南泉一文字


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 南泉一文字(なんせんいちもんじ)


無銘
名物 南泉一文字
大磨上
重要文化財
徳川美術館所蔵

  • 享保名物帳所載

    南泉一文字 磨上無銘長二尺三分 尾張殿
    昔此刀にて猫を切たる事あり、径山寺南泉の事に依て名けたる由、秀頼公の御物なり、慶安十六年三月廿八日二條城へ渡御の節秀忠公へ上る又拝領。

  • 詳註刀剣名物帳

    南泉の事は傳燈録にも在り、慶安十六年とあるは誤りなり、慶長十六年三月秀頼公二條城へ赴き家康公に対面す此時南泉一文字と則重を贈ると徳川御実紀にあり是なるべし、其のち尾張義直へ贈りしものか今も侯爵家に在り。

  • 鋩子は乱れ込んで焼き詰め風となる。中心は大磨上、無銘。目釘孔3個。
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 由来

  • 号の由来は足利将軍家が所蔵していたころの話で、あるとき研にだしたときに、立てかけてあった刀に猫が触れてしまい真っ二つに斬れたという。

    相伝う、室町家軍府に在る日、工に命じて之を礪がしむ。之を壁に掛くるの際、一猫児あり、跳って刃に触れ、断たれて両段となる

  • このことと、中国の「碧巌録」第63則にみえる禅僧、南泉普願の故事「南泉斬猫」を結び付け、名付けられたという。

 来歴

 足利将軍家

  • 足利将軍家以来の名刀で、後に豊臣秀吉が所持。

 秀吉

  • 豊臣家御腰物帳

    なんせん刀 慶長十六年三月廿八日大御所様被進之
    (御太刀御腰物御脇指 太閤様御時ゟ有之分之帳)

    慶長十六年三月なんせん 一文字御刀 大御所様ゑ被進之
    慶長五年ゟ同拾八年十二月迄 御太刀御腰物御脇指方々被遣之帳)

 家康

  • 慶長16年(1611年)3月28日、豊臣秀頼が京都二条城で徳川家康と会見した際に、家康に贈っている。

    (慶長16年3月)廿八日(略)又京にては秀頼公二條城にまうのぼらる。(略)秀頼公は唐門外にて下乗あり。 大御所玄関前莚道まで出むかへまたひ。御主座は北に設らる。(略) 大御所まづ御盃を遣はさる。其時左文字の御刀(大左文字)。鍋藤四郎の御脇差をひかせ給ひ。此外大鷹三聯。馬十疋をくらせらる。其御盃返し進らせらるゝとて。一文字の刀(南泉)。左文字の脇差(太閤左文字)を捧げらる。此外秀頼公よりは眞盛の太刀。黒毛馬一疋。金三百枚。猩々緋三枚。緞子廿卷進らせらる。此間高臺院の方こなたにおはし御對面ありて。同く御杯まいる。秀頼公又義直卿へ光忠太刀。頼宣卿へ守家の太刀。各金百枚づゝそへて進らせられ。(略)清正は饗席につかず。はじめより秀頼公の側をはなれず。御三獻はてし時。大坂の母君も待わび給ふべし。はや御暇をと申せば。大御所げにもとて歸路をうながし給ふ。かくて二三の間まで送らせ給へば。秀頼公蹲踞ありて。これまで出御恐懼にたへざる旨のべらる。有樂いかにも右府申さるゝ如しと取合せらる。 大御所いかで御送り申さではあるべきとて。また玄關の筵道まで出まし。互に座につき給ひ。慇懃に一拜して秀頼公はまからる。

    途中で登場する「鍋藤四郎」については伝来に混乱があり詳細は不明。享保名物帳で「鍋通し正宗」とされるものと同物であると思われる。

    慶長十六年三月廿八日此日秀頼公二條亭ニ入り玉フ、公ニ謁シテ禮射アリ。秀頼公御進物ノ品々所謂眞守ノ御太刀、助宗ノ御刀南泉ト號、左文字ノ短刀云々

 尾張家

  • その後家康の遺品として尾張徳川家初代義直に贈られた。

    なんせん 一文字 秀頼より
    駿府御分物帳

  • のち将軍家に献上するが、また尾張義直に贈っている。
  • 義直が平岩弥五助に試させたところ、あまりに切れすぎ地面まで斬れ通ったため、弥五助は刀が折れたと早合点し「折れました」と叫んでしまったほどであったという。

    源敬様、平岩弥五助にためさせられしが、南泉と知りたれバ、結句切損じもせんとの事にて、わざと名なしに被成切らせられしに、弥五助一の胴をずんと打ちこミ、はつといふ。奉行いかにといへバ、慥におれたりといふ。驚きて立ちより見れバ、胴も土壇も其下の地もきれて、切先我足ぶみの間へきたり、柄手より切先が手前にありし故、折りしとおもひし由。是より増々名高くなりし。

  • 尾張家2代藩主の光友、3代綱誠、16代義宣らがこれを差し料とした。

    一 御指料 南泉一文字御少刀拵 和ニ作鞘しとゝめ斗
    (慶安四年卯三月 御腰物帳)

    泰心院様いまだ御部屋住のうちに、御ゆづり有。其後ハ来国俊を御ちいさ方になされ由。

  • 9代宗睦は家臣に命じて「南泉一文字記」を書かせている。
  • 延亨3年(1746年)には、城下の研師竹屋九郎右衛門に研がせている。その後は研ぎ継ぎだけで今日に至る。


 南泉斬猫(なんせんざんみょう)

  • 禅の公案のひとつ

    南泉一日、東西の両堂、猫児を争う。
    南泉見て遂に提起して云く、道(い)い得ば即ち斬らじ。
    衆、対(こたえ)なし。泉、猫児を斬って両段となす。

  • 唐の昔、径山寺で東西両堂の雲水僧たちが一匹の猫をとりあっていた(猫の子の仏性の有無について争った)
  • それを見ていた南泉和尚が、猫の子をとりあげ「会得したところを明らかにせよ」といい、禅問答を迫った。
  • 雲水僧たちが答えられなかったため、南泉和尚は猫を一刀両断したという。

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