布袋国広
- 布袋像を彫った堀川国広作の短刀
Table of Contents |
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布袋国広(ほていくにひろ)
短刀
銘 国広
刃長一尺二寸五分
- 差表に羂索と梵字、裏に太い樋のほかに月とそれを指した布袋像を浮き彫りにする。
- 中心に「国広」二字銘。
布袋国広(夢香梅里多)
- 平造り、差表に杖、裏に袋にもたれた睡り布袋和尚の像と「夢香梅里多」の五文字切符。
長さ区分「短刀」については重要美術品認定に従う。
- 中心表に「日州住信濃守国広作」、裏に「天正十八年八月日 於野州足利学校打之」と在銘
来歴
- 松浦静山によれば、鎌田魚妙著「本朝鍛冶考」には、「梅里多ノ上 夢香ノ二字アリ」「刃長壹尺五分」「松原氏所藏」と書かれているとし、わざわざその部分を「甲子夜話」に書き写している。※「梅里多ノ上」としているのは他意があるわけではなく、写しがページをはみ出しており「梅」より下しか入っていないため
この「松原氏」というのは不明。
林述斎らの話によれば津軽屋三右衛門の本姓ではないか(「然れば松原氏と冶考に載す者は津軽屋の苗字か」)としているが、下記でわかるように姓は「狩谷」で、屋号は「津軽屋」(天和年間は「米屋」)である。
初代三右衛門は寛永頃に三河から神田須田町へと移り住んで米穀商を営み、出身地三河刈谷にちなんで「小栗」氏を「狩谷」に改めている。天和2年(1682年)四代目三右衛門より津軽藩邸の出入りを許され、元文2年(1737年)に六代目三右衛門より「津軽屋」を許されている。宝永7年(1710年)に湯島一丁目に移っている。
いずれの記述も信じるとすれば、恐らく寛政8年(1796年)の「本朝鍛冶考」の刊行までに松原某という人物が所持していた時期があり、のち松浦静山らが会話する天保10年(1839年)までに津軽屋三右衛門へと移り、その後津軽屋の家業が傾き手放したのだと都合よく解釈すれば矛盾はなくなる。
- 天保10年(1839年)正月、幕府儒官・林述斎が肥前平戸藩主の松浦静山に見せた。林述斎が松浦静山に語ったところによれば、以前は津軽屋三右衛門所蔵だったものだが、最近困窮したため売りに出したのだという。
津軽屋三右衛門(12代)とは狩谷棭斎(かりや えきさい)(1775-1835)のこと。初名高橋真末、後に望之(もちゆき)。父は書物問屋仲間南組に属する書籍商・高橋高敏(代々、与惣次を称する。号 麦雨)で「青裳堂」という書肆を持っていた。寛政11年(1799年)12月21日に棭斎25歳で従祖弟で本家にあたる津軽屋三右衛門(八代)保古の三女・善(蓮法院)と結婚して養子となる。字は卿雲、別号に求古楼。この狩谷家は地廻米穀問屋一番組、脇店八ヶ所組米屋湯島組に属する米屋で、津軽藩御用達の裕福な商人であった。天保6年(1835年)閏7月4日没。
狩谷棭斎二女の俊は、伊沢蘭軒の二男で幕府の奥医師となった柏軒に嫁いだが、才女として知られ「今少納言」と呼ばれた。
狩谷棭斎 | 蔵書印の世界
※津軽屋三右衛門の代数が飛んでいるのは、同家長女・多仁に三谷勘四郎次男・成美を迎えて九代目(保邦)を襲名させたが早世。次は本町槌屋四郎兵衛次男勝三郎を迎えて十代目を襲名させたが、今度は多仁が病没し子がなかったため勝三郎を離縁。続いて三女・善に板倉屋助次を急遽配して十一代の襲名を届け出るも病臥中であることを知り取り下げ、改めて分家にあたる高橋望之(棭斎)を配したのだという。こういうドタバタを経て津軽屋三右衛門十二代が誕生した。
ただし津軽屋三右衛門が窮乏した(「近頃身上落魄シテ、竟ニ他手ニ渡ルト。」)というのは林述斎が言っている話であり、確認はできない。天明の打ち壊しの際にも弘前藩から足軽が多数派遣されて守られているほどである。棭斎の隠居は文化12年(1815年)~文化14年(1817年)とされているが、嗣子・喜太郎懐之は12(14)歳であり、実権は握っていたようで湯島の本宅で指揮を執っていた。浅草の隠宅へ移ったのは天保2年(1831年)8月とされる。死去は天保6年(1835年)閏7月。死去に伴って処分されたものなのかもしれない。
- この時の話によると、刀身の文字は足利学校の9世庠主(しょうしゅ)
閑室元佶三要 の筆、布袋は国広自身の像で、国広はかつて人を殺めたことがあるためその冥福を祈るためにこのような彫物をしたという。己亥正月愛日楼(※佐藤一斎)ヲ訪ヒシガ、幸ニ林内史(※林述斎)ノ在邸ニ遭テ相見シ、新歳ヲ賀シ、畢テ雅談ニ逮ブ、林曰、足下ニ一見セバ必ズ鏨識ヲ乞モノ有迚、一短刀ヲ出示ス、予即曰フ、我撃剣ヲ好ト雖ドモ鏨刀ニ於ル殊ニ暗シ、マズ其物ヲ観ントテ、中刃ヲ抜診ルニ彫画刻銘アリ、林又曰、コレ鍜冶国広ノ造ル所ニテ、国広ハ日向ノ産、コレヲ作ルハ野州足利ノ学校ニ於テス、其成ノ日ハ、神祖江戸ヘ初テ御入城ト同日トス、一奇ナリ、此時学校ノ主僧ハ三要ト云ルニテ、題字ハ則三要ガ句、画像ノ布袋ハ国広正ク己レガ肖ヲ刻セシト云。又国広嘗テ人ヲ害ス、因テ難ヲ避テ遠ク東野ニ隠レ、竊ニ僧ニ憑テ冥福ノタメコノ挙有リト。予聴歎シ、還テ諸書ヲ閲スルニ果シテ云々ヲ載シ。
(略)
林子曰、コノ刀モト世ニ識ル好事家ノ商、津軽屋三右衛門ノ所蔵ナリシヲ、近頃身上落魄シテ、竟ニ他手ニ渡ルト。然レバ松原氏ト冶考ニ載ル者ハ津軽屋ノ苗字カ、余ハ冶考ニ載ル所、悉ク林蔵ニ違ハズ、サレバ正シク此刀ゾ然リ。林述斎(はやし じゅっさい)は江戸時代後期の儒学者。大学頭家林家8代。父は美濃国岩村藩主松平乗薀(大給松平家4代)、祖父は享保の改革を推進した松平乗邑。松平定信の推薦もあり、林錦峯の養子となって血流が途絶えた林家を継ぎ、幕府の文書行政の中枢として幕政に関与した。松浦静山とは懇意の仲で、静山の著した「甲子夜話」は林述斎の勧めにより書き始めた随筆集である。従来林大学頭家は1523石だったが、述斎の代に3000石となり、座班も奥詰から奥詰小姓番頭次席に引き上げられた。林大学頭家は述斎の後、幕末まで述斎の血脈が続いた。
佐藤一斎は林述斎の弟子。生家佐藤家は代々述斎の生家である岩村藩大給松平家の家老を務める家柄。述斎の門人として塾長に就き、門弟の指導にあたった。林述斎の死後は昌平黌の儒官(総長)を務めた。門下生は3000人と言われ、弟子には、山田方谷、佐久間象山、渡辺崋山、横井小楠、若山勿堂、池田草庵、東沢瀉、吉村秋陽、安積艮斎、中村正直、林靏梁、大橋訥庵、河田藻海、竹村梅斎、河田迪斎、山室汲古、北條悔堂、森光厚、森光福、楠本端山など、いずれも幕末に活躍した英才が多数いる。また孫娘の士子(ことこ)は越前福井出身の実業家・吉田健三に嫁ぎ、のち吉田茂(内閣総理大臣)の養母となっている。
閑室元佶三要は安土桃山時代から江戸時代初期にかけての臨済宗の僧。閑室和尚、閑室元佶 。「庠主」とは学校長のこと。
元佶は、天文17年(1548年)肥前国晴気城主・千葉胤連の家臣・野辺田善兵衛(伝之助とも)の子として生まれた(千葉胤連の落胤ともいう)。父の善兵衛は、後の佐賀藩祖鍋島直茂が養家の千葉氏から実家の鍋島氏に復籍する際に、胤連から直茂に与えられた12人の家臣のうちの1人であった。
元佶は幼少時に都に上り岩倉円通寺で修行し、足利学校第9世の庠主となる。関ヶ原の戦いの折には徳川家康の陣中に随行し、占筮によって功績をたてた。江戸幕府開府後、以心崇伝とともに徳川家康のブレーンとして寺社奉行の任にあたり、西笑承兌の後を引き継いで朱印状の事務取扱の役目にも就いている。晩年は鍋島直茂より故郷に三岳寺を寄進され、三岳寺に赴いた。慶長17年(1612年)、死去。
- 昭和12年(1937年)ごろ迄、田安家(徳川伯爵家)蔵となっている。
小脇指
徳川伯爵家藏
銘 表ニ日州住信濃守國廣作、裏ニ於野州足利學校打之天正十八年八月トアリ
中心 生中心、目釘穴一個、莖長三寸四分五厘、中心棟小肉、先キ栗尻、筋違鑢
造リ 平造、刄長一尺○寸三分、反リニ分五厘、區ヨリ四寸五分上反リ最モ強シ
彫物 (表)杖、(裏)眠布袋及夢香梅里多ノ文字
徳川家のうち伯爵となったのは御三卿の三家のみ。御三卿のうち清水家は明治32年(1899年)に伯爵位を返上して昭和3年(1928年)に男爵となっており、田安家か一橋家の所蔵だと思われるが詳細不明。→ 田安家だそうです。
- 昭和8年(1933年)刊の「日本刀の近代的研究」でも田安家(徳川伯爵家)所蔵。
- 田安家では、大正12年(1923年)、昭和13年(1938年)に売立を行っているが、いずれにも本刀は出品されていない。
当時の田安家当主・徳川達孝は、十五銀行の倒産や家扶の不正などで経済的に逼迫し、二度の売立のほか、本邸をも慶應義塾に売却している。昭和12年(1937年)頃からは尾張家の徳川義親に家産の整理を相談し、債務の返済に成功した。邸宅売却後は実兄・徳川(家達)公爵家が構える千駄ヶ谷本邸の別棟で暮らした。 - 昭和12年(1937年)6月29日に重要美術品指定。三井高修所持。
短刀 銘 日州住信濃守國廣作 三井高修氏蔵
天正十八年八月日
於野州足利學校打之
法量 長一尺○三分 反二分五厘 元幅一寸強 元重ね二分強
品質形状 平造、庵棟、身幅広く先反り。鍛小板目地沸細かにつく。刄文互の目乱足。葉入り匂口締りごころに叢沸つく。帽子乱込み尖りて長く焼下げ、棟焼かゝる。彫物表杖陽刻、裏夢香梅里多の文字、下に睡布袋陽刻。茎生ぶ、先栗尻、鑢目筋違、表に長銘裏に年紀と添銘がある。
(昭和12年 文部省告示第二百七十號)
- 平成元年(1989年)に足利市民文化財団が取得。
- 現在は足利市民文化財団所蔵。
梅多里(みとら)
- 「夢香梅里多」について、足利学校では「うめかおるさとにゆめおおし」とふりがなをつけている。また栃木県の文化財解説ページでは、禅語というが明らかでないとしている。
- 佐藤寒山は「寒山刀話」において、夢ハ
香 バシ梅里ニ多シとしている。 - 一説には、「梅里多」とは正しくは「梅多里(みとら)」であり、布袋のことだという。※だから布袋像に添えられている。
- 布袋和尚は古代中国、唐末の実在の人物とされるが、彼が残した偈文に「弥勒真ニ弥勒」という句があったことから、実は布袋は弥勒菩薩の垂迹、つまり化身なのだという伝聞が広まったという。
弥勒真弥勒 分身百千億 時時示時人 時人自不識
(弥勒真ニ弥勒 分身百千億 時々、時人ニ示スモ 時人ハ自ラ識ラズ)
- 現在の日本において、布袋は七福神の一柱として信仰されるが、室町時代の禅僧万里集九の「梅花無尽蔵」には、布袋は「阿逸多(あじだ)」または「梅多里(みとら)」と号したとする。みとらとは、マイトレーヤ(Maitreya 弥勒)の音を写したものである。つまり弥勒菩薩であるということになる。
万里集九(ばんりしゅうく)
- 室町時代の臨済宗の僧、歌人。
- 近江国の速水氏の出身。
- 「万里」は道号、「集九」は諱。
- 京都の臨済宗東福寺の塔頭永明院の叔父・梅西のもとに寄寓して僧になったとされる。のち相国寺雲頂院で修行し、一山派の大圭宗价に師事し、大圭から「集九」の名を与えられたとされる。
- 相国寺は応仁の乱で兵火を被るが、それ以前に京都を離れており、還俗して
漆桶万里 と称して美濃鵜沼の承国寺に「梅花無尽蔵 」という庵を構える。この頃、美濃の斎藤妙椿とも交友があったという。
- 文明17年(1485年)10月には太田道灌に招かれて江戸城に滞在している(この時江戸城内の寓居にも「梅花無尽蔵」と名付けている)。道灌が暗殺された後、長享2年(1488年)8月再び美濃に戻っている。
- 著作に詩文集「梅花無尽蔵」(庵名に同じ)など。
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