富田一白

富田一白(とみたいっぱく)  

安土桃山時代の武将
伊勢安濃津城城主
平右衛門尉・左近将監

生涯  

  • 近江出身で、本貫地は近江浅井郡富田荘という。※諸説あり。
  • 当初は織田信長に仕えていたが、本能寺の変後は羽柴秀吉に従ったという。天正元年(1573年)に秀吉に仕官したともいう。
  • 秀吉の外交使節として様々な外交文書で名前が登場しており、小牧・長久手の戦い後の徳川家康・織田信雄との和議の使者や、それに続く秀吉の妹・朝日姫と家康との縁組の実現、小田原征伐のきっかけとなった上野名胡桃城争奪戦における北条氏直への問責とその後の伊達政宗との奥州仕置に関する交渉などを担当している。
    この時の縁か、伊達政宗に「鎺国行」を贈る際の手紙も一白が出している。
  • 秀吉の御伽衆として活躍し、徳川家康との仲介役も務めた。また、秀次事件で浅野長政が謹慎を命じられた際には五奉行の職務を代行している。
  • 天正18年(1590年)、秀吉により豊臣姓を下賜される。
  • 慶長4年(1599年)に死去し、嫡子・信高が家督を継いだ。

刀剣  

富田江 

  • 一白が所持したために富田の名を冠せられる。郷義弘の作中、出来および健全さにおいて稲葉郷(稲葉江)と双璧をなす。現国宝前田育徳会所蔵

篭手切正宗 

鉈切当麻 

  • 五男佐野信吉が継いだ下野佐野城主佐野家に伝来したともいう。

鳥養国俊 

逸話  

茶道  

  • 津田宗及や豊臣秀吉の催した茶会にたびたび招かれており、茶道に造詣が深い。

秀吉の肖像画  

  • 白い衣冠束帯姿の秀吉像は、秀吉薨去の翌年慶長4年(1599年)に富田一白が秀吉を偲んで狩野派の絵師に描かせたものである。西笑承兌の画賛が入る。
    重文の秀吉肖像画は5点残るが、この作品が一番大きく鮮明であり、教科書に載る。
  • 嫡男の富田信高が宇和島に入城した際に父の菩提寺として建立した金剛山大隆寺に寄進し、幕末に第8代宇和島藩主伊達宗城に献上された。
  • 2015年、京都国立博物館の調査により筆者が特定され、狩野永徳の長男狩野光信とされた。
  • 現在は国指定の重要文化財で、宇和島伊達文化保存会所蔵

関ヶ原の戦いでは東軍  

  • なお、同じ近江出身の石田三成とは折り合いが悪かったといい、長男富田信高、五男佐野信吉は東軍に属している。小田原征伐ごろまで東北の大名の取次であった富田一白は、方針の違いから三成や増田長盛ら強硬派と対立し、その後失脚したという。
  • ※富田高定も東軍前田利長に属して大聖寺城を攻めるが戦死した。

系譜  

長男:富田信高  

  • 関ヶ原前哨戦となった安濃津城攻防では、信高は城兵1700で西軍3万を迎え撃ち奮戦するも、木食応其が仲介となって西軍との和平交渉が成立。信高は一身田の専修寺で剃髪して高野山に登っている。
  • 戦後、家康よりその功績を認められ、旧領の安堵のほか伊勢国内に2万石を加増され、慶長13年(1608年)9月15日、伊予宇和島藩10万1900石に加増移封されている。
  • しかし、慶長10年(1605年)頃に義弟坂崎直盛の家臣を殺した宇喜多左門(直盛の甥)を隠蔽したことで直盛との間に争いが生じたことから、慶長18年(1613年)に家康と秀忠の裁定により改易され、磐城平藩鳥居家にお預けとなった。

富田高定  

  • 富田高定ははじめ豊臣秀次の重臣。
  • 秀次が三好康長の養子となった頃から秀次の近侍として仕えており、秀次の精鋭部隊と称された若江八人衆(または若江七人衆)の一人として数えられることもある。
  • 文禄4年(1595年)に秀次が豊臣秀吉の命で切腹すると、追腹を行おうとするが咎められ、京都西山に幽居した。しかしその将才を惜しまれ、前田利長に一万石で召し抱えられた。
  • 関ヶ原の戦いでは東軍に属した前田利長配下の侍大将として出陣し、小早川秀秋の附家老山口宗永が籠もる加賀大聖寺城の戦いで戦死した。

五男:佐野信吉  

  • 富田一白の五男として生まれるが、天正20年(1592年、12月に文禄に改元)9月22日、佐野房綱の養嗣子となって佐野政綱と名を改め、佐野氏の家督を継ぐ。
  • 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与したため、戦後に所領を安堵されている。
  • 慶長19年(1614年)3月に江戸で火災が起きた際、自領の下野佐野から江戸に急行し消火作業に活躍するが、これが逆に無断参府として幕府に咎められた。
  • 伊予宇和島藩主の兄富田信高の改易に連座する形で同年7月に改易され、慶長19年(1614年)、嫡男の久綱とともに信濃松本藩に預かりの身となった。

関連項目