小林薙刀


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 小林薙刀(こばやしなぎなた)

薙刀
号 小林長刀
刃長二尺五寸六分、茎長一尺五寸五分五厘

  • 明徳2年(1391年)の明徳の乱で、足利将軍側の大内左京大夫義弘が振るった薙刀。
  • 大内義弘は小林上野守と組み打ちになり、薙刀を内兜に突っ込み、さらに片股を斬り落とし、小林上野守を討ち取ったという。
    • 戦いの経緯については「小林国行」の項参照

 由来

  • この戦いで大内左京大夫義弘が振るった薙刀は、その後「小林薙刀」と名付けられ、大内家滅亡まで所蔵された。

    義弘ガ其日ノ装束ニハ、練貫ヲカチンニ染テ威タル鎧ニ同毛ノ五枚甲ノ緒ヲシメテ、二尺八寸ノ太刀ヲ帯キ、青地の錦ノ母衣ヲカケ、三尺一寸ノ荒身ノ長刀ヲ引ソバメテ近付ク敵ヲ待懸タリ(明徳記)

 来歴

 大内氏

  • 大内氏では、荒波、千鳥、乱髪、菊作、小林薙刀の5つを大内家五名剣と呼び秘蔵したという。

    大内家重代ノ宝剣ニ千鳥・荒波・乱髪・菊作・小林トテ五口アリケリ

  • 「小林薙刀」を奮って奮戦した大内義弘は足利義満の勢力拡大に寄与し、周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊の六カ国の守護となり大内氏最大の版図を築き上げる。しかし次々と有力守護大名が滅ぼされていく中、遂には大内氏もその対象となり、応永6年(1399年)に応永の乱を起こすも敗死した。
  • その後も大内氏は西国の守護大名として勢力を維持し、応仁元年(1467年)から始まる応仁の乱では大内政弘が山名宗全の西軍に属し、宗全の没後に山名氏が戦線を離脱すると、西軍における事実上の総大将になっている。
  • 政弘の跡を継いだ大内義興は、少弐氏を一時滅亡に追いやるなど北九州・中国地方の覇権を確立、その勢力基盤を確固たるものとする。さらに流浪将軍の足利義稙を保護し、永正5年(1508年)には細川高国と協力して上洛を果たしている。
  • 跡を継いだ大内義隆の頃には周防・長門・石見・安芸・備後・豊前・筑前を領して名実ともに西国一の大名となり、キリスト教を保護するなど大内文化と呼ばれる全盛期を築いた。しかし後年は政務に興味を失ったことで、陶晴賢ら武断派の台頭と文治派との分断を許し、遂には天文20年(1551年)に陶晴賢の謀反により自害に追い込まれた。
  • その後は陶晴賢の専制とそれに対する反発から国内体制が崩壊しはじめ、毛利元就が叛旗を翻すと戦国大名大内氏は瓦解した。

 厳島神社

  • 大内氏滅亡後、「小林薙刀」など大内家五名剣は毛利氏により厳島神社に寄進される。

    系図に、「此時義弘所持之長刀、号小林長刀為家珍」とあり、此刀大内氏滅亡の後、毛利氏厳島神社に奉納して神庫にあり。
    明徳記三尺一寸とするはあやまりにて刃長二尺五寸六分、茎長一尺五寸五分五厘、刃頗る欠け、且切込もありて当日の力戦を想像せらるる品なり。実に小林と名づけしもことわりとおもはる。
    (大内家実録)

  • 天保13年(1842年)刊行の「厳島図会」の時点で、乱れ髪以外は行方不明となっている。

    荒波ハサラニモイハス、千鳥、小林、菊作ノ三口モイマ宝庫ニ見エサルハ、イツウセタルニカ惜ムヘキノキハマリナリケリ

 関連項目


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