愛染国俊

愛染国俊(あいぜんくにとし)  

短刀
国俊
長28.7cm、反り0.2cm
重要文化財
株式会社ブレストシーブ所蔵

  • 享保名物帳所載

    愛染国俊 長九寸五分 代三千貫 松平加賀守殿
    秀吉公の御物なり森美作守殿拝領其後御遺物として家光公より加州御家へ下さる利綱公御目見のとき拝領と云、表裏棒樋并添樋、忠表に愛染の彫物あり

  • 平造、庵棟。表に素剣、裏には棒樋と腰樋の彫り物。
  • なかご生ぶ、鑢目切る。目釘孔の上に愛染明王の毛彫り。目釘孔下に「國俊」の二字銘が入る。
  • 俗にいう二字国俊(来国俊)の作であり、在銘の短刀は稀有とされる。

由来  

  • 名は、なかごの表に刻まれた愛染明王の彫り物による。

来歴  

  • もとは秀吉が所持したが、その後家康に渡り、元和2年(1616年)に大坂の役で戦功のあった森美作守忠政に下賜されたと伝わる。

    森忠政美作守、元和二年東照宮より愛染国俊の御脇差をたまはり、そののち青木肩衝の茶壺、また銀つくりの鉄砲二挺をたまふ

    池田忠継が5歳で備前岡山城主となり、後見を頼まれた際に拝領したものとも伝わる。池田忠継の母は家康の次女督姫で家康の外孫。忠継は森忠政の娘と婚約していた。慶長19年(1614年)に父輝政が死ぬと家督を継ぎ大阪冬の陣にも参加するが、帰城後発病し翌年17歳で死去。

  • ただし天正15年(1587年)までの刊とみられる「本阿弥光温押形」や「本阿弥光柴押形」ですでに「森右近殿有之」と書かれているため、徳川家経由ではなく秀吉から直接森忠政に下賜されたものと思われる。
    さらに「本阿弥光瑳押形」では「作州侍従ドノ所持」と変る。森忠政が右近大夫に任じられるのは天正14年10月6日、侍従は同15年2月6日。また信州川中島転封は慶長5年(1600年)、美作一国支配は関ヶ原を経て小早川秀秋死後の慶長8年(1603年)であるため、前2者の押形は天正13年10月~15年2月の間の刊行、光瑳押形はそれ以降の慶長期ということになる。
     小牧長久手の戦いの後、家康が大坂に登ったのが天正14年(1586年)10月末、この時はすぐに三河に帰国し、再び上洛するのは翌年8月である。「元和2年」が誤りとしても、この時期までに家康を介して森家に伝来するというのは考えにくい。
  • 寛永11年(1634年)7月7日の美作守森忠政の死後、遺物として将軍家光に献上される

    忠政君遺物、愛染国俊の小脇差、青木肩衝茶入、北澗墨跡、右三品将軍家へ献上也

  • 家光はのち、前田光高に嫁いでいた大姫(水戸頼房娘、家光養女)が、出産した長男綱紀を伴い正保元年(1645年)2月に登城した際に、この「愛染国俊」を贈っている。

    (正保元年二月)十二日大姫の御方。犬千代丸(後の前田綱紀)をともなひてまうのぼり給ふ。犬千代丸誕生の後はじめてまうのぼりければ。愛染國俊の御刀をたまはり。若君より包家の御刀給はる。犬千代丸より太刀。銀三百枚。小袖三十。三種三荷。若君へは太刀。銀二百枚。小袖十。三種二荷献ず。父の松平筑前守光高は御座所にて拝謁し御盃下され。太刀。銀二百枚。錦百把献ず。

    大姫は水戸徳川家頼房の四女。初名は糸姫、亀姫、阿智姫とも。寛永9年(1632年)12月13日、徳川家光の養女となり大姫と名を改める。翌寛永10年(1633年)12月5日、前田光高に嫁した。家光が薨去した際には、家光の実子である千代姫(尾張光友の正室)と同じく2万両と茶壺一つを賜っており非常に可愛がられた。
     いっぽう前田光高の母は徳川秀忠の娘天徳院珠姫。珠姫の弟が家光であり、将軍家と前田家は深い縁戚となる。なお前田光高はこの登城の2ヶ月後の正保2年4月5日に急死した。

  • 以後前田家に伝来する

    御拝領名物 愛染国俊 銘有 九寸五分 百枚代付

  • 昭和10年(1935年)4月30日に旧国宝重要文化財)指定。前田利為候爵所持。
  • 昭和40年頃には大野達氏蔵


大名物「青木肩衝」  

  • 愛染国俊と同時に拝領し再度献上されている「青木肩衝」は茶器の名物で、元は青木民部法印浄憲が所持していたもの。後に明智光秀が所有し、その後徳川家康の手に入り美作守忠政が愛染国俊と同時に拝領する。
  • 将軍家に戻った後に後藤庄三郎が拝領し、最終的には播磨姫路酒井家(酒井雅楽頭家の宗家)へと下賜された。