藤戸石

藤戸石(ふじといし)  

天下の名石
天下人が所有する石
浮洲岩(うきすいわ)とも

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概要  

  • 藤戸石は、現在京都醍醐寺三宝院の庭園の主石として設置されている名石。
  • その歴史的な経緯から、「天下人が所有する石」とも呼ばれる。
  • 元は岡山県倉敷市藤戸町にあったもので、それを足利義満が鹿苑寺金閣へ取り寄せ、その後細川管領家、二条城、聚楽第、醍醐寺三宝院へと移されてきた。

藤戸の戦い  

  • 源平の合戦の折、備前国児島の藤戸(現在の岡山県倉敷市藤戸町)において、「藤戸の戦い」(藤戸合戦、児島合戦)が行われた。
  • 寿永3年(1184年)2月「一ノ谷の戦い」で敗れた平氏は西へ逃れるが、瀬戸内方面を経済基盤としていたために、備前備中などの豪族も大半が平氏家人であり依然として瀬戸内海の制海権を握っていた。
  • 元暦元年(1184年)9月、源範頼率いる平氏追討軍は京を出発して西国へ向かい10月には安芸国まで軍勢を進出させるも、屋島から兵船2000艘を率いて来た平行盛によって兵站を絶たれてしまう。さらに平行盛は備前児島(現在の児島半島)の篝地蔵(かがりじぞう)に500余騎の兵を入れ山陽道を防衛させたため、源氏は攻めあぐねる。
  • この時に追討軍(源氏方)の佐々木盛綱は、地元の漁夫から浦が浅瀬になることを聞き出す。その浅瀬の目印が地元で「浮洲岩(うきすいわ)」と呼ばれていたという。
  • 平氏方に漏れることを恐れた佐々木盛綱はその漁夫を殺してしまい、元暦元年(1184年)12月7日、その浅瀬を騎馬で渡り対岸の平氏軍に先陣をかけると源氏方がそれに続き、一気に平氏を追い落としてしまう。
  • この時に盛綱に浅瀬を教えた漁夫の悲劇は、謡曲「藤戸」および「平家物語」で取り上げられ、藤戸の名は全国的に知られることになる。

藤戸石  

  • 目印となった「浮洲岩」は、その一番乗りを果たした佐々木盛綱の逸話と、形の珍しさから名石として珍重される。

足利義満(鹿苑寺金閣)  

  • 「藤戸の戦い」から150年ほど経った建武年間(1334~1338)に謡曲「藤戸」を見た3代将軍足利義満が取上げ北山殿(鹿苑寺金閣)へ移したとされる。

足利義政(慈照寺銀閣)  

  • その後、8代将軍足利義政の時に東山殿(慈照寺銀閣)へと移され、さらに12代将軍足利義晴の時に細川高国(野州細川家に生まれ、細川氏嫡流である京兆家を継いだ)へと譲ったという。

織田信長(二条城)  

  • のち、織田信長が永禄12年(1569年)に15代将軍足利義昭の居城二条御所を作る際、細川藤賢(細川典厩家、室町幕府最後の管領細川氏綱の弟)の屋敷の庭にあった、この「藤戸石」が使われた。

    かくれなき藤戸石を。上京細川殿屋敷より室町畠山様御屋敷へ信長公(三宝殿)御引なさるゝ

  • 石を運ぶ作業の指揮は信長自らが行い、石を綾錦(あやにしき)に包み、三千人の人夫を使い、笛や太鼓ではやし立てながら二条城へ移したという。

    御殿の御家風尋常に金銀をちりばめ、庭前に泉水、遣水、築山を構へ、其の上、細川殿御屋敷に藤戸石とて、往古よりの大石候。
    是れを御庭に立て置かるべきの由にて、信長公御自身御越しなされ、彼の名石を綾錦を以てつゝませ、いろいろ花を以てかざり、大綱余(あまた)付けさせられ、笛、太鼓、つづみを以て囃し立て、信長公御下知なされ、即時に庭上へ御引付け候。

    其御普請の時。 大石の數百人しも引かぬが有けるを。 信長公さひを取て。 たゞ一 聲えいや聲を出し給ひければ。鳥の飛がごとく行けるとなり。

この時、信長は藤戸石以外の名石を集めており、慈照寺からは九山八海石を移している。

豊臣秀吉(聚楽第、醍醐寺三宝院)  

  • その後豊臣秀吉が聚楽第を造る際に移築され、さらに醍醐寺三宝院の庭園へと移った。

    九日晴、金剛輪院(醍醐寺三宝院)泉水へフヂト大石今日居了、主人石ニ用之、奉行新庄越前(越前守直忠)、此外大石三ッ立之、手伝三百人来

  • 醍醐寺の由来と醍醐寺に移すきっかけとなった「醍醐の花見」についてはの項を参照。


現在  

  • 藤戸石は、歴代の武将に引き継がれたことから「天下人が所有する石」、「天下の名石」と呼ばれ、現在も醍醐寺の三宝院庭園の主人石として残る。
  • また藤戸石のあった海岸線はその後大きく変化し、現在は岡山県倉敷市北東部の田園地帯の真ん中に浮洲岩跡が残されている。