吉備大臣入唐絵巻

※当サイトのスクリーンショットを取った上で、まとめサイト、ブログ、TwitterなどのSNSに上げる方がおられますが、ご遠慮ください。

吉備大臣入唐絵巻(きびのおとど にっとう えまき)  

紙本着色四巻
アメリカボストン美術館所蔵

  • 平城期の遣唐使吉備真備の入唐を描いた絵巻物で、日本古美術界伝説の名品。もし国内にあれば国宝指定は間違いない逸品とされる。
Table of Contents

概要  

  • 元は全長24.521メートルに及ぶ一巻の巻物であったが、昭和39年(1964年)東京オリンピックに合わせて里帰りした際に、保存や展示の便宜を図るため四巻に改装された。
  • 絵巻の内容は、陰陽道の祖とも言われる吉備真備(吉備大臣)が唐の玄宗に謁見した時に、野馬台詩(やまたいし)の元となる暗号文の解読を命じられた。
  • 真備が日本の神仏に祈ったところ、その才能に嫉妬した楊国忠と安禄山により幽閉され34歳で憤死し幽鬼となったとされる安倍仲麻呂に導かれ、蜘蛛が下りてきて「亞」文字の形に這ったため、解読に成功し無事帰国を果たしたというものである。
  • この物語は大江匡房の「江談抄」にも記されている。

吉備大臣入唐記繪詞
 
吉備大臣入唐記繪巻物 一軸
  繪 土佐光長 詞書 吉田兼好
              奥書 烏丸光廣卿
       巻物 幅一尺六分  總長 七丈四寸八分
       表紙 裏金銀砂子圍扇形  軸 象牙紐紫
       箱 花櫚石畳  蒔繪 覆茶金襴四ツ手
 
(唐土上陸)
一繪 一丈四尺一寸五分 十三枚繼
二詞 三尺七寸五分三十七行 二枚繼
三繪 一丈一尺三寸五分 六枚繼
四詞 二尺六寸五分二十四行 二枚繼
五繪 四尺六寸 五枚繼
六詞 一尺六寸十四行 一枚
七繪 一丈 五枚繼
八詞 一尺七寸八分十一行 一枚
九繪 六尺 三枚繼
十詞 一尺八寸五分十一行 一枚
 
(圍碁制勝)
十一繪 一丈一尺一寸五分 七枚繼
奥書 一尺六寸十行 一枚

奥書  

  • 烏丸光広による奥書。

    右吉備之行狀の圖畫。詞書吉田兼好法師眞蹟。奇觀
    無双也。總此筆者繪之詞書往々有之。心如畫工
    若躭這言者歟。
      寛永十三年霜月上旬
               亞 槐 藤(押)

    亜槐は大納言の唐名

来歴  

平安期  

  • 「吉備大臣入唐絵巻」は、12世紀頃に後白河法皇の命により作成されたという。
  • 「伴大納言絵巻」、「年中行事絵巻」、「彦火火出見尊絵巻」などとともに、蓮華王院三十三間堂に奉納された。
    ・「伴大納言絵巻」は現国宝。出光コレクションとして出光美術館所蔵。今村紫紅による写本が東京国立近代美術館所蔵。
    ・「年中行事絵巻」は原本が焼失し写本17巻のみが残る。
    ・「彦火火出見尊絵巻」は福井県の有形文化財で明通寺所蔵。「紙本著色彦火火出見尊絵巻

室町期  

  • 嘉吉元年(1441年)には「伴大納言絵巻」、「彦火火出見尊絵巻」と共に若狭遠敷郡松永荘の新八幡宮に疎開していた。
  • 「看聞御記」の嘉吉元年(1441年)4月26日条にこの絵巻が新八幡宮にあることが記されている。

    廿六日、雨降、公方へ岩梨一合、紫竹六束進之、内々被進、御返事悦奉、抑若州松永庄新八幡宮ニ有繪云々、浄喜申之間、社家ヘ被仰て被借召、今日到來、有四巻、彦火々出見尊繪二巻、吉備大臣繪一巻、伴大納言繪一卷金岡筆云々、詞之端破損不見、古弊繪也、然而殊勝也、禁裏爲入見参召上了、典侍殿泊瀬下向願書奉納、其刻有吉端云々、珍重也、

    なおこの"新八幡宮"については現存せず、なぜ疎開先として選ばれたのか、また存在した場所についても若狭松永荘ということ以上はよくわかっていない。

明通寺・木下長嘯子  

  • 一時期、明通寺(福井県小浜市)の寺宝となった後、豊臣秀吉正室高台院の甥である木下勝俊(木下長嘯子。小早川秀秋の異母兄)が文禄2年(1593年)若狭国主となった際に献上された。勝俊は、世を捨て隠棲した後も「吉備大臣入唐絵巻」をある程度の期間所持したらしく、烏丸光広などの鑑定書が現在まで付属している。
    烏丸光広は細川幽斎から古今伝授を受けた人物。その時に贈られたのが「古今伝授の太刀」である。

流転・海外流出  

  • その後は、豪商三木権太夫、三井伊皿子家第四代当主の三井三郎助高年、小浜藩主の酒井家と渡り、大正12年(1923年)6月14日酒井家が遺産分与のために東京美術倶楽部で開いた売立に掛けられる。

    若州酒井家は安政年間京都所司代を勤めた先々代温良院忠義が道具蒐集上世に大鰐の異名を取つた程の大好事家であつたから、道具持舊大名中屈指の大家であるが、先代忠道伯薨去後當主忠克伯は其兄弟に財産を分配するが爲め、若干の縁故品を除くの外所有名器の大部分を賣却する事となつた。而して其相談相手には益田孝男を選み、男の宰領にまかせて之を賣却する方法を講じた。而して最初は大阪の茶器商戸田彌七を主盟と爲し、東西道具屋聯合圍の一手に之を買収せしめた上、更に之を仲間入札に附するの提案を立て戸田をして先づ其の道具百數十點を評價せしめしに、總額百二十萬圓前後となつたので、此評價額を以つて愈々之を戸田等に引受けしめんとせしに、彼の聯合圍に加はる筈なりし道具屋中、最初の氣勢にも似ず漸く尻込みする者が出來たので、種々協議の末遂に入札賣却に決し、六月十四日愈々之を決行した處が、其賣上總額は道具屋引受値段の倍額即ち二百四十餘萬圓に達したので、皆々聯合引受けを爲さゞりし不明を悔いたさうである、而して此入札は點數の少い割合に悉皆名品揃ひであつたから、一點當りの高價は勿論空前と稱すべく、一萬圓以上の品々が實に左の多數に上つたのである。
         大正十二年六月十四日
                        於東京美術倶楽部
       品目
    光長筆吉備大臣入唐繪巻物  金十八萬八千九百圓 戸田

    幕末の天保・安政期に京都所司代に任じられた酒井忠義は、茶器の蒐集家で知られ、不昧公以来の蒐集家とも言われる。幕末に本願寺や三井八郎右衛門家などから多くの名器を買い取り、道具持ち大名の中でも大家であった。維新後に隠居すると浅草三好町にあった梅沢安蔵の店で美術品を物色したという。明治6年(1873年)没
     忠義の跡を継いだ伯爵酒井忠道が大正9年(1920年)に死ぬと、跡を継いだ長男の酒井忠克は兄弟に財産分与をするために祖父忠義が収集した名器を売却することになり、売立を開催する。相談を受けた札元の戸田露朝は、一切を百万円での買い取り方を打診されたが、その額の大きさに結局共同での買い取りも実現せず、売立による入札になったという。結果的に酒井家の売立は総額240万円という巨額の売上となった。

  • 大阪の骨董商戸田商店の4代目戸田露朝が競売に掛けられていたこの絵巻を十八万八千九百円(約2億円)で落札した。
    当時の売立は、顧客の代理人である美術商が札元となって入札し、手数料により利益を生み出す仕組みとなっていた。この売立の際、戸田商店は藤田財閥の2代総帥藤田平太郎の依頼を受けて落札しており、それにより得た利益十七万ほどをすべて注ぎ込んで手張りで落札したものであった。
     藤田財閥創立者は藤田伝三郎で、大阪市都島区にあった藤田家本邸の跡地は現在は藤田美術館となっており、その他隣接する太閤園、また平太郎が山県有朋から買い取った椿山荘、元三井家所有の箱根小涌園などは現在も藤田観光株式会社の所有である。
  • 戸田はすぐに売りに出そうとするが、3ヶ月後に発生した関東大震災および昭和2年(1927年)昭和金融恐慌による不景気により国内では買い手が見つからず、10年弱所持することになる。困った戸田は、古美術を海外に売っていた山中商会に斡旋を依頼する。
    山中商会は戦前に英王室のロイヤルワラントを持っていた唯一の日本美術商。明治時代以降ニューヨーク、ボストン、シカゴ、ロンドン等に支店を設けて日本美術品を輸出しており、ロンドン山中商会は1919年12月1日にジョージ5世、1920年2月10日にメアリー王妃よりロイヤル・ワラントを受けている。
     なお震災の3ヶ月前に巨額の売立で話題となった酒井家は、関東大震災の被災者のために30万円を寄付したという。
  • そして昭和7年(1932年)、当時ボストン美術館東洋部長を務める富田幸次郎が来日して購入し、ボストン美術館に所蔵されるに至った。
    富田幸次郎は16歳の時に渡米し、明治40年(1907年)17歳で岡倉天心に見出されてボストン美術館で働き始めている。昭和6年(1931年)から昭和12年(1937年)まで東洋部長。同館の中国美術コレクションを日本美術コレクション並のレベルに引き上げた。昭和37年(1962年)まで同館で働き、もっとも長くボストン美術館に貢献した日本人として知られる。

国宝保存の気運  

  • 当時「吉備大臣入唐絵巻」の海外流出は大きな話題となり、日本国民の憤激を買う形となった。ボストン美術館の富田幸次郎は「国賊」呼ばわりされたという。
  • しかし当時の旧国宝保存法では、絵巻物などの古美術品等は保護の対象となっていなかったため、富田は正規の取引を行ったに過ぎなかった。

    あの時分で六、七万ドルだったが、今ならなんでもないけど、そのときは大きなものだった。だからといって、日本で出せないことはなかっただろうが、なぜ買わなかったのかと思ったものである。私は売りに出ているから買った。誰も買い手がなかったから買った。(富田幸次郎の述懐)

  • 実際、ボストン美術館でも「吉備大臣入唐絵巻」購入のためにビゲロー・コレクションなど数十点を処分して購入資金を捻出したという。
  • 大正頃の美術品売買は茶道具を主眼として動いており、現在では、この「吉備大臣入唐絵巻」は絵が中国風であり茶道具に適さなかったことが当時買い手がつかなかった理由であるとされている。
    大正6年(1917年)に売立に出された「佐竹本三十六歌仙絵」の場合、35万3千円(現在の価値で36億円あまり)の値がついている。その後大正8年(1919年)に売りに出された際には単独で落札できる人物が出なかったために、やむなく歌仙絵は37枚に分割されてしまい、現在その半数ほどが個人蔵であり、幾つかは行方不明という状況にある。これを思えば、「吉備大臣入唐絵巻」が国外で有数の日本美術コレクションで知られるボストン美術館で保管されているのは、むしろ幸運であるとも言える。
  • いずれにしろ、この「吉備大臣入唐絵巻」の海外流出を受けて国内では美術品保存の機運が高まり、日本の古美術品等の海外流出を防止することを目的として翌昭和8年(1933年)に「重要美術品等ノ保存ニ関スル法律」が制定された。

里帰り展示  

  • 「吉備大臣入唐絵巻」はボストン美術館の東洋部でも重要なコレクションのひとつとなっているが、これまでに東京オリンピックの1964年を皮切りに、1983年、2000年、2010年、2012-13年の5度、里帰り展示を果たしている。

インターネット公開  

史実の阿倍仲麻呂  

  • 絵巻では「34歳で憤死し幽鬼となった」とされる安倍仲麻呂だが、史実では阿倍仲麻呂は73歳まで生きている。
  • 吉備真備と阿倍仲麻呂は共に第9次遣唐使として養老元年(717年)に入唐する。
  • 吉備真備は天平7年(735年)に帰国するが、天平勝宝4年(752年)に再度入唐しており、鑑真らと共に帰国している。
  • 一方阿倍仲麻呂は唐でのさらなる官途を目指したために帰国せず、天平勝宝4年(752年)にようやく第12次遣唐使一行と共に帰国を図るが、南方に流されるなどし結局仲麻呂一行は天平勝宝7年(755年)には長安に帰着している。この年、安禄山の乱が起こったことから、遣唐大使藤原清河の身を案じた日本の朝廷から渤海経由で迎えが到来するものの、鑑真一行も乗船を希望したため唐朝は行路が危険である事を理由に清河ら一行の帰国を認めなかった。
  • 結局副使の大伴古麻呂が独断で鑑真を乗せ、11月に遣唐使船4隻は楊州を出向する。第一船から第三船までが阿児奈波島(沖縄本島)に到着し、再出港するが第一船は逆風に遭い驩州(現在のベトナム北部)に漂着してしまう。ここで土人の襲撃を受けてほとんどの船員が殺害され船も壊されるが、清河と仲麻呂は僅に身をもって逃れ長安に帰着する。
    しかし他の三船は無事日本に帰国しており、第二船に乗った鑑真はその後、屋久島、大宰府を経て平城京に到着。聖武上皇以下の歓待を受け、孝謙天皇の勅により戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、東大寺に住することとなった。
  • その後も日本への帰国は叶えられることなく、阿倍仲麻呂は宝亀元年(770年)1月に唐で73歳の生涯を閉じた。
    つまり吉備真備の二度目の帰国の時にも実際には阿倍仲麻呂は存命中であり、この絵巻で描かれる幽鬼となった阿倍仲麻呂とは矛盾する。望んだが帰国できなかったという阿倍仲麻呂を題材にとった後世の創作である。
  • 帰国を試みた際に送別の宴で故郷を懐かしみ詠んだ歌が百人一首に採録されている。

    天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも
    (7番:阿倍仲麻呂)


吉備真備(きびのまきび)  

奈良時代の学者・公卿

  • 下道真備。
  • 吉備地方の有力な地方豪族吉備氏の一族である下道氏(しもつみち。下道朝臣)下道圀勝の子として生まれる。

最初の入唐  

  • 霊亀2年(716年)遣唐留学生となり、翌養老元年(717年)に阿倍仲麻呂・玄昉らと共に入唐。

朝廷での昇進  

  • 帰朝後は聖武天皇や光明皇后の寵愛を得て、天平7年(735年)中に従八位下から一挙に10階昇進して正六位下に、天平8年(736年)外従五位下、天平9年(737年)従五位上に昇叙されるなど、帰朝後に急速に昇進する。
  • 翌天平10年(738年)に橘諸兄が右大臣に任ぜられて政権を握ると、真備と同時に帰国した僧・玄昉とともに重用され、真備は右衛士督を兼ねた。天平15年(743年)には従四位下・春宮大夫兼皇太子学士に叙任され、天平18年(746年)には吉備朝臣の姓を賜与され、天平19年(747年)に右京大夫に転じて、天平勝宝元年(749年)には従四位上に昇った。

左遷  

  • 孝謙天皇即位後の翌天平勝宝2年(750年)には藤原仲麻呂が専権し、筑前守次いで肥前守に左遷される。
    これ以前にも、天平12年(740年)藤原広嗣が、天地による災厄の元凶は反藤原勢力の要である右衛士督・吉備真備と僧正・玄昉に起因するとして大宰府で反乱を起こしている。

二度目の入唐  

  • 天平勝宝3年(751年)には遣唐副使となり、翌天平勝宝4年(752年)に再度入唐、ここで阿倍仲麻呂と再会する。真備はその翌年の天平勝宝6年(754年)に屋久島さらに紀州太地に漂着するが、鑑真を伴って無事に帰朝する。

造東大寺長官から右大臣  

  • 天平宝字8年(764年)、造東大寺長官に任ぜられ70歳で帰京した。同年に発生した藤原仲麻呂の乱では、従三位に昇叙されて中衛大将として追討軍を指揮し、優れた軍略により乱鎮圧に功を挙げ、翌天平神護元年(765年)には勲二等を授けられた。
  • 翌天平神護2年(766年)称徳天皇(孝謙天皇の重祚)と法王に就任した弓削道鏡の下で中納言となり、同年藤原真楯の薨逝に伴い大納言に、次いで従二位・右大臣に昇進して、左大臣の藤原永手とともに政治を執った。これは地方豪族出身者としては破格の出世であり、学者から立身して大臣にまでなったのも、近世以前では、吉備真備と菅原道真のみである。これにより吉備大臣と称されるようになる。

晩年  

  • 光仁天皇の即位後、真備は老齢を理由に辞職を願い出るが、光仁天皇は兼職の中衛大将のみの辞任を許し、右大臣の職は慰留した。宝亀2年(771年)に再び辞職を願い出て許された。それ以後の生活については何も伝わっておらず、宝亀6年(775年)10月2日薨去。享年83。最終官位は前右大臣正二位。