石灯籠切虎徹

石灯篭切虎徹(いしどうろうぎりこてつ)  


銘 長曽根興里入道乕徹/石灯篭切
名物 石灯籠切
磨上二尺一寸二分

  • 目釘孔4個、上から2番目を埋める

由来  

  • 五千五百石の旗本、久貝因幡守というものが長曽根虎徹に刀を注文したが、打ち終わったところで虎徹が代金として百両を要求すると旗本が出し渋り、値切ったという。
  • 虎徹は怒り「私は何百両出しても打たぬものは打たぬ。その代わり切れ味はご覧のとおりだ」といって庭の松の太枝を切ってみせたところ、勢い余ってそばにあった石灯籠まで切り込んだという。
    • 湯島天神の石灯籠ともいう。
  • のち旗本が百五十両もってきたが、頑として売らず別の人間に渡してしまったという。
    この「久貝因幡守」についてはよくわからないが、旗本に藤原氏支流の久貝氏がいる。先祖である藤原民部卿時長の息子左衛門尉時兼が越前乙訓郡を受領し久貝氏を名乗ったという。久貝正俊(法名道無)は天正9年(1581年)生れで慶安元年(1648年)没、寛永2年(1625年)に従五位下因幡守を受領している。初代乕徹ならこの人物か、または正俊の子、正世の養子となった久貝正方(号 意閑)ではないかと思われる。
     久貝正方は、慶長18年(1613年)旗本形原松平家の生れで、のち正世の養子となる。火付改役から勘定奉行を務め、元禄12年(1699年)に従五位下因幡守。享保4年(1719年)没。
     なお久貝正方にも嗣子なく水戸家臣久貝太郎兵衛正武の子正順(法名閑更)が元禄11年(1698年)生れでのち養子となっている。御書院番頭を務め元文元年(1736年)に従五位下因幡守。元文5年(1740年)に没。寛政重脩諸家譜で因幡守になった旗本久貝氏はこの3名しか見えない。

来歴  

  • 明治期には細川子爵家の所有となっている。
  • 戦前、細川利文子爵が所持していたが、その後は不明。