大内家五名剣


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 大内家五名剣(おおうちけごめいけん)

大内氏に伝来した五本の名物

Table of Contents

 概要

  • 大内氏は、周防・長門、石見、豊前、筑前の守護を努め、守護大名から戦国大名に成長し毛利元就登場まで中国北九州の覇者であった
  • この大内氏に5本の名剣(薙刀含む)が伝わっており、同家では重宝とした。

    大内家重代ノ宝剣ニ、千鳥・荒波・乱髪・菊作・小林トテ五口アリケリ

 千鳥一文字

 荒波一文字

  • 享保名物荒波一文字」。二尺一寸五分。
  • 弘治3年(1557年)に大内氏が滅亡した際、杉民部大輔はこの荒波一文字で野上隠岐守を介錯したという。
  • のち足利将軍家から所望され、結果的にこの荒波一文字は足利将軍家に伝わる。しかし義輝の子が早世したこともあり、厳島に戻る。
  • のち毛利輝元が社領三千石を納めるのと代わりに取り出し、家康に献上。
    • 荒波一文字」の項参照

      (天正11年5月20日)是より先、毛利輝元、安芸厳島社をして羽柴秀吉に贈る太
      刀を出さしむ、是日、之を謝して地を寄す。

  • さらに越前松平忠直に与えられる。
  • さらに後、同じ越前松平家に二尺三寸二分で銘則房の「荒波一文字」が伝わるが、これは井伊家から来たものだと言い、忠直が拝領したものと同物かどうかは不明。

同名刀に織田信長が命名する「荒波一文字」があり、どうも織田信忠を経由して秀吉に伝わったと思われる。しかしこれは失われた可能性が高い。
 つまり、1.信長から信忠を経由して秀吉に渡ったらしい銘一の荒波一文字太閤御物刀絵図享保名物帳)。 2.大内五名剣で毛利から家康、越前松平忠直に渡った荒波一文字。 3.同じ越前松平家ながら津山藩に伝わった「荒波一文字」(二尺三寸二分、銘則房) 
の3口が別々にあった可能性が高い。1.は後に享保名物となるが当然その時には「不知所在」となっている。1の特に太閤御物と3は銘からして完全に別物である。2と3は同物かどうかが判断できない。

 乱れ髪

  • 足利将軍家から所望され、結果的にこの乱れ髪は厳島に戻る。

 菊造り

 小林薙刀

  • 薙刀。刃長二尺五寸六分。
  • 明徳の乱において、大内左京大夫義弘が小林上野守を討ち取った際に使用した薙刀。


 経緯

 五名剣厳島神社

  • 弘治3年(1557年)に大内氏を滅ぼした毛利元就の子、毛利隆元がこの五名剣を手に入れる。しかし、隆元はこれを厳島神社に奉納している。

    山口滅亡ノ時吉田ヘオクリシカバ、毛利隆元コレヲ見タマヒ、予ハ義隆ノ扶持ヲ以テヒトゝナレゝバカノ家ノ宝物ミダリニ取ヲサムベキニアラズ、シカシ大明神ニアズケマイラセンニハトテ当社へ納メタマヒケリ

    去間大内殿重代ノ千鳥、荒波、亂髪、菊作、小林ノ長太刀、思々ニ取持吉田ヘ進上處、右馬頭隆元請取給ヒ、我等事ハ義隆ノ以扶持家ヲ()たる毛利成ハ、御恩忘サル我成レハ、防長兩國之事茂不寄存共敵進ハト存智行ス、彼大内殿御重物我家ニハ如何メシ、大明神ヘ預ケ寄進仕給フ、小松殿ノ()分思出ル、

 乱れ髪」→義輝へ

  • のち室町将軍足利義輝から「荒波」と「乱れ髪」を見たいと所望されたという。この時は寄進の経緯を説明し、「乱れ髪」だけを送ったと思われる。

    然所ニ荒波ノ刀上意ニ御覧在度之由候て、御奉書度々アリ、此由棚守ニ吉田ヨリ被仰聞處ニ、房顕申事ニハ、平家清盛御時代之事ハ不及申、頼朝以来御代々にハ、天下ヨリ銘物ノ御太刀刀共ヲ御寄進社候ヘ、御神物御所望ノ御事ハ不存之由ヲ度々申上尤ノ申様也、然者對吉田此等之段以狀可申之条、棚守房顕カ狀ニ進處彼狀ニ荒波亂髪ヲ房顕カ狀ヲ相副、天下ヘ上せ給ふ、

  • 乱れ髪」を返却し、代わりに「荒波」を送ってこいという催促。

    内々之儀門跡(道増)迄申下處、則號亂髪刀到来、悦喜候、就其荒波事聞及之条所望候、於様躰者、聖護院門跡可有演説候、差下櫻本、亂髪先返遣候、猶委細信孝(上野)申候也、
       四月廿九日(永禄三年カ)  御判
              毛利陸奥守とのへ
              同大膳大夫とのへ

    陸奥守:元就、大膳大夫:隆元。任官は永禄3年(1560年)の正親町天皇の即位式以降であり、同年中と見られている。道増とは聖護院門跡の道増(1508-1571)。近衛尚通の子で、聖護院門跡となった。足利義輝の意を受け、永禄4年(1561年)には毛利元就と尼子義久の、さらに永禄6年(1563年)には毛利元就と大友宗麟との調停にあたった人物。准三宮、大僧正。

 「荒波→義輝へ

  • しかし数年後、上野信孝を寄越して強引に「荒波」を献上するよう言ってきたために、仕方なくこれを都に送った。※長々と書いているが要するに神罰が下ると脅しているが結局は渡した。

    一兩年過て上野兵部大輔(信孝)殿ヲ御下シ在、彼荒波ノ爲替爲替先度進上被申シ亂髪ヲ持下リ、是非共荒波御上覧在度之由被仰ケハ、吉田一乗院ヲ上野殿ニ相副渡海条、棚守重而不及難受、可進上覺悟ス、然處ニ石州(邑智郡)ニ逗留長永ト云シ出家候しか、於當社十端十万枚ヲ執行度之由被申ル間、四月廿八日護广行事執行、神前ノ御事成ハ、宝藏繪本取出懸サスル處ニ、カナ(巨勢金岡)若カ不動一フク()失ル、無勿躰ト沙汰スレ共、うセタル間不及力ニ處ニ、五月廿八日荒波ヲ取出日、客人御前上シトミノ上ニ此繪在タリトテ、宮ハウヘ持來ル、是社先日ニ失タル不動成トテ、事ノ子細共書付、荒波執出日宝藏ヘ奉納ル、去間荒波ノカハリニ亂髪ヲ奉納申、荒波ヲ取出シ於神前御番ノ上奉置リ、此刀神慮ヲ不存事成レ共、當社末代御事間、御神ヘ御返し有様ニト祈念申、上野兵部大輔殿ヲ神前ヨヒ渡シ申時、天下御代々にハ御鬼神共社候ヘ、神物御所望之儀不成旧例事候ト申渡候處ニ、上野殿返トウ、社管被申様尤ニ存ル、上意にモ御前ニ有相し若輩達荒波ヲ御上覧アラテハナトヽ申セハ、アサ々ト思召タル事にて候、此刀則返し可進之候トヽテ請取歸ルヽ、荒波上レハ在リ

 「荒波」→厳島神社

  • 神罰により義輝の子供が死んだため(記述による)、「荒波」を返して寄越したのだという。この時にひと悶着あり、これは神のおかげだとしている。

    彼荒波常栄寺新當頭堂ノ京都宿坊まて返サルヽ此由ヲ申下ルヽト云ヘ共、此の刀於京都モ卅万疋ハスヘシト在ケレ彼新當堂其儘京ニヲキ返サルヘ沙汰無シ處ニ、彼刀預リ手ノ東福寺ノ堅西堂、隆元ノ遠行成ハ、爲御弔從公様彼ノ堅西東ヲ下郷在ル、比ハ七月六日ナリ、岩國永興寺丹東堂雲州嶋根ノ陣ヘ上リ、七月六日下向シ南ノ民部太夫カ處ニ着處ニ、堅西東、永興寺ノ菊藏主、京都ヨリ同日六日下合、永興寺ノ同宿シ給、然物此荒波ノ刀ヲ持下、新東堂ニ渡ヘキ由物語在ケレハ、其比常栄寺山口ニ下向事ナリ、此刀ノ新東堂ヘ渡ナハ神前ヘ難參しトテ、房顕ヘ此等之段永興寺ヨリ申サルヽ条、色々申理處ニ、堅西東荒波ノ刀棚守ノ宿所ヘ持來リ給フ、同七夕成ハ宝藏ヘ奉納申ス、此刀事ハ永興寺丹東道ノ寄進トスアマリキトク不思儀成仕合成ハ書記置也、宝藏ノ御神物天下ヨリ毛利殿ヘ被遣候ランシャタイ(蘭奢待)、其外寄進ノ太刀刀、御當家ヨリ房顕取付奉ル事也、彼目録宝藏ニアリ、

    ただし荒波を返した先が常栄寺(毛利隆元を弔うために、元就が竺雲恵心を開山として建てた寺)新東堂の京都の宿坊までであり、(非常に高値であったことから)新東堂は返すのが惜しくなっためか東福寺の堅西に預けたという。ところが東福寺は安国寺恵瓊の入っていた寺であり、恵瓊が仕えた213世住持・竺雲恵心は毛利元就及び隆元も篤く信頼していた。この少し前に死んだ隆元の弔問のために堅西はちょうど下るところであったため、永興寺の菊蔵主と共に荒波を持って山口に下ってしまう。山口まで来たところ、永興寺の丹東堂と出会い(同寺の菊蔵主と)刀の件について話したため、驚いた丹東堂は棚守房顕にそれを報告し、堅西を説得して棚守まで戻したのだという。このため永興寺丹東堂よりの寄進となったとする。

  • この経緯はかなりややこしいため整理する。
    • 【常栄寺】:永禄6年(1563年)8月4日に急死した隆元の菩提を弔うために父・毛利元就が竺雲恵心を開山として創建した寺。創建は永禄6年(1563年)。
      足利義輝より「荒波」を預けられたのは、この常栄寺の新東堂の「京都」の宿坊。
    • 【東福寺】:竺雲恵心は享禄3年(1530年)に住持・允芳恵菊の得度を受け、東福寺の末寺であった安国寺で出家。塔頭・退耕庵に住した。
      新東堂が預けたのがこの東福寺の堅西。堅西は永興寺に納めようと山口へ向かう。
      • 天文ころに元就と繋がりを持ち帰依を受ける。天文19年(1550年)に師の恵菊の命により退耕庵を継ぎ庵主となる。天文22年(1553年)には師の恵菊が寂す。また同年に安国寺恵瓊を弟子にする。天文24年(1555年)大内氏に勝利した元就は、恵心を周防国山口の国清寺と香積寺の住持に任命する。永禄元年(1558年)に上洛して退耕庵主、永禄2年(1559年)には東福寺の213世住持。
      • 同寺は公卿との繋がりも深く、朝廷では正親町天皇(践祚は弘治3年)の即位式を行うための献金が必要なことを知り、勧修寺尹豊の依頼も受けて毛利一族の叙任を条件に献金を勧めた。永禄3年(1560年)1月27日に即位式、この功により元就を陸奥守、隆元を大膳大夫、元春を駿河守、隆景を中務大輔に任じ、さらに幕府は隆元を安芸国の守護に任じた。さらに恵心は朝廷から紫衣の着用を許された他、幕府からは師の玄竜と共に南禅寺の住持に任じられている。永禄6年(1563年)8月に隆元が急死すると、常栄寺が建立され開山として竺雲恵心が招かれる。
    • 【永興寺(ようこうじ)】:大内弘幸により鎌倉時代に創建された寺。陶晴賢はこの寺に宿陣して周防を平定するも、毛利氏もこの寺を宿陣として周防を平定している。のち元就、輝元により保護された。
      堅西及び丹東堂はこの永興寺所属。
    • 足利義輝の息子・輝若丸は永禄5年(1562年)4月11日に生まれ、同年7月13日に死去。
  1. 天文24年(1555年):毛利元就、大内氏に勝利
  2. 弘治3年(1557年):厳島神社に五名剣が納められる
    ※ただし実際にはもとから厳島神社にあったものを棚守房顕が献上しにいくと元のまま納めよというありがちな話になっている。同年に正親町天皇が践祚。
  3. この間、足利義輝より「荒波」と「乱髪」の所望
  4. 永禄2年(1559年)に竺雲恵心が東福寺213世住持
  5. 永禄3年(1560年)1月27日:正親町天皇即位式、同年4月に義輝が荒波を所望か?
  6. 永禄5年(1562年)4月11日:足利輝若丸死去
  7. 永禄6年(1563年)8月4日:毛利隆元急死。これを受けて常栄寺建立
  8. 永禄7年(1564年)?:荒波返還
    ※この記事より後に永禄8年の輝元元服の記事がある
  • 結局、初めに預けられた常栄寺(京都宿所)、次に持ち込まれた東福寺、最後に持ち込まれようとしていた永興寺(山口)の3寺+宿所共に毛利家とかなり繋がりを持つ寺であることには違いないが、元の持ち主である厳島神社からすれば、一度義輝により京都に持ち去られた「荒波」が、再度永興寺(の京都出張中の新東堂)に奪われかねない事態であったことが判る。

 その後

 千鳥

  • のち「千鳥」は、天正15年(1587年)に秀吉に献上した。

    七月三日、小倉に御宿陣。(略)関戸の御泊にて、大和中納言殿、大友宗麟父子、毛利輝元、吉川、小早川、御迎に参らる。秘め置きし千鳥の太刀進上す。御腰に差し給ひし忠光の刀を、輝元へ下さる。大友は瓢箪の茶入進上す。何れも無雙の珍寶なり。四日、関戸より陸路を経て十四日大坂御歸城なり。
    (西国太平記)

 荒波

  • 「荒波」は家康に献上している。

    慶長五年二月に、輝元卿、大坂にて、家康公を仰請ぜられ、珍物を蓋し御振舞ありて、御兄弟の御契約を調へ給ふ、(略)荒波といひし刀を、輝元より家康公へ献ぜられし、此刀は、千鳥・荒波とて、厳島明神の寶蔵にありしを、輝元、社領三千石永代寄進ありて、此ニ腰の刀を、神前より申下し給ひ、千鳥をば、先年秀吉公へ献ぜしめ給ひ、荒波をば、今度家康公へ進ぜられしなり

 乱れ髪

  • 乱れ髪も毛利輝元が取り出したことがわかっているが、その後は不明。ただし天保頃の「厳島図会」に記載あり。

 その他

  • 残りの菊造りと小林薙刀と合わせて天保頃には行方不明となっている。

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