駐軍の刀狩りがやかましかったときに、地元の警察から、どこかに刀を全部持ってこいといわれた。瀬戸さんのところには、重文や重美もいろいろあったんです。(略)そこで瀬戸さんはこんなことがあるだろうと、かねて用意していた駄刀を沢山持参して、これは国宝、これは重美の何々ですという調子で、進駐軍の連中に堂々と説明してやったので、彼等はワンダフルを連発して、大喜びでその駄刀をかついで引きあげたと聞いてますよ。これも瀬戸さんらしいですね。
(薫山刀話)
関連項目
参考文献
- 「薫山刀話」 東京出版 1972年
- 「転換期に於ける新聞広告の仕方 : 附・瀬戸保太郎論」 サカエ画房 1938年
- 「日本刀価値考」 光芸出版 2003年(「刀の値段史」1981年の復刻版)
- 「関東軍と満州国時期の最後の日本人経営中国語新聞について ―『康徳新聞』を中心に―」 華京碩 2013年
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