三井


 三井八郎右衛門

三井家総領家である北家の当主が代々名乗った名前。
日本刀名物、茶器の名物などを多数所有してきた。

  • ここでは、主に10代高棟氏、11代高公氏が蒐集した日本刀、また三井八郎右衛門家の代々で蒐集されてきた茶器名物を一覧する。
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 概要

  • 三井の創業者である三井高利(八郎兵衛)が、「三井十一家」の礎を築いた。
  • その後、高利の長男・高平の家系が継いでいる惣領家は、代々「三井八郎右衛門」を名乗る。後に南隣に兄弟の高久が居宅を構えたことから、油小路北家または「北家」と呼ばれるようになる。※人々がイメージする三井家の惣領家はこの北家を指す。

 日本刀

 13代三井高福(たかよし)

  • 特に近世の三井八郎右衛門13代三井高福氏が愛刀家でもあった。
  • 固山宗孝を呼び、自分でも刀を作ったという。その作品には、沸で「高福」と焼入れ、また中心に「高福作」と銘した短刀が三井家にあるという。
    固山宗孝:固山宗七。固山宗次の父である固山宗平の子。上総一宮に住した。小烏造り刀長さ二尺一寸五分などがある。
  • 明治18年(1885年)没。

 15代三井高棟(たかみね)

  • 13代高福氏の八男。安政4年(1857年)生まれ。
    高福氏は子沢山で、夭折も含め十男五女に恵まれた。うち13番目の子だという。幼名は五十之助。6歳のときに長兄・高朗の順養子となり、慶応3年(1867年)には「「高」の一字を含む「高棟」の名が与えられ将来の惣領家当主となることが決まる。
  • 明治18年(1885年)に家督を相続して惣領家当主となり、三井八郎右衛門を襲名する。※とはいえ、2年後に昇進した際も三井銀行の精算課長に過ぎなかったという。
  • 明治29年(1896年)男爵を襲爵。
  • 明治42年(1909年)持株会社である「三井合名会社」を設立
  • 明治43年(1910年)如庵を今井町邸に移築。
  • 昭和3年(1928年)如庵の席披き。※句読点を加えた

    三井宗家三井八郎右衛門男は、四月中旬より先年京都より麻布今井町邸に移築せられた織田有樂齋の遺構如庵、卽俗に暦の席と稱する茶席をひらき、連日親近者を招きて、最も莊重にして且つ優雅なる茶會を催された。三井男の東京常住は明治二十一二年頃からだが、最初は深川東大工町に假住し、次いで麹町土手三番町に轉じ、明治四十三年頃現邸宅に引移られた者かと思ふ。而して今度披かれた如庵は、元京都祇園花見小路に在り、織田信長の弟で利休の七哲たる有樂齋長益の創建に係る彼の有樂館の茶席であるが、明治四十一年本館の維持困難となり遂に全坊賣却と決した時三井男が其の茶席の一部即ち如庵及び附屬の廣間を買収して恰も新築中なりし麻布今井町現邸宅に移築せられた者である。左れば此の茶席は移築後即に二十年の歳月を閱して居るのに男が今日まで之を披かれなかつたのには自から深甚なる理由がある。(中略)男には既往四十年實に斯の如き大使命があつたので其間茶事風流方面に向ふの餘暇なる如庵の如きも移築後二十年を閱して今日まで之を披くに至らなかつた次第である。

  • 昭和8年(1933年)に16代高公に家督を譲る。
  • 隠居後は、神奈川県大磯の北家の別荘である「城山荘」に居を移し、自適の生活に入った。
    • 高棟が所有していた建物は、東京今井町本邸のほかに、京都では油小路邸、木屋町別邸、旧後藤家岩栖院別邸、別荘として箱根小涌谷別荘、拝島別荘、そして晩年を過ごした大磯城山荘がある。※東京今井町本邸は東京大空襲で焼失
    • 特に大磯城山荘は、3万8千坪の広大な敷地に、茶室「如庵」を今井町本邸から移築している。※元は明治41年(1908年)に売却されたものを三井家が購入していたもの。昭和11年(1936年)に国宝指定、移築は昭和13年(1938年)。
  • 昭和23年(1948年)2月5日、城山荘で脳溢血で倒れ、4日後に死去。満91歳。
  • 娘たちは三井伊皿子家当主三井高長、侯爵・中御門経恭、男爵・鷹司信熙、子爵・高辻正長(高辻修長孫)の妻となった。
  • 四女の三井礼子は三井永坂町家当主・三井高篤(三井高泰長男)に嫁いだが離婚し、渡部義通と再婚した。孫(娘と高長の子)の博子は豊田章一郎の妻となった。
  • 高棟氏も愛刀家で、吉川賢太郎(皎園)氏が研ぎを行っている研場に上がり込んで二時間も見学をしていたという。

    二時間と言っても研ぎの工程はさほど進むものではない。同じようなことばかり繰返しているわけだが、「砥石の音が実にいいね。それが好きだ」と言って、熱心に手もとに見入っていた。「こちらは日本一の大金持ちだと思うと、肩が凝って仕様がなかった」と、(※吉川氏が)当時を思い出つて述懐しておられた。

  • 蔵刀の大部分はこの高棟氏の時代に購入したものだという。
  • 中央刀剣会の会長をしていた山本悌二郎氏が亡くなった時、そのおびただしい蒐集刀を大量に購入したという。
  • また島津家の売立の際にも多数落札したという。
  • 落札しておいて、名義は三井合名会社や三井本家に分配しており、うち三井合名名義のものは、終戦直後に石島護雄氏が買い取ったという。この中には、昭和37年(1962年)に1500万円で某氏が買取り、当時史上最高額と話題になった国宝吉房も含まれていたという。

 16代三井高公(たかきみ)

  • 15代当主高棟の二男。
  • 明治28年(1895年)生まれ。
  • 大正8年(1919年)に三井八郞右衞門を襲名する。
  • 平成4年(1992年)没。
  • 高公氏もやはり愛刀家で、本阿弥光遜が度々納めていたという。
  • 終戦直後の刀狩りのときには、多数の刀を三井家の名義にしておくのはまずいということで、本阿弥氏や吉川賢太郎氏など3名が呼ばれ、その3名でいろいろな人の名前を借りて分散させたという。
    • 豊後正宗がのち盗難に遭うが、黒塗りに「豊後正宗」と記した立派な箱だけ残る。この時、吉川賢太郎氏は「箱だけあっても仕方ないので上げよう」と言われたそうだが断ったという。のち中身の刀身正宗がアメリカで見つかり、三井家で買い戻している。
  • 日本刀剣保存会の昭和39年(1964年)の秋季特別鑑賞会は、この三井高公氏の大磯城山荘(の如庵)で行われている。

    西大磯の「切通し」というバス停留所で降りると、西の浜辺に吉田元首相の邸宅が静まり返っている。東は城山と言われる丘陵になっている。その頂上に、三井家の別荘が初冬の陽射しをうけて聳えたっている。今日の会場如庵はその東の山裾にあるので

    以上の陳列刀を一通り拝見しおわると、もう正午を回っていた。それで書院の裏にある寄り付き「松声寮」に戻って、昼食をいただいた。壁に「松声」と大書した木額が掛かっている。沢庵和尚の筆である。今日は風がないので聞かれないが、風のある日には、成程、裏山から松声が静かに流れて来ることであろう。

  • その時の三井家からの出品刀(関連刀含む)
太刀
銘 則宗。一文字則宗。刃長二尺三寸。後水尾天皇の差料として太刀拵がつく。天皇家から鷹司家に下賜され、のち三井家に入った。重要文化財指定。
銘 国信。延寿国信。刃長二尺三寸六分。
太刀
銘 国広名物加藤国広」。刃長二尺二寸九分五厘。紀州家から山本悌二郎を経て三井家。
短刀
名物日向正宗」刃長八寸二分。紀州家から山本悌二郎を経て三井家。
短刀
名物徳善院貞宗」刃長一尺一寸六分三厘。紀州家から山本悌二郎を経て三井家。
短刀
来国次。刃長九寸。小田原大久保家伝来、昭和6年(1931年)に三井合名会社所蔵となったが、戦後に神崎正義氏の所蔵となった。

 名物名器

  • 購入(あるいは関係)日本刀のうち著名なもの。
豊後正宗
昭和6年(1931年)9月に行われた大久保子爵家の入札で2660圓で落札している。
加藤国広
山本悌二郎氏を経て三井八郎右衛門11代三井高公氏が購入。
徳善院貞宗
山本悌二郎氏を経由なので、恐らく11代三井高公氏が購入。
日向正宗
昭和2年(1927年)の紀州徳川家の売立に出され、2768円で三井家により落札
北野肩衝
元文年間(1736~1740年)に三井八郎右衛門家で購入しているが、安政2年(1855年)に小浜酒井家に売っている。のち大正12年(1923年)6月14日の酒井家売立に出品され、金十五萬九千二百圓で落札。
遅桜肩衝
徳川宗家伝来。購入時期不明
  • 北家以外
布袋国広(夢香梅里多)
昭和12年(1937年)6月29日に重要美術品指定。三井高修所持(本阿弥光遜氏旧蔵)。平成元年(1989年)に足利市民文化財団が取得。
三井高修氏は三井小石川家第8代当主・高景(三郎助)の三男。明治45年(1912年)家督を相続し、第9代当主となる。

 関係する人物

  • 山本悌二郎:台湾製糖(三井製糖の前身企業の一つ)の設立に参画し常務取締役支配人、社長。のち政治家。
  • 斎藤茂一郎:三井物産香港支店→南昌洋行。
  • 杉山茂丸:台湾製糖株式会社の設立に関わっている。
  • 山下亀三郎:渋沢栄一らと扶桑海上保険(現: 三井住友海上)を創立。山下汽船は合併を繰り返して現在は株式会社商船三井。
  • 第22代横綱・太刀山峯右エ門の所持刀・美濃兼白は三井家が明治44年(1911年)3月に太刀山に贈ったもの。※「著名人と刀」の項参照

 関連項目


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