岩切藤四郎

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岩切長束藤四郎(いわきりながつかとうしろう)  

短刀
銘 吉光名物岩切長束藤四郎)
七寸六分五厘(23.3cm)
重要文化財
東京国立博物館(渡邊誠一郎氏寄贈)

  • 享保名物帳所載

    岩切藤四郎 長束藤四郎とも云 在銘七寸六分半 代金七十枚 奥平美作守殿
    岩切と名けたる子細知れず、秀吉公の御物なり、長束大蔵と云仁拝領にて所持、表刀樋裏護摩箸有之

    • 長束大蔵は豊臣家五奉行の長束正家。
  • 平造り、庵棟、表に棒樋、裏は護摩箸を彫る。鋩子は小丸浅く返る。

由来  

  • 岩切」の由来は、むかし本刀を所持した人物が、船旅の際に暴風に襲われた時、本刀を岩に突き立てて船を繋ぐことで難を逃れたためという。
  • また長束正家が所持したために「長束藤四郎」ともいう。
    一般に長束正家は”なつか”と読まれるが、ここでは文化財登録に従う。

来歴  

秀吉→長束正家  

  • 関ヶ原の後、正家は水口城で自刃。

福島正則  

  • のち福島正則が入手し子の市之丞正利に伝わるが、嗣子がなく断絶。
  • 別本によれば「福島左衛門大夫殿所持、子息市之丞迄伝る、寛文十二年奥平殿より代付吟味に来る」という。
  • 子息市之丞とは福島正利のこと。寛永元年(1624年)に父福島正則が死去した際に、幕府の許可無く父の遺体を無断で火葬したために改易となる。福島正利は、取りなしを願い出て、正則の遺物を各所に献上しており、その結果幕府は父の旧領から3112石を与えて旗本としている。

    十三日先に信濃國川中島高井野村に配流有し福島左衞門大夫正則。今年六十四歳にて死しけるにより。堀田勘左衞門正吉を検使に遣はさる。然るに正則が家士津田四郎兵衞。検使來着をまたずして。同國高井郡鴈田村巖松寺に於て遺骸を茶毘せしかば。正則配所にて賜はりし四萬五千石を收公せらる。長子備後守忠勝は四年前にうせければ。庶子市之丞正利に三千石下され祀を奉ぜしめらる。但し正則が遺物とてあふらの茶入、大光忠の刀、大森義光の脇差を献じ、大御所(秀忠)にきのめ肩衝、正宗の刀、青江国次の脇差を捧げ、甲府中納言忠長卿にも切刃貞宗の刀、たゝがう吉光の脇差、修理肩衝を進らせしとぞ

    • 将軍徳川家光に大光忠の刀、大森義光の脇差、あふら茶入
    • 大御所徳川秀忠に正宗の刀、青江国次の脇差、木亘肩衝
    • 家光の弟徳川忠長に切刃貞宗の刀、吉光の脇差、修理肩衝

奥平家  

  • この時に奥平家に伝わったと思われる。

    一、岩切藤四郎吉光小脇差
    往古或人船中ニテ悪風ニ逢ウ時、此吉光之小脇差ヲ岩ニ突立テ船ヲ繋ギテ難ヲ逃ル故ニ岩切藤四郎ト称ス。一名長束吉光トモ云。古長束氏ナル故ニ称スル也。箱ノ銘本阿弥光悦ガ書ナリ。

  • 寛文12年(1672年)、奥平家から本阿弥家に出され、金七十枚の折紙が付けられた。
  • 国宝指定を受ける。
  • 昭和18年(1943年)の「山城物刀剣特別展観」では奥平昌恭氏蔵。

    十五 國寶  短刀 銘 吉光  東京都 伯爵 奥平昌恭氏蔵
    寸法 七寸六分五厘


福島家  

  • 福島正利は寛永14年(1637年)12月8日に死去。享年37。正利に嗣子は無く福島氏は断絶した。
  • のち、天和元年(1681年)正利の甥福島正長(正利の兄忠勝の子)の長男正勝が2,000石の旗本として取り立てられ、福島氏は再興された。

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