長銘正宗
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大坂長銘正宗(おおさかちょうめいまさむね)
- おおさかながめいまさむね
由来
来歴
- もとは細川幽斎の所持だったが、秀吉に献上された。
- 秀吉はこれを一之箱に納めた。
長銘正宗 八寸六分 銘 相州住正宗 嘉暦三年八六月日
- 秀頼に伝わり、慶長17年(1612)正月に埋忠寿斎に命じて金具を造らせている。
秀頼様 寿斎金具 慶長十七年正月仕申候 長めい長八寸三分大坂ニテ焼ケ申候
- 2年後の大坂冬の陣の直前の慶長19年(1614年)11月、秀頼は長崎の商人高屋七郎兵衛に手紙とこの短刀を持たせ、薩摩の島津家久を大阪方へ勧誘しているが家久はこれを断っている。11月1日に家久より家康に其の旨報告を行っている。
島津陸奥守使者来申云、去比従大坂、長崎往来商人高屋七郎兵衛、以秀頼公黒印并長銘正宗脇指令持参、今度就一儀、陸奥守可頼之由申来、陸奥守返答云、於薩摩關か原以来流牢之處、大御所以御恩、本領安堵、然者大坂同心之儀不成由、七郎兵衛依商人不殺之、彼脇指返之旨言上、彼書者使者持参、本多上野介披露之云々(駿府記)
島津家文書にも同様の記述が残る。「正宗長銘之御脇指拝領、誠に雖奉存忝候、右之御理ニ候間、致返上候、可然様ニ、可預御披露候、恐々謹言、十月十二日島津陸奥守家久 大野主馬殿」(島津家文書 一五三一)
- 再び一之箱に収まったが、大坂夏の陣で焼けている。
- 長銘正宗は焼け跡から掘り出されるが、再刃されずそのまま尾張徳川家に遺された。
- 現存し、徳川美術館所蔵。
江戸長銘正宗(えどちょうめいまさむね)
短刀
銘 相模国鎌倉住人正宗 正和三年十一月日
九寸六分
- えどながめいまさむね
由来
- 長い銘が切られているため。
- これより前に「大坂長銘正宗」があったため区別するために「江戸長銘」となっている。
来歴
- 前田利常が慶長19年(1614年)に左少将に進んだのを祝して9月9日秀忠から下賜。
九日重陽例のごとし。松平筑前守利常左近衞權少將にのぼる。長銘正宗の御脇差をたまふ。
- 寛永6年(1619年)4月26日家光が利常の別邸に臨んだ時に献上している。
- 明暦の大火で焼失し、その後廃棄されたと見え、「将軍家御腰物台帳」にも記載がない。
柴田長銘正宗
- 大坂・江戸長銘正宗とは別の、柴田勝家が所持したという長銘正宗。
来歴
- 本能寺の変後に秀吉が光秀を討つと、柴田勝家との間に緊張が走り始める。
- 柴田勝家が前田利家を使者に立てて親善の申し込みをしてきたので、秀吉は喜んでそれを受け、利家に腰に差していた相州正宗を贈った。利家も返礼に長谷部の脇差を贈っている。
- さらに秀吉は、答礼のため異母弟の羽柴秀長を勝家のもとに派遣する。
- 勝家はこれに喜び、秀長に郷義弘の小刀と相州正宗の刀を与えている。
- 勝家の元を辞する時、秀長は秀吉の命により長銘正宗の脇差を勝家に贈っており、勝家は今まで差していた脇差を取った上でその正宗を指し、満足の意を表した。
- しかしその後二者の対立は避けられないものとなり、天正11年(1583年)4月24日、柴田勝家は城に火を放ち自刃する。
- 長銘正宗もその時消失した。