前田利政


※当サイトのスクリーンショットを取った上で、まとめサイト、ブログ、TwitterなどのSNSに上げる方がおられますが、ご遠慮ください。

OFUSEで応援を送る
Table of Contents

 前田利政(まえだとしまさ)

大納言前田利家の次男
侍従、能登守
羽柴能登侍従

 生涯

  • 孫四郎は大納言前田利家の次男として生まれる。
    加賀藩初代藩主で加賀前田家2代を継いだ前田利長は同母兄、2代藩主のかが前田家3代前田利常は異母弟にあたる。
  • 母は芳春院まつ。
  • 利政と名乗る。
  • 文禄2年(1593年)9月、従四位下・侍従、能登守。
  • 慶長2年(1597年)7月には七尾城に移り住んでいる。
  • 能登一国21万石を領して七尾城主となり、羽柴能登侍従と呼ばれる。

    慶長二年利政能登の口郡羽咋鹿島二十一萬五千石に封ぜらる。

    天正16年(1588年)、慶長2年(1597年)、慶長4年(1599年)説がある。

  • 慶長4年(1599年)利家が亡くなる前に残した遺訓書では、前田軍1万6千のうち半数にあたる8千を孫四郎(利政)配下として国元(金沢)へ戻し、上方にて異変が起きた際にはその8千を引き連れて京へ昇ること、また金沢には留守居役として篠原出羽(篠原一孝)を残すように命じている。

    一、孫四郎義(利政)金沢へ下シ、留守居ニ置、兄弟之人数壱万六千程可有と存候、八千宛為替大坂ニ詰させ、半分金沢ニ在之人数ハ孫四郎下知ニ付候様ニ被申付、自然上方ニ申分出来、秀頼様へ対シ謀反仕者候者、八千之人数孫四郎召連、其時者金沢城之留守ニハ篠原出羽ニ、貴殿(利長)之内にてなしミふかきものを一人相添被置、孫四郎上洛仕、一手ニ罷成候様ニ仕置可被仕候

  • また利家の死後、能登口郡1万5千石を分与されている。
  • 秀吉薨去の際、遺物として貞宗の脇指を拝領。

    太閤様爲御遺物、御脇指貞宗利政公御拝領被遊候。太閤記に、貞宗能登侍従と在之は、則利政公御義に御座候事。

  • 前田利家逝去の際には、国光、国俊吉光の短刀を拝領。

    大納言利家卿御逝去之節、御遺言に而判金千枚、御刀国光、国俊各二腰宛御脇指吉光、此通利政公御拝領被遊候事。御大小已上五腰御拝領之御事。

 関ヶ原

  • 関が原の戦いでは最初、兄・利長と協力して戦い西軍についた大聖寺城の山口宗永を陥れる。
    • この時点では長連龍、長好連、高山右近(南坊等伯)、富田下総、大道寺玄蕃、丹羽織部などを配下武将として従えている。
  • その後前田軍はいったん金沢に引き返すことになる。兄利長は小松城にいた丹羽長重に異母弟前田利常(猿千代)を人質として送って手当したのち再出陣の準備を整える。しかし利政は、利長による催促を受けるも動かなかった。※利政が再出陣しなかった理由は不明で諸説ある。

    是を以て利長は、夙く八月十三日を以て先鋒を發して松任に次せしめ、又書を利政に與へて能登の兵を出さしめんとせしが、利政は逡巡して從はざりき。九月十一日を以て蹶然金澤を發したりしに、能登の諸將は皆之に屬し、殊に長連龍・好運の父子はその先鋒たりしも、利政は獨來り會せざりき。

  • 東軍諸将が勢いに乗り次々と西軍の城を落とす報が入る中、追い込まれた利長は血判状を出して能登における長氏の権利を認めた上で、能登の軍を長氏に率いさせて出陣させている。

    長連龍はその間に奔走して頗る盡力する所ありしが如く、利長は之を嘉して異日利政をしてその子好蓮を祿せしめんことを約し、後之に能登に於いて新知一千石を與へたりき。長氏家譜に、「利政公御異念之品出來之節、連龍公別而忠直之覺悟利長公御感悦、御懇之御諚有レ之、同九月九日御誓書を賜。」といへるもの即ち是なり。

 隠棲

  • 利政は戦後所領を没収された。その後は京都嵯峨の角倉邸に隠棲し宗悦と号す。
    角倉了以の孫、角倉与一玄紀に長女が後妻として嫁いでいた関係。
                        前田利家─┬前田利長
                             ├前田利常──前田光高【加賀藩主家】
                  [土倉業]      └前田利政─┬前田直之【加賀八家 前田土佐守家】
    吉田徳春─宗臨─宗忠─┬吉田光治─栄可┬求和         └娘
               │       └娘           ├──角倉玄通
               │  [医者]  ├───角倉素庵─┬角倉玄紀【与一家 嵯峨角倉】             
               ├吉田宗桂─┬角倉了以(与七)   └角倉厳昭【平次家 京角倉】
               │     │              
               │     └宗恂(意安)
               └吉田光茂──宗運──周庵─┬吉田光長
                             └吉田光由 ※和算家
    
  • 大坂の陣では両陣営から誘いを受けるが、中立を決め込む。
  • 戦後、家康から10万石に取り立てる打診を受けるが、「自分は大野治長の指揮下に入りたくなかっただけで、関東方(徳川氏)への忠節を尽くす行動ではない。もし大阪方へ与さなかったことを賞して自分に禄を与えるのであれば、10万石では不足であり旧領(21万石)を復すことで足る」と辞退している。

    利政曰く、我が大阪に隨はざるは關東に對する忠節にはあらず。一は大野治長・渡邊糺輩の指揮を受くるを欲せざるが爲にして、一は良將を得ざる籠城の萬一にも勝利を得る能はざるを知ればなり。若し徳川氏にして我が大阪に與せざるを賞して祿せんとせば、十萬石は尚之を過少とすべく、單に我が力を假るの要ありとせば舊領を復するを以て足れりと。遂に家康の慫慂をも亦辭せり。

  • ただし大坂の役の後には前田利常の勝利を讃え、芳春院まつの健在を祝賀する書状をだしている。

    二十四日利常の兄利政、書を江戸の生島主計に致して利常の戰績を稱し、又北堂芳春院の健在を賀せり。利政世の成敗を度外視し、豐臣氏に應ぜず、徳川氏に仕へざりしも、尚宗家の繁榮を悦びたりしなり。

  • 寛永10年(1633年)死去。

    利政罪を獲たる後京師に卜居し、祝髮して宗悦といひしが、寛永十年七月十四日市人角倉與市の家に歿す、年五十六。福昌院怡伯宗悦と諡し、紫野大徳寺塔頭芳春院に葬る。

 刀剣

前田藤四郎
前田利政所持にちなむ。重要文化財前田育徳会所蔵
秋之嵐
刀 銘「秋之嵐/織田七兵衛所持」。孫六兼元作。前田土佐守家資料館所蔵
二念仏兼元
斬られたものが二度念仏を唱えてから倒れたという。前田利政所持、前田家伝来。
秀吉公御遺物
秀吉の形見分けでは貞宗を拝領する。

能登侍従(前田利政) 貞宗

 系譜

 前田直之

  • 息子の前田直之(三左衛門)は、父の改易後は祖母芳春院(おまつの方)に引き取られ金沢で養育される。その後加賀藩第3代藩主の前田利常に仕える。
    • ※加賀前田本家を継いだ利常は利家の側室千代保(寿福院)の生まれ。
  • 前田直之は芳春院の血を継ぐ家として、家内でも「加賀八家」として代々筆頭重臣の地位を占め、「前田土佐守家」と称され1万5千石を領し明治まで続いた。

    利政の嫡子直之、後宗家利常に仕へて老臣の班に居る。

  • 小松城代について
    • 前田直之は万治2年(1659年)から延宝2年(1674年)まで小松城代を務めたとされる。

 

  • 六女が生まれていたが、長女は角倉與右衛門室となっている。
  • その他、四辻大納言公理御室、竹屋中納言光久卿御室、岡島備中守孝次御室、神谷治部長治御室、奥野主馬御室となっている。

 関連項目


Amazonファミリー無料体験