古田織部


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 古田織部(ふるたおりべ)

戦国時代の武将・茶人
古田重然
従五位下・織部助
利休七哲のひとり

 生涯

  • 古田織部は、美濃国本巣郡の山口城主古田重安の弟である古田重定の子として生まれ、伯父重安の養子となったという。生年は天文12年(1543年)という。
  • 通称左介。のち織部正を自称したという。
  • 父の重定も「茶道の達人也」という。
    古田氏─┬重安
        └重定─┬重然(織部)─┬重嗣(重広)
            ├重則     ├重尚(前田利常家臣)
            └重続     ├重広(池田光政家臣)
                    ├重行(豊臣秀頼家臣)
                    └重久
  • 古田氏は美濃の守護大名土岐家に仕えていた。永禄9年(1567年)に織田信長が美濃に侵攻すると、古田織部は家臣として仕えている。上洛軍に従軍し、永禄11年(1569年)に摂津茨木城主中川清秀の妹・せんと結婚する。
  • 本能寺の変ののちは秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦いでも軍功をあげている。
  • 天正13年(1585年)に秀吉が関白になると、重然は年来の功績を賞され従五位下・織部正に任ぜられた。

 茶人

  • 天正10年(1582年)から千利休の書簡に重然(織部)の名前が見え始め、これまでに利休と知り合い、弟子入りしたとされる。「利休七哲」のひとり。
  • 天正13年(1585年)には従五位下・織部助に叙任された。
  • 文禄の役では、肥前名護屋城の二の丸に150人を率いて入っている。
  • 慶長3年(1598年)秀吉の形見分けでは、御伽衆として金10両を贈られた。
  • 慶長4年(1599年)5月22日、大徳寺111世の春屋宗園から「金甫」の道号を授かっている。

 関ヶ原・大坂の役

  • 慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いでは東軍に与しており、この頃に2代将軍秀忠の茶の湯の指南役にも抜擢されている。また7千石を加増され1万石を領している。
  • 慶長20年(1615年)の大坂夏の陣のおり、古田織部の茶頭である木村宗喜が豊臣氏に内通して京への放火を企んだとされる疑いで京都所司代の板倉勝重に捕らえられてしまう。
    木村宗喜は、享保名物宗喜貞宗」に名を残す。
  • 織部本人も、冬の陣の頃から豊臣氏と内通しており徳川方の軍議の秘密を大坂城内へ矢文で知らせたなどの嫌疑をかけられ、大坂落城後の6月11日に伏見の自邸で切腹を命じられた。織部はこれに対し、一言も釈明せずに自害したといわれる。享年73。遺骸は大徳寺玉林庵に葬られた。※現在は大徳寺三玄院の墓域に含まれている。

    幕府、古田重然及びその子重嗣に切腹を命ず、是日、幕府、重嗣の室仙石忠政妹、及び仙石宗也久倫、の女の処置を仙石忠政に令す
    古田織部家財被没収云々

  • 来国光」を所持していたという長子の古田重広も時を同じくして江戸の本誓寺で斬首された。重広は仙石秀久の娘と結婚しており娘もいたが、妻子は仙石家にお預けになった。
  • 元和元年(1615年)6月14日、織部の所蔵していた茶道具はすべて家康に没収され、二条城へと送られた。6月20日、家康と秀忠はそれを一覧し、へごみの壺、織部茶さく(竹茶杓)、織部硯などは家康が、また勢高肩衝は秀忠へと分配した。この勢高肩衝は、最初細川忠興が金子500貫で所望するも秀忠が所望していることを知ると遠慮したのだと伝わる。
  • また一山一寧の掛け軸は徳川頼宣へ、頓阿の「続千載集」は建部昌興へ与えられた。堀河三条にあった織部の自宅は藤堂高虎が処分を命じられ、のち高虎のものとなり、のち一部を伊賀上野に移したという。

    六月賜邸于四条堀川、元和元年六月十日伏誅、籍其第、賜公、当時呼為検邸、不知何縁由、古田氏茶室遺址、今尚存矣

 逸話

 利休七哲

  • 天正19年(1591年)、秀吉によって千利休の追放が決まると、利休と親交のあった諸将が秀吉を憚って現れない中、織部と細川忠興のみが堂々と利休の見送りを行っている。

 へうげもの

  • 古田織部の名は、近年、山田芳裕の漫画「へうげもの」で広く知られるようになった。「へうげもの(ひょうげもの)」とは、「ひょうげたもの」から来ており、(ひょう)げるまたは(おど)けるなどの意味がある。
  • 慶長4年(1599年)2月28日、古田織部の茶会に招かれた博多商人で茶人の神谷宗湛は、初めて目にした「織部好み」と呼ばれる歪んだ瀬戸茶碗について、次のように日記に残した。これが「へうげもの」の初出とされる。

    一、ウス茶ノ時ハ セト茶碗 ヒツミ候也 ヘウケモノ也

 ハゲ頭

  • 大坂の役の際に徳川方として従軍していた織部は、月夜の明るい日に茶杓の材料を求めて竹藪に入った。織部は出家していたので頭髪のないハゲ頭であったが、その頭のせいで何やら光るものを大坂方が発見して怪しみ鉄砲を撃った。弾は危うく頭上をかすめたので織部は慌てて陣中に戻ったという。これは佐竹義宣の陣での出来事であったという。

 「破調の美」

  • 織部が用いた「破調の美」の表現法に、器をわざと壊して継ぎ合わせそこに生じる美を楽しむという方法がある。その実例として、大きさを縮めるために茶碗を十字に断ち切って漆で再接着した「大井戸茶碗 銘須弥 別銘十文字」や、墨跡を2つに断ち切った「流れ圜悟」があげられる。

 弟子

  • 茶の湯の弟子とされる人物には小堀遠州、上田宗箇、徳川秀忠、金森可重、本阿弥光悦毛利秀元らがいる。

 関連項目


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