藤戸石
藤戸石(ふじといし)
天下の名石
天下人が所有する石
浮洲岩(うきすいわ)とも
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概要
- 藤戸石は、現在京都醍醐寺三宝院の庭園の主石として設置されている名石。
- その歴史的な経緯から、「天下人が所有する石」とも呼ばれる。
藤戸の戦い(浮洲岩)
- 話は治承・寿永の乱まで遡る。
俗に「源平合戦」と呼ばれるが、近年、この呼称は(特に鎌倉方の)実態を正しく表していないという指摘がある。ただし下記では説明の都合上、源氏(方)、平氏(方)と表記するものとする。
- いわゆる源平の合戦の折、備前国児島の藤戸(現在の岡山県倉敷市藤戸町)において、「藤戸の戦い」(藤戸合戦、児島合戦)が行われた。
現在の倉敷市児島半島は、当時「吉備の穴海」と呼ばれる巨大な内海で本州と隔てられた島(吉備の児島)になっていた。「古事記」の国生み神話では、吉備の児嶋は大八洲の後に最初に生み出した島であるとする「かれこの八島ぞ先づ生みませる国なるに因りて、大八島国と謂ふ。さて後還りましし時に、吉備の児島を生みたまふ。またの名は建日方別といふ」。
現在、倉敷川と瀬戸中央自動車道が交差する辺りは特に海流が激しく、潮汐の干満に応じて海流が乱流となり、遠くから望むとその様子が「藤の花が風に斜なるが如く」であったため、藤の門(ふじのと)と呼ばれるようになり、後に”藤門”・”藤戸”へと変化したといわれる。「ト」(戸・門)は、海峡を意味する。水軍を基本とし瀬戸内海の制海権を握っていた平氏は、陸地から離れた児島に本拠地を置き源氏方を迎え撃っている。
この吉備の穴海は江戸時代のはじめに岡山藩により埋め立てられて西端が陸続きとなり、明治頃までには大半が埋め立てられ、現在は東の方に「児島湖」を残すのみとなっている。
当時の地形は、地理院地図 / GSI Maps|国土地理院(土地条件図)を見るとわかりやすい。赤斜線のかかっている部分はすべて人工的に埋め立てされた土地、つまりこれが当時「吉備の穴海」と呼ばれていた部分である。現在のJR西日本倉敷駅のあたりから南東方向に向けて島がいくつか並んでいるが、それが「吉備の児島」に接続するあたりに「浮洲岩」があった。
- 寿永3年(1184年)2月「一ノ谷の戦い」で敗れた平氏は西へ逃れるが、瀬戸内方面を経済基盤としていたために、備前備中などの豪族も大半が平氏家人であり依然として瀬戸内海の制海権を握っていた。
- 元暦元年(1184年)9月、源範頼率いる平氏追討軍は京を出発して西国へ向かい10月には安芸国まで軍勢を進出させるも、屋島から兵船2000艘を率いて来た平行盛によって兵站を絶たれてしまう。さらに平行盛は備前児島(現在の児島半島)の篝地蔵(かがりじぞう)に500余騎の兵を入れ山陽道を防衛させたため、源氏は攻めあぐねる。
- この時に追討軍(源氏方)の佐々木盛綱は、地元の漁夫から浦が浅瀬になることを聞き出す。その浅瀬の目印が地元で「浮洲岩(うきすいわ)」と呼ばれていた。平氏方に漏れることを恐れた佐々木盛綱は、その漁夫を殺してしまったという。
源氏方は倉敷側の浮島の一つ日間山に本陣を置き藤戸海峡を挟んで平氏方と対峙していた。この藤戸海峡の浅瀬の目印が浮洲岩である。
この漁夫の名は諸説あるようで、惣十郎(または彦十郎)、あるいは與助とも言い、青木谷というところにこの漁夫の家の跡があったという。
- 元暦元年(1184年)12月7日、佐々木盛綱がその浅瀬を騎馬で渡り対岸の平氏軍に先陣をかけると源氏方がそれに続き、一気に平氏を追い落としてしまう。
(元暦元年)十二月小七日壬戌、平氏左馬頭行盛朝臣、引率五百餘騎軍兵、搆城郭於備前國兒嶋之間、佐々木三郎盛綱爲武衛御使、爲責落之雖行向、更難凌波涛之間、濱潟案轡之處、行盛朝臣頻招之、仍盛綱勵武意、不能尋乘船、乍乘馬渡藤戸海路三丁余所相具之郎從六騎也、所謂志賀九郎、熊谷四郎、高山三郎、與野太郎、橘三、橘五等也、遂令着向岸、追落行盛云々、
(吾妻鏡)
- この時に盛綱に浅瀬を教えた漁夫の悲劇は、謡曲「藤戸」および「平家物語」で取り上げられ、藤戸の名は全国的に知られることになる。
一連の功により佐々木盛綱は、備前国児島荘、越後国蒲原郡加地荘、さらに上野国磯部を拝領する。息子・信実は、加地太郎左兵衛尉遠江守と名乗っており、のち加地氏を称した。信実は承久の乱でも功を上げ、備前守護及び越後守護となる。その子孫は揚北衆佐々木党となり、磯部氏、飽浦氏、新発田氏、竹俣氏などの庶流に分かれた。戦国時代には新発田氏が嫡流を凌ぎ、上杉氏参加の一国人領主となっている。加地秀綱は謙信の姉(長尾為景娘)の子、つまり謙信の従兄弟で重用された(※謙信の娘/妹を娶ったという俗説もある)が、謙信亡き後は御館の乱及び新発田重家の乱で景勝と対立したため没落した。
- 謡曲「藤戸」のあらすじは、この合戦で功を挙げ児島の地を賜った佐々木盛綱が初めて領地入りした際、一人の老婆が現れ我が子を殺したと言って盛綱を責め立てる。はじめは白を切っていた盛綱であったが、再三老婆に責め立てられついに自らの過ちを認めて悔悟し、弔いに藤戸の海辺にて管弦講を行うことを申し出る。盛綱が管弦講を催していると漁夫の亡霊が現れ、自らが受けた惨劇を語りだす。そして回向を賜ったことを感謝し、成仏したのだとする。
藤戸石
- 藤戸の戦いで目印となった「浮洲岩」は、その一番乗りを果たした佐々木盛綱の逸話と、形の珍しさから名石として珍重される。
足利義満〔鹿苑寺金閣〕
- 「藤戸の戦い」から150年ほど経った建武年間(1334~1338)、世阿弥により作られた謡曲「藤戸」を見た3代将軍足利義満がこの岩を取上げ、北山殿(鹿苑寺金閣)へ移したとされる。
此岩建武の頃足利將軍より被取上、都醍醐三寳院の庭へ据ゑ給ふなり。
建武(1334-1336)と義満の14世紀後半とでは30~60年ほどズレがあるが、今のところこの程度の記述しか見当たらない。江戸~明治にかけての文献では義満が運ばせたとするものがあるが、いずれも出典を示さない。
そもそも浮洲岩を取り上げた人物は秀吉とも伝わり、また件の漁師は岩の目印を教えたのではなく場所を教え、盛綱は目印に枝を差したのだとも言う。また藤戸石はその漁夫の遺体が流れ着いた場所であるともいう。現地の伝承によれば秀吉が藤戸の浮洲岩を持ってきたのはどうも確実らしいが、そうなるとなぜ秀吉はそこまで藤戸(藤戸岩)にこだわったのかが謎である。また仮に秀吉が取り上げて三宝院に納めただけなら天下人云々は意味がなく単に「秀吉の石(太閤石)」なだけである。
しかし現に信長が足利義昭のために運んだ際の公家日記が残っており、秀吉以前から「藤戸石」が京都にあったのは確かである。秀吉伝承は、おそらくなにか別の周辺の岩などを運ばせたものが混同され藤戸石本体を運んだのではないかと思われる。
足利義政〔慈照寺銀閣〕
- その後、8代将軍足利義政の時に東山殿(慈照寺銀閣)へと移され、さらに12代将軍足利義晴の時に細川高国(野州細川家に生まれ、細川氏嫡流である京兆家を継いだ)へと譲ったという。
【京兆家】 細川頼元─┬満元─┬持元─┬勝元──政元━┳澄之 │ ├持之 └成賢 ┣澄元──晴元──昭元(…三春藩御両家) │ │ ┗高国─┰稙国 │ │ ┗氏綱 │ │【典厩家】 │ └持賢─┬成賢 │ └政国──政賢─┬澄賢──晴賢 │ └尹賢─┬氏綱(高国養子) │ └藤賢 │【野州家】 └満国──持春─┬教春─┬勝之 ├政国 ├政春─┬高国(勝元養子) └賢春 │ ├晴国──通薫 │ └通政━━通薫──元通 └春倶─┬尹賢 └高基 ※養子関係が入り組んでいるため、実の親子関係を黄で示し、養子を青で示した。 ※また藤賢については赤で示した。
足利義昭〔二条御所〕
- のち、永禄12年(1569年)3月3日、織田信長は15代将軍足利義昭の居城二条御所を作る際、細川藤賢(細川典厩家の細川尹賢の子として生まれ、細川高国の養子となり室町幕府最後の管領となった細川氏綱の弟)の屋敷の庭にあった、この「藤戸石」を運ばせている。
かくれなき藤戸石を。上京細川殿屋敷より室町畠山様御屋敷へ信長公(三宝殿)御引なさるゝ
細川右馬頭庭之藤戸石、織弾(信長)三・四千人にて、笛鼓にて囃之、勘解由小路室町迄、日暮之間、御堀之内へハ不入云々、見物了、驚目者也
御庭には、東山慈照院殿祕藏し給ひし九山八海といへる大石、細川が館に居たりし藤戸といへる名石を始め、國々の奇樹怪石を盡し、
- 石を運ぶ作業の指揮は信長自らが行い、石を綾錦(あやにしき)に包み、三千人の人夫を使い、笛や太鼓ではやし立てながら二条御所へ移した。3月3日の1日だけでは移しきれず、翌4日に堀の内側へと引き込んだという。
御殿の御家風尋常に金銀をちりばめ、庭前に泉水、遣水、築山を構へ、其の上、細川殿御屋敷に藤戸石とて、往古よりの大石候。
是れを御庭に立て置かるべきの由にて、信長公御自身御越しなされ、彼の名石を綾錦を以てつゝませ、いろいろ花を以てかざり、大綱余(あまた)付けさせられ、笛、太鼓、つづみを以て囃し立て、信長公御下知なされ、即時に庭上へ御引付け候。其御普請の時。 大石の數百人しも引かぬが有けるを。 信長公さひを取て。 たゞ一聲えいや聲を出し給ひければ。鳥の飛がごとく行けるとなり。
三月三日、丁未、天晴、
一細川右馬頭庭之藤戸石、織弾三四千人にて引之、笛鼓にて囃之、勘解由小路室町迄、日暮之間、御堀之内へハ不入云々、見物了、驚目者也、
四日、戊申、天晴、天一天上今日迄、
一昨日之石、堀之内ヘ引入之云々、
- この時、信長は藤戸石以外の名石も集めており、慈照寺からは九山八海石を移している。
庭前に泉水遣水築山を構、其上細川殿御屋敷ニ、藤戸石とて往古より乃大石候、是を御庭に可被立置之由候而、信長御自身被成御越、彼名石を綾錦を以てつゝませられ、色々乃花を以てかざり、大縄餘多付させられ、笛太鼓つゝミを以てはやし立、信長被成御下知、卽時に庭上へ御引付候、并東山慈照院殿御庭に、一年被立置候九山八海と申候て、都鄙名石御座候、是又被召寄、御庭に居させられ、其外洛中洛外之名石名木を集、眺望を盡し、同馬場には櫻を植、號櫻馬場、無殘所被仰付、其上諸侯之御衆、御構の前後左右に、思ゝゝの御普請、歴ゝ甍を並刷御安座
豊臣秀吉〔聚楽第〕
- その後豊臣秀吉が聚楽第を造る際に移築された。
足利義昭の御所であった二条御所は、義昭の京都追放後天正4年(1576年)には解体されたとされている。その後約10年間いかなる経緯を辿って聚楽第に運び込まれたのかについては明らかではなく、醍醐寺三宝院に運び込まれる前に「聚楽御屋敷」にあったことだけがわかっている。
- なお吉備地方では、この浮洲岩(の一部とも)を秀吉の時に取り寄せ、宇喜多家臣・戸川肥後守が奉行して京に運んだという伝承が残っているようだ。
- いずれにしろ、すでに江戸中期頃には「吉備の穴海」は埋め立てられつつあり、浮洲岩の周囲は小沼を残して埋まっていたことが記述されている。
浮洲といふは謠曲藤戶に現はれた浮洲岩のことで、藤戶寺の西方四町ばかりの田間に在り、往昔海潮の往來せる頃には、此岩恰も海上に浮べるやうに見えたので、其名を得たのであらう。豊太間諸國の名石を取集められた時に此岩の一個を都に召上せられたが今醍醐三寶院の庭に在つて、藤戶石と呼ばる。其後寬永年中、新田開發の頃より殘の岩も全く土中に埋もれ、今其の周圍は小沼を成し、其上に浮洲岩といふ一竿の標石を建てゝある。
- また、そのため正保2年(1645年)に命により石碑を建て、(浮洲岩周囲にあった)岩を掘り起こしたのだという。
浮洲岩は、粒江村にあり。正保二年に石塔立つ。高サ七尺二寸。并元祿十一年潮通しの溝同じく通り道等出來、同十三年浮洲への道しるべの石立つ。鞭木より浮洲へ六町、藤戶寺より浮洲へ四町卅間。
醍醐寺三宝院
- さらに慶長3年(1598年)4月9日には醍醐寺三宝院の庭園へと移った。この時秀吉は、寺領千石か藤戸石のいずれかを選ばせ義演は藤戸石を望んだと言う。三宝院ではこの石を「千石石」とも呼んでいる。
二月二十日晴、太閤今日御成、直ニヤリ山ヘ登山、其後門跡ヘ渡御、御膳御賞翫、予御相伴、泉水ノナワハリ、中島ニ護摩堂檜皮葺一宇、橋ヲカケ滝ニ筋落サルヘキ御工也、聚楽御屋敷ヨリ名石可引由被仰出了、泉水ノ餘水櫻ノ馬場ノ中ニ横三間ニ可掘下被仰出了、
- 3月15日には醍醐の花見が行われるがそれには間に合わず、三宝院の庭園工事は4月から行われた。9日には奉行の新庄越前が来て縄張りを行い、9日には藤戸石が運び込まれる。
九日晴、金剛輪院(醍醐寺三宝院)泉水へフヂト大石今日居了、主人石ニ用之、奉行新庄越前(越前守直忠)、此外大石三ッ立之、手伝三百人来
- 工事は13日に終了し、14日に秀吉にも報告された。
十四日晴及晩雨降、金剛輪院泉水昨日悉出來、奉行竹田梅松同御手伝新庄越前同平塚因幡、今日太閤御前ヘ罷出申入之由、申了、珍重、
- 醍醐寺の由来と醍醐寺に移すきっかけとなった「醍醐の花見」については桜の項を参照。
現在
- 藤戸石は、歴代の天下人に引き継がれたことから「天下人が所有する石」、「天下の名石」と呼ばれ、現在も醍醐寺の三宝院庭園の主人石として残る。
- また藤戸石のあった海岸線はその後大きく変化し、現在は岡山県倉敷市北東部の田園地帯の真ん中に「浮洲岩跡」が残されている。
- 浮洲岩跡 - Google マップ
瀬戸中央自動車道と倉敷川の交差する地点から数百m南。その更に1kmほど南には平家本陣跡も残る。
- 浮洲岩跡 - Google マップ
- 「浮洲岩跡」の東方には藤戸寺(山号 補陀落山)がある。寺伝によれば、戦後佐々木盛綱は、戦乱で荒廃した寺院を修復し、漁夫の魂を弔うために大法要を営んだという。同寺は、日本で沙羅双樹とされるナツツバキでも知られており、毎年6月中旬の数日だけ客殿が開放され、「沙羅の花を観る会」が催される。また毎月21日には「藤戸のお大師様」の縁日が開かれる。
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